忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

5

スペクタクルは、視覚/ヴィジョンの世界の濫用や、イメージの大量伝播技術の産物として捉えることはできない。そうではなくむしろ、スペクタクルとは、実効的で、物質的に翻訳された世界観Weltanschauung である。対象化/客観化されたのは、世界についてのヴィジョンなのだ。

PR

4

スペクタクルはイメージの集合体なのではない。そうではなく、それは、イメージに媒介された、人々の間の社会関係なのだ。

3

スペクタクルは、社会それ自体として、あるいは社会の一部分として、またあるいは統一化の道具として、その身を同時に現す。社会の一部分としてのスペクタクルは何よりもまず、すべての眼差し、すべての意識を引きつける部門である。そして、まさにこの部門が分離されてあるという事実によって、スペクタクルは、弄ばれた眼差しと偽の意識が作る場となる。そして、スペクタクルが成し遂げる統一化はと言えば、それは一般化された分離の公用語に他ならない。

2

生のあらゆる側面から切り離されたイメージは、一つの共通の流れの中で混じりあう。その共通の流れの中ではもはや、生の統一は再建されえない。部分的に考えられた現実は、それから分離した、ただ凝視されるだけの偽の世界として、それ自身の一般的統一性において展開される。世界のイメージの特殊化は、完成された形で、自立的イメージの世界に見出される。そこでは、嘘つきが自らを欺く。一般的に見た、生の具体的な転倒たるスペクタクルは、非-生の自立的運動である。

1

生産の近代的条件が統べる社会において、すべての生はスペクタクルの巨大な集積として現れる。かつては直接に経験されたものは、いまや表象の中に遠のいてしまった。

第一章 達成された分離

だが確かに、われわれの時代は……実物よりイメージを、オリジナルよりコピーを、現実より表象を、本質より見かけをより好む。……幻想こそがそれ自体神聖なものであり、真理とは世俗的なものの謂いである。それどころか、真理が減衰し、幻想が増大すればするほど、神聖さは大きくなる。つまり、幻想の極みとは、神聖さの極みでもあるのだ。

フォイエルバッハ、『キリスト教の本質』第2版への前書き

ギー・ドゥボールの主著『スペクタクルの社会』を、ちょっと訓詁学的に、でもときには強引な解釈や見解を添えて読んでみたいと思う。

カレンダー
02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
最新コメント
最新トラックバック
メール
ブログ作成者(はやし)に直接訴えたいことがある、という場合は、下のアドレスにメールをどうぞ。

thayashi#ucalgary.ca
(#を@に置換してください)

ブログ内検索
Google
WWW を検索 このブログ内を検索

はやしのブログ内で紹介された
 書籍の検索はこちら
 音盤の検索はこちら
ランダムおすすめ
(忍者ブログに引越してから、うまくうごかなくなってしまいました。いつか、直します)
Randombook
このブログで紹介したことのある本をランダム表示。
Randomusic
このブログで紹介したことのある音をランダム表示。
自分がらみのリンク
はやしのブログ書籍一覧
このブログで言及された書籍の一覧。
はやしのブログ音盤一覧
このブログで言及された音盤の一覧。
最近のおすすめ本
最近のおすすめ音

Copyright © [ はやしのブログ ]
No right reserved except those which belong to someone else.
Special Template : 忍者ブログ de テンプレート and ブログアクセスアップ
Special Thanks : 忍者ブログ
Commercial message : [PR]