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「いっちょルーマニア語をちゃんとやってみようかな」という言を実行に移し、ちょこちょこルーマニア語を勉強しているのだけど、その勉強の一環としてシオランをルーマニア語で読んでいる。それで、シオランのルーマニア語原文を読んでは「答え合わせ」のような感じでそのフランス語訳を読むと、ルーマニア語原文とフランス語訳で異なる部分がけっこう目につく。例として、シオランの最初の本である『絶望のきわみで』の劈頭におさめられている「リリカルであること」のルーマニア語原書1ページ目と、その部分に該当するフランス語訳を、以下に訳してみる(訳にさいして、ルーマニア語原文とフランス語訳のちがいを埋没させないため、あえて直訳をこころがけた)。
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 世の中の一般的な価値観で言うと、本を読んだほうが本をあまり読まないよりも教養が身につき、思考が深くなって、人生が豊かになると考えられています。
 でも、僕は小説や詩を読むことで、心が何かしら豊かになるということを盲信的に信じている人がいたら、少し危険だと思います。「豊かになる」ということほど、あてにならない言葉はないからです。もちろん、本を読むようになって、世間一般の人があまり考えないことを考えるようになったという利点はあるでしょう。でも、そうした利を得ると同時に、毒もまた得ると考えたほうがいいと僕は思っています。
(中略)
 たとえば、本をよく読むようになってから、実業的な利益に対してあまり関心がなくなるということがあるでしょう。情念の移り変わりや感覚のすばらしさに惹かれて、現実離れしたものが好きになっていく人はよくいます。たしかに、高度な感覚や心を持ち得ることで、人間としてよくなるという観点もありますが、その一方で、毒がまわっていることにも注意しなければなりません。
 小説によっては、犯罪や人間失格的なものに価値を見出す内容のものもあります。それを読んで心を動かされることはあり得るでしょう。そして、現実世界でも人間失格的なものを目指そうとする。これを、毒がまわったととるか、人間として高度になったと解釈するか、人によって意見は分かれるかもしれません。ただ、どちらにしても確実なのは、何かに熱中するということは、そのことの毒も必ず受けるということです。
吉本隆明『真贋』

こういうことををわきまえずにむやみやたらと本を読むことをすすめるのはたんに無責任なだけだ。

本を読むということがときに、「身の壮健も健常の視力も人との温かい靭帯もすべて奪われ、それに気付いたとしてもすでに頽齢も重ねて戻ることもならない」という帰結を生むということを知るもののみが、その門に人を導きいれるがよい。
つねに手もとに置いて「読む」本は、せいぜい50冊ぐらいにしたい。

「読む」のではなく「使う」本は、使い終わったらさっさとスキャニングして、捨てるなり誰かにあげるなりしたい。

読む本や使う本をあわせても、家に置いておく本は最大100冊程度にとどめたい。

本が好きでもなんでもないのに本に囲まれて暮らすというのは、不幸以外の何ものでもないから。
じつに13年ぶりにニューアルバムをリリースするエイフェックス・ツインのインタビュー記事が Pitchfork に載っていたので、訳してみました

つうか、子どもが──それも複数人──できてたんですね。他人ごとながら、何だか感慨ぶかい。
あらゆる重苦しさをぼくは拒否する。
かろやかに跳べばいい。
世界がどうあるかということが神秘なのではない。
世界があるということ、それ自体がそもそも神秘なのだ。
(ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.44 節)

「うそのようなほんとうのこと」──いくら考えても思いうかばない。これはたぶん、「世界」というものをそもそも「ほんとうのようなうそ」と受けとってしまう「くせ」のようなものが、「うそ」と「まこと」のあわいをにじませ、結果、「うそのようなほんとうのこと」を思いうかばなくさせているのだと思う。

正確にはいつのころかは忘れてしまったけど、小学校に上るまえには「言葉が通じない」という可能性に怯えていた。「言葉が通じない可能性に怯えていた」と言っても、「ある言明が誤解されて受けとられる」という個々具体的な言明に依存するような「通じなさ」に怯えていたのではない。そうではなく、「そもそも言葉で何かを伝えるというのは不可能なのではないか」という普遍的な「通じなさ」の可能性、ちょっと賢しらな言い方で言うと「コミュニケーションの根源的不可能性」、そんなものに怯えていたのだ。

そういう「言葉の通じなさ」から、つぎのような「世界の受けとりの不定性」まで、道のりはそう遠くない。たとえば、ある人が A というもの/事象を見て B という感覚印象を受けとり、それを C として表すとする。そのとき、ぼくがその A について B'(ここで B≠B' とする)という感覚印象を受けとり、それを C と表すとするならば、そのある人とぼくのあいだでは、世界の感受および表出について食いちがっているにもかかわらず、話は食いちがうことはなく、さらには、「じつは世界の感受とその表出がきみとぼくとではちがっている」ということの立証も、ほぼ不可能に近い。

「うたがいの道」はさらにつづく。上の例では、「世界」や「きみ」の存在はうたがわれてはいなかった。でも、「きみ」や、さらには「きみ」やぼくが住まうとされている「世界」はぼくのたんなる妄想で、ほんとうは「世界」や「きみ」なんてものは存在しないのかもしれない。こういう「うたがい」は、ぼくぐらいの世代だと「ドラえもんは植物人間になったのび太の夢の産物だった」という都市伝説や、あるいはそれなりに最近だと映画『マトリックス』の設定などによっていっぱんにもよく知られるところになったとは思うけど、それをどれくらい真正面から受けとるかは、人によって差があるだろう。

ぼくは、そういう「うたがい」を、真正面から、もろに受けとってしまった。もちろん、日々を暮らすなかで、そうした「うたがい」が前景化されることはあまりない。それでも、日々の後景で、それら「うたがい」がうごめくのを感じる。いや、もし「世界」が存在しないとすれば、「後景」なんてものも存在しないだろうから、目に映る(とぼくには感じられている)「世界」のすきまから「漆黒の無」がちらちら顔をのぞかせているのが感じられる、と言ったほうがいいかもしれない。とにかく、そんなわけで、「生きる」ということはぼくにとってはどこかよるべないこととしてある。

だから、もし「世界」がほんとうに存在し、そして「きみ」とぼくがほんとうに分かりあえているということが証だてられるのだとしたら、それこそ「うそのようなほんとうのこと」なのだけど、そんな日はいつまでたっても訪れそうにない。
おれは、哲学はそれほど好きではなかったんだな、ということ。

そして、ほんとうに好きなのは数学だったんだな、ということ。
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