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マイルドヤンキーとしての自覚(ぼくの「マイルドヤンキーとしての気づき」についてはこちらの記事を参照)をたかめるべく読んでいた『ヤンキー経済』で西野カナという人が「マイルドヤンキー女子の心をふるわす歌姫」という位置づけで紹介されていたので、彼女のおそらくは現時点での最新アルバムであろう Just LOVE を聴いてみたんですが……。

いや、わるくないじゃないですか。声もいやな感じじゃないし、何よりアルバム全体がていねいにつくられてますよ。『ヤンキー経済』によると「歌詞がイタい」とのことでしたけど、ポップミュージックの歌詞なんてだいたいにおいて「イタい」もんだし、そもそもそうした「イタさ」への感応をたのしむというのもポップミュージックの醍醐味だったりするので、そういう「イタさ」にかんしてぼくはぜんぜん気になりませんでした。

さて、次はいよいよマイルドヤンキーミュージック本丸の Exile でも聴いてみますかね。
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90年代、同時代の音楽はメインストリームのそれはいうにおよばず、「メインストリームからちょっとはずれるけどそれなりに有名」というものもほとんどきかなかった。だから、一般的にいって、ぼくの90年代における同時代的音楽経験は空白というにひとしい。

90年代というとぼくの高校大学時代とほぼかさなっており、高校のころはプログレ(レコメン系および非=英語圏もの)とクラシック(ひと通りいろいろきいたけど、最終的にはバッハをいちばんよくきいていた)、大学のころは現代音楽と抽象的な電子音楽(いわゆる「音響系」)をおもにきいていて、そんなわけだから、いまにいたるまでオアシスとかラジオヘッドとか、ほとんどまともにきいたことがない。

ゆいいつの例外は卒論をかいていたときのことで、卒論をかきながら J-WAVE をなぜだかよくきいていたから、そこで流れていたチャラだのウーアだのコーザ・ノストラだのは耳なじみがあり、そのなつかしさもあってか、それらの人たちの音盤はいまでもたまにきいたりしている。(J-WAVE ではとうぜん洋楽もかかっていたであろうのに、J-WAVE でよくかかっていた洋楽はバビロン・ズーぐらいしかおもい浮かばない)

そんなわけで、「失われた90年代の音楽」をちょっときこうかという機運がたかまっているのだけど、いまさらオアシスとかラジオヘッドとかをきく気にもならないので(ちょっとかいまぎいたかぎりの感触でいうと、ぼくの好みの音楽でもなく、さりとてむりやりにきいたところで「あ、こんなんだったんだ」というおどろきがあるようにもおもえない)、ひとつ小室系でもほってみようかなとおもっている。
2016年音盤ベスト「歌もの(女)編」につづき、「歌もの(男)編」を。


去年はほとんど音楽をきかなかった。「きちんときいた」といえるアルバムはたぶん100枚程度にすぎないだろうだろう。そんなわずかばかりのきちんときいたアルバムのなかで、とりわけよくきいたものを、10枚。


最近、あまり音楽を聴いていない。精確に言うと、ぜんぜん聴いていないということはなく、ヒット曲(それも、やや古めのやつ)をおもに流す地元のラジオ局はよく流していて、そういう意味では音楽を耳にしてはいるのだけど、それにしたって、そこから流れる音楽にじっくりと向かいあうという聴き方ではなく、何かをしている背景で何となく流れているものが耳に入ってくるというまさにBGM的な接し方なので、「ぜんぜん」でなくてもほとんど聴いていないといってよい。ゆいいつの例外は、おもに日本では「AOR」として流通していた音楽を、中田利樹さん編纂のディスク・ガイドをたよりに、ぽつぽつと聴いている。「AOR」とかつては呼びならわされた音楽はこれまで主体的(あるいは集中的)には聴いてこなかったのだけど、聴いてみると、「曲の全体像はポップなのだけど、そのポップさのなかにひねりが効かせられており、そして、音の細部にも気が配られている」という点で「シカゴ音響系」と(一部で)呼びならわされた人たち(の一部)に通底するものがあり、とても耳なじみがいい。
ぼくはプリンスのアルバムを3枚ほど持っていて、そのうちの1枚は Rave Un2 the Joy Fantastic なのだけど、このアルバムを買った理由というのが、ジジェクの『いまだ妖怪は徘徊している!』における訳者あとがきで長原豊が「この本はプリンスの Rave Un2 the Joy Fantastic を聴きながら訳した。プリンスの音楽はかっこよかった。ジジェクの議論はおもしろかった」と書いていたからで、このあとがきゆえ Rave Un2 the Joy Fantastic を買った人が日本にはぼくのほかに少なくとも5人はいるのではないかと踏んでいる。
フリッパーズの『ゴーイング・ゼロ』の元ネタってイージービーツの『フライデイ・オン・マイ・マインド』ですよね。(しかもそれに気づいたのがゲイリー・ムーアの『ワイルド・フロンティア』をひさかたぶりに聴き返していたときだという)
2015年音盤ベスト、男性ボーカル編です。時間がないので、コメントは手みじかに。
今日聴いていた音楽から。

 Trout Mask Replica
Captain Beefheart and His Magic Band
(Straight, 1969)


 The Waking Hour
Dalis Car
(Paradox Records, 1984)


 The Ske's Gone Out
Bauhaus
(Beggars Banquet, 1982)


 Taking Tiger Mountain (By Strategy)
Brian Eno
(Island Records, 1974)



ものすごく分かりやすい流れですね。
それが「通俗的」なものか「高踏的」なものかにかかわらず、電子音楽にはカバーや再演というものが少ない。「通俗的」なものにかんしては、「リミックス」というものがあるけれど、それらをカバーや再演として捉えるのはちょっとむりがある。(こういう状況にあって、特筆すべき例外はAlarm Will Sound という室内楽団によるエイフェックス・ツインの楽曲のカバー集だろう。こころみとしておもしろいだけではなく、それそのものとして、とてもいい)

よりいぶかしいのは、「高踏的」な電子音楽の場合だ。それらには、たいてい楽譜が存在している。ということは、再演が積極的に推奨されているかどうかはともかく、楽譜が存在する電子音楽を再演することはそれほどの原理的困難はともなわないはずだ。それなのに、「再演された電子音楽」は、作曲者じしんによるものをのぞけば、極端に少ない。その理由としては、「ある種の音楽作品にあって、楽譜はあくまで『イデア』としてそこにあるのであり、それは再演のためにあるわけではない」という中ザワヒデキの指摘が思いうかぶけど、それにしたって、せっかく楽譜があるのだから、もっと無責任に電子音楽の再演が試みられてもいいはずだ。

だから、ぼくはいつか、シュトックハウゼンの『コンタクテ』を、あたうかぎりその楽譜に忠実なかたちで、とはいえ、その現れとしてはシュトックハウゼンじしんによるものとはまったくべつなものとして再演したいという夢を持っている。
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