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分離はそれ自身、世界と、現実とイメージに切り分けられたグローバルな社会実践との統一を為す。自律的スペクタクルと対峙する社会的な営みもまた、スペクタクルを内包する現実的な統一性である。しかし、この全体性における分断は、スペクタクルをその目的として立ち表せるに至るまで、その全体性を損ねる。スペクタクルの言語は、支配的な生産の記号によって構成されており、その記号は同時に、この生産の最終的な成果物でもあるのだ。
ここに「グローバルな社会実践 la praxis sociale globale 」と訳出されたものは、その次に読まれる「社会的な営み la pratique sociale 」と対を成すもので、前者の"praxis"は意識的に行われる「実践」を、後者の"pratique"は無意識的に為される「営み」を、主に表す(木下訳では両者とも「実践」の訳語が充てられているため、ルビは"praxis"の方だけには振られてはいるが、若干意味が不分明になっている、と思われる)。
さて、「分離が統一を為す」式の「反語的性格」というのは、ここまで読み進めてくればお馴染みのものであろう。スペクタクルはまずもって、「切り離されてあること」にその特性を有している。「切り離されている」がゆえに、その切り離された場所では自足的/自律的に動くことが出来、この現実の世界で為された諸々の行いも、その切り離された「非現実の場」で統合されてしまうのだ。
また、そうしたスペクタクルに取り巻かれながら為される営みも、その(虚偽)意識のうちではスペクタクルをスペクタクルとして、言い換えれば切り離されたものを切り離されたものとして認識せず、分断された「偽の世界」を現実の世界として受け取る。
そして、そのように定立された危うい「全体性/統一性」は、そのイニシアチヴ/生殺与奪権をスペクタクルに握られてしまう。何となれば、相手は「虚偽の世界」に巣食うものであり、ちょうど不思議の国に紛れ込んでしまったアリスのように、現実の世界は相手の良いように弄ばれるがままなのだから。であればこそ、現実の世界としても自らの存続のため、自らの首を絞めることになると分かりつつも、スペクタクルの生産/維持に加担してしまうのだ。それが、既得権益をひたすら重んじる「現状肯定の思想」であれば、なおのこと(6節参照)。
全体としてこの7節は、3節で言われていたことの言いなおしである。
次に
目次へ
ざっくり、私なりにはやしさんの記事を解釈させて頂くと、スペクタル社会というのは、「イメージという偽物の生産」を一種の錯覚的媒介として、過去と未来へ向う思考を自動停止させて、現在を肯定させてしまう社会のことのようですね。そこでは、個人の差別化や社会の進展があるように錯覚させられるようにイメージの生産が仕組まれていて、荒井さん(こんにちは、はじめまして!)流にいうと、「たこ部屋」の人生を送らされているのに、変わり種みたいな人以外は、ほとんどそのことにすら、気づかないというところでしょうか。
昨日、また、「だれが意思決定して、その責任をだれがとるのか全く持って不明な会社」において、「何年たっても同じことを話し、そして何年たっても音楽とはほど遠い雑音以下の、音声らしき騒音を発する」という「飲み会+2次会カラオケ」という何とも強烈な「「儀式」のようなもの」がありました。これは、現代版ミニ「過剰の蕩尽」という側面もあるかもしれませんが、私に言わせれば、「思考停止した脳を更に思考停止させる」為の「「儀式」のようなもの」でありまして、この「「儀式」のようなもの」を重ねるたびにサラリーマンは過去と未来へ向う思考を自動停止させて、現状肯定して偽の幸せをつかむようです。
私は「だれが意思決定して、その責任をだれがとるのか全く持って不明な会社」のように曖昧さをもって尊しとし、現状肯定するものの存在は日本固有の問題かと思いましたが、スペクタル社会という視点で見ると、こういうものの存在は日本固有でなしに今や世界が抱えている問題であるともいえるのでしょうね。
ところで、ところで「資本家―労働者」という図式ですが、マルクスの生存していた頃の固定概念的図式は消滅して、もう流動化したという次元も通りこして、「誰が誰を搾取しているかが全く見えにい」状態になっていると思います。
その原因は、1980年代に登場した「国際」「金融」資本主義によるものだと思います。
資本家とは、ほぼ株主のことですが、その大株主が労働者の老後を保障する年金基金だったりする。
また、1997年のアジア危機では、外国人による通貨の派手な空売りにより、沢山のアジアの人が人生や生命までも失っているのに、結末といえば「市場」という「誰が何をやったか全く分からない」世界を通してその殺戮が行われたため、結局やったほうは「やり得」やられたほうは「やられ損」という何とも納得の行かないものでした。
この事件で、自ら通貨の派手な空売りをやりながらも、最終的に自らのそれなりの責任らしきもの(=「積極的なヘッジファンド規制」)まで唯一言及したジョージソロスには、やはりカール・ホッパーという哲学者の爪の垢でもかじった人なのだなと、非常におぼろげながらも感慨らしきものがわいたのを覚えています。
最近、ろくに読書ができていなくて、「資本家―労働者」関係の旬な話題については、ネット上の知識を自分なりにかき集めたパッチワーク的な認識しかありませんが、「市場」を十年見てきた私としては、単なる現在の資本主義ではなく、もっともっと、国際金融資本主義をしっかり射程にいれて議論しないと、逆に飲み込まれてしまうような気がしています。
ところで、はやしさん、私は自分の思考能力回復のため、お言葉に甘えさせて頂いて最近ほとんど思いつきに近いことばかりで、内容に欠けることを沢山書かせていただいていますが、ご迷惑ではありませんか? 本当に、無駄な書き込みが多くて申し訳ありません。
まずはありうべき誤解(?)を解くために最初に言っておくと、迷惑だなんてとんでもない! このようなブログなるものは、もちろんそれだけで自足するというのもありですが、再三このブログ内の各所で言っている通り、ぼくとしては出来るだけ色んな意見が飛び交うとオモロイなあ、と思っているので、何であれ書込んでいただけることは有難いことです。それに原作たそがれ清兵衛さんは「無駄な書き込み」と仰っていますが、無駄どころか、自分が考え至っていない部分や、マルクス=アルチュセール風に言うと「そこにあるのに『見なかった』事象」を気付かせてくれる、という具合に、非常に有益なものです。翻って言えば、ぼくの方こそ原作たそがれ清兵衛さんのコメントにうまいことレスを返せていなくて申し訳ない、と思わないでもないのですが、「徹底して有限者である」われわれとしては(最近ジャン=リュック・ナンシーを読み返しているので斯様な言い回しと相成りました)まあしゃーねえかなと、相変わらずの能天気さで思っております。
さて、原作たそがれ清兵衛さんがスペクタクルの社会について仰っていること、まさにその通りの解釈なのですが、ぼくはこの書を「日本固有でなしに今や世界が抱えている問題」というよりも、むしろ「まさに日本のことが書いてある!」とある種の驚愕をもって読んでいます。
1960年代末のフランスで書かれた書物が、日本の、1970年代辺りから続く「今」を活写してるように読めることに、ドゥボールの畏るべき炯眼を認めるべきなのか、それとも何の学習も考えることもなしに未だスペクタクルにどっぷり浸かり続ける日本の現状を嗟嘆すべきなのか、まあどちらがどちらとも言い切れませんが(と、言葉を濁しておきましょう)、日本にあって会社という組織も間違いなくそのスペクタクルの再生産に与る装置であることは間違えありません。
日本の会社も、況や海外の会社もよくは知らないのであまりエラソーなことを言えるものではないのですが、きわめて「無責任」に放言してしまうと、諸外国(主にアメリカを想定してしまっていますが、あの国を以って「諸外国」を代表させることにまず問題があることは承知しております)の方が、「だれが意思決定して、その責任をだれがとるのか」について、それなりに問題の所在がはっきりしているように思います。それを考えると、日本というのはどうも、「だれが意思決定して、その責任をだれがとるのか」ということを分からないように「意図的」に制度設計しているのではないか?という疑義も浮かんでしまいます(それもあって、青木昌彦さんの『比較制度分析に向けて』や『システムとしての日本企業』を読んでもいるのですが)。
さらに「世界」に目を向けても、「誰が誰を搾取しているかが全く見えにい」。というのも、原作たそがれ清兵衛さんの仰る通り、その搾取主体が「市場」という集合的なものであるので、まさに責任が分散してしまっているからでしょう。
ここいらの「市場」、もっと言えば「国際金融資本主義」というものについてぼくもちゃんと考えてみないとイカンなあとやはり思い、でもそのためには礎の経済が分かっとらんとなあ、ということで、ヴァリアンやマンキューなんかをちょぼちょぼ読んでみたりもするのですが、なかなかそれで何かが分かったという気もしない(まあ、当たり前なんですが)。
しかも、それに加えて「重要なのは世界を解釈するのではなく、世界を変えること」だったりすると、もう何をどうしていいのやら……(「世界を変える」ためには、大域的に変えないと、つまり旧来の「革命路線」しかないのか? それともネグリ風に、諸々のミクロポリティクスの「自己組織」を期待して、局地戦を日々闘うしかないのか? そもそも、「世界」は人が意図的に変えうるものなのか?)。
そんな感じです(どんなだ!)。
「タコ部屋」なんて言葉に言及していただいて、ありがとうございます。そう、私たちはタコ部屋に生きてるんだなあ……っていう実感から、ホームページにつらつらと文章を書き続けているわけですが、そのタコ部屋の殺風景さや退屈さを紛らわし、埋め合わせるものがスペクタクルだ、ってことになるでしょうか。私はこのスペクタクルという概念がとても気に入っていて、「イデオロギー装置」なんて言葉とともによく使うんですけど、けっこう奥深くて、射程距離の長い概念だと思うのです。現代の消費社会の核心にズバッと切り込めるっていうか………ドゥボールやシチュアシオニストの本は、ボードリヤール(ほとんど読んだことがないので直感的に言うのですが……)なんかよりすっと面白いんじゃないかと思います。
それだけに、はやしさんの『スペクタクルの社会』の解読には期待しておりますが、これが粘り強く続いたとして、それが本にでもまとまったら面白いかもしれません。いや、本にならないまでも、資料としてプリントアウトして活用できるんじゃないか、なんてこと、ふと思ったりするんですが……。
身に余るお言葉本当にありがとうございました。
だいたい、私は、ノーコンのヘボピッチャーで、たまに行くドまぐれのストライクは別にして、ほとんどがワンバンやバックネット直撃並みで、結構無茶な球をボンボン早いテンポで投げている気がしています。どうも頭で思いつくと、ろくに整理もせずに書いてしまう悪い癖が私には本当にありますし、実際それでスターリン閣下を少し困らせてしまった前科もあります。
最近、私の書き込み数が増えてきたのでその点について気になりだしたのですが、過分なお言葉を頂戴できたこともありますし、またお言葉に甘えさせて頂いて、またヘボ球を投げ続けさせていただくと思いますが、本当に申し訳ありません。
はやしさんは本当に名キャッチャーで、このヘボピーの球をすべて綺麗にミットでさばいてくださっていて、次はどこに注意して投げればいいかというヒントを必ず添えて、きちんと返球してくださるので、「「本を読まずとも」、次の僕なりの思考が自然と沸いてくる」んです。こんな不思議な体験は本当に本当に生まれて初めてのことです。
家内には、「きっと、はやしさんは、貴方にとって、滅多にいない相当相性の良い人なのでしょうね」って言われて、歩いて20分くらいのところに本当にある「はやし神社」に行って「もっともっと、私の思考が戻りますように」ってお参りしてきなさいと茶化されています。それで、本当にお参りしてこようかとも思っています。(笑)
私も、世界を変えたい、というか、ひっくり返したと望むアブナイ人で、ゆえに思考にこだわるのですが、本当に引っ繰り返るときは、やはりそれなりの数が必要だと思います。
不遜な予言ですが(?????(笑))、本当に引っ繰り返るときは日本から、競輪競馬競艇場パチンコ屋が消滅して、そこに通っている人が「本屋」に毎日殺到するときでしょうね。競輪競馬競艇場パチンコ屋という産業が衰退するほど、人が読書をするとき、世は変わるでしょう。・・・・・人の事をいう前に、お前がちゃんと読書しろって言われそう。(笑)
PS アマゾンに申し込んだ例の8冊なのですが、発送が4月20日から5月7日になるらしいです。 はやしさんって、本当に人の読まないような本まで、沢山読んでおられるのだなって、妙に感心しちゃいました。
荒井さんと私って、同世代というだけでなく学年まで同じなんですね。本当に、同じ時間と空間を生きた人って感じで親近感を覚えながら、HPも全部読ませていただきました。
読ませていただいて、非常にリアルに、社会人になる前の私を思いだいました。
荒井さんほどは上手くないのですが、油絵を描いてバタイユ好きの同級生が大学のゼミにいまして、彼のこともふと思いだいました。
「たこ部屋」ですが、この言葉を見た瞬間、会社に入ってすぐ「ああ、ここは、たこ部屋だ」って思ったのを思いだしました。
荒井さんと私って、思考の生まれた場所というかルーツが本当に同じなんだなって感じました。
私は、その後どんどんドゥルーズの方に行きましたが。
僕は、はやしさんの主要な記事は、すべてプリントアウトして読んでいます。理由は、内容がかなり高度なので、何度も読み返さないと理解できないので、画面で読んでいると目が参ってしまって、脳まで参って理解できないというそれだけなのですが・・・・。
(「はやし神社」にて、懺悔して、告白いたします。・・・はやしさんの記事全部 地球環境問題という美名の下、相場のチャートの裏面に印刷して保存しています。 ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ(笑))。
あの浅田彰のあれ、この人は「闘争」より「逃走」が好きだから、っていうのは、純粋に面白かったんですよ。でもなんか御本人も言ってたことだったみたいですけど。
えーっ、私たちは同い年だったんですか? 書きっぷりからはもっと年上の人かと………でも、いい歳なんですよね、私ら。
20年ぐらい前でしたか? 浅田彰とかがはやって、現代思想ブームだなって言ってたのは。私も別冊宝島の『現代思想入門』なんて本を買って、何が問題になってるのか理解しようとしましたが、さっぱりだったです。「ドゥルーズ・ガタリは、西洋形而上学との全面対決だ………」なんて書いてあったけど、それはまあその通りなのかもしれないけど、だからどうしたの? という感じでまったく自分の生活との接点がなかったんですね。だからまずは『賃労働と資本』から………ってのが私の20代でした。
最近になって、またちょっとドゥルーズとかフーコーなんて名前が気になりだしてきました。ようやくそういう段階にさしかかってきたのかもしれません。
………なんて、はやしさんはきっと、好きにやってくれって言ってくれると思うので、遠慮なく語りに入ってしまいました。
はやしさん、勝手して申し訳ありません。平にご容赦を。
>書きっぷりからはもっと年上の人かと
ありゃりゃ、僕の書いてることって、そんなにおっさんくさいんですか?
ちょっとショックですが(笑)、でも最近「大阪」が入っているから、変にドスがきいてるのかもしれませんね。やばいですな。こりゃまあ。
荒井さんがHPで書いておられることって、実は、僕のいたゼミのテーマにそっくりなんです。で、もしかしてと思い、荒井さんのお名前をゼミ名簿で探したのですが、ありませんでした。
『現代思想入門』・・・・・この雑誌の話をするだけで、お互い年が分かりますね。ははは。
当時何が書いてあるか分からなかったというのが本音ですが、でも、見た目のいかがわしさよりは、きっちり書いてあったのではないかというのが私の感想でした。
で、また「構造と力」・・・・・見た目のきっちりさ?に騙されたってのが当時の私なのですが、でも、今見たら、なんでこんな法螺話を真に受けたのだろうって自分でも不思議な本なんですよ。僕も若かったんだなって、笑ってお仕舞いですね。
『賃労働と資本』なのですが、ゼミの先生はどちらかといえばこの路線だっだのですが、とてもやさしい先生なので、それを逆手にとって悪ガキのゼミ生が「ニューアカ」にはまっているという、なんとも不思議なというか勝手な連中ばかりの集団みたいなゼミでした。
勝手なことしかしない奴ばかりで、その罰があったのか、実社会で出世した奴は皆無ですね。もともと、出世なんか興味のない奴ばかりだったといえばそれまでなのですが・・・・(笑)。
えーと、どっから手をつけていいのやら……という感じなんですが、書込み順に荒井さんのコメントから。
『スペクタクルの社会』、ほんと我ながら呆れるぐらいのトロ臭さい進捗加減で、始めてもう3ヶ月が経とうとしているのに、全221節中まだ7節ってどういうことよ?と思うのですが、継続は力なり(って、これ元々、誰がどういう状況の下、言った言葉なんでしょうね)、ということでこつこつやってきたいと思います。で、もうがんがんプリントアウトやら何やらして活用して欲しいですね(もう少し量が溜まったら、プリンタフレンドリーなPDF形式も公開しようと思っています)。エラソーに勝手なこと色々言ってますけど、これ「この解釈が正しい!」とか、そういうつもりで言ってるんじゃなく、議論の叩き台と言うか、まあ「ツカミ」みたいなもんなんで、願わくば、「ふーん、そうなんだ」とおれの言ってることを鵜呑みにするのではなく(って、そんな人もあんまいないでしょうが)、おれの話はあくまで参考程度にとどめ、そこから自分なりの議論を組み立てて行って欲しい、と思います。って、こう書くと、懐が深いようでいて、何か小うるさい感じがしますね。まあ、ほんと、煮るなり焼くなり、好きにしてください、と思います。それにしても、チャートが印刷された紙の裏面にプリントアウトって、それこそ「出来事」ってやつですよ!
あと、話は若干前後しますが、荒井さん、「えーっ、私たちは同い年だったんですか? 書きっぷりからはもっと年上の人かと………」って……失礼ながら、かなり笑っちゃいましたよ! そうですか? おれ、そんなに原作たそがれ清兵衛さん「老けた」書きっぷりとは思わんかったですが……。
で、原作たそがれ清兵衛さん、アマゾンに注文なさった本、何か申し訳ない感じがします。というのも、アマゾンってそういう風に「発送日変更」を通達してきたときって、往々にして「品切れでした」みたいな結末だったりするんですよ。もし品切れだったり、待てど暮らせど、な状況が続くのであれば、ご存知かもしれませんが「日本の古本屋さん <a href="http
別冊宝島の『現代思想入門』、確かにぱっと見のウサンクサさとは裏腹に、思いの外ちゃんとしてる本ですよね、あれ。ぼくも読む前は小ばかにしてたんですけど、読んでみて、「あれ?」と、いい意味で裏切られた覚えがあります。
それで、荒井さんの「ドゥルーズ・ガタリは、西洋形而上学との全面対決だ………」という文言に触れての「それはまあその通りなのかもしれないけど、だからどうしたの? という感じ」って、それ、かなり重要、というか、哲学にとっての痛いところを突いてると思うんですよね。
まあ、おれなんかはこんなですから(って言い方で分かりますよね?)「えー、だっておもれーじゃん! おもろくね?」で済ませちゃったりしますけど、真正面からこの問いに十全な形で答えられる哲学、および「哲学者」がどれほどいるか、と考えると、甚だ心許ない気がします。
おれはけっこう本気で如上のように考えている(「思っている」だけではない!)のですが、この"So what?"(って曲、マイルス・デイヴィスにありましたな)って問いに、下手にその「実用性」を強調したり、何とか「現実世界」との接点を言い募ったり、という答え方はどれも討ち死にだと思います。その"So what?"なる問いに強いて答えるとすれば、「『世界』をどうにかしたいから」という、かなり誇大妄想気味な、でもそうとしか言いようのない答えしか出来ないでしょう、多分。
で、ほんと再三再四言っちゃいますけど、ほんとのほんとに書込みは気兼ねなく、独白だろうと私語りだろうと好きにやっちゃってください。つうか、おれ、そういう「私語り」って読むの好きなんですよ、覗き見趣味的というか、まあちょっと悪趣味なことではあるんですが。
「おフランス思想」がなぜ日本で受けるか? という問いの答えです。(誰も、聞いてないよ、そんなことって・・・・(笑))
政府が非常に大きく、また、官僚の既得権が大きいこと。
そして、既得権層の権益が大きすぎて、人生、一発逆転というのが非常に困難であることがあげられると思います。
一発逆転っていう、いわゆるアメリカンドリームには僕は興味ありませんが、(・・・・・へへへ、私も、はやしさんも、そんなしょぼいことよりもっと誇大妄想的なことを実は密かに企んでいたりして・・・(笑・・でも、半分以上まじ!!!?))、でも、やはり僕からみれば、単なる守銭奴くらいにしか思えないあの「ホリエモン」が、これだけ日本人の人気をはくするところを見ると、既得権を超えて、アメリカンドリームをかなえたいという潜在的願望は、かなり鬱積しているのでしょうね。
フーコーが、本当にアメリカに移住することを望んでいたという噂をよく聞きました。
フーコーは別にアメリカンドリームに興味がある訳ではないし、また、実際移住もしていないところを見ると、それは、自分の「いま、ここ」の国の息苦しさみたいなものを愚痴っていたのでしょう。やはり、フランスにも日本と同じように、個人が監禁されているような閉塞感があったのでしょうね。
そういう点から見れば、フランスで書かれた「スペクタル社会」が、日本が抱える問題と同一の問題を扱っているのは納得が行く気がしてきました。
余談ですが、世界で、原子力発電が異常に好きな国は、この二つだけ。日本とフランスです。多分、特定の団体や個人に、国家の与える既得権が大きいから、あんな、航空母艦より遥かにドでかいものを、どんどん建設できたのでしょう。
そういえば、大阪の社長さん、会長さん、原発の大事故の責任もとらず居座るとか。
アメリカなら、世論と株主がよってたかって辞めさせるのでしょうが。
やっぱり、日本の会社って責任の所在がさっぱりわからないですね。
ぼくが一番その「日本のフランスびいき」を感じるのは、今現在はもうそんなことはないのかもしれませんが、「現代思想」と言った場合、往々にしてその名の下で表されるのが「フランス現代思想」のことであるところです。
「現代思想」といっても、単に「現代の、思想」と言うに過ぎず、その思想の地域性は些かも表象されていないはずなのに、不思議に何故だか「現代思想」と言うと、「フランス」の語が脳内補完されてしまう。これは「英米系」と「大陸系」という対立では片付けられない問題があると思います。
確かに、元々日本は「思想」、あるいは「哲学」というと専ら「大陸系」のものが思い浮かべられるという特質はありました。しかし、「大陸系」という括りよりも狭く、ここまでフランスが全景に出てくるというのは、ちょっと訝しい感じを持ちますね。
それは、原作たそがれ清兵衛さんも仰ってるように、社会的・制度的な同型性が齎す事象でもあるでしょう。日本もフランスも官僚が幅を利かせる社会であり、ある意味「一発逆転」が狙いにくい「階級社会」でもあります。
しかしそれ以外に、日本には「ペダントリーへの憧憬」という要素もあるように思います。とりあえず、何か難解で訳の分からぬものが尊ばれる、というような。
そういう意味で、構造主義、ポスト構造主義ととりあえず呼称される一群の思想は、鬼面人を驚かすような用語法やレトリックと相俟って、非常に日本人好みであった、という感じがします。たとえそれは、フランス語から日本語に訳される過程で忍び込んだ「麗しい誤解」であったにしても。
日本とフランスが共有すると思われる「閉塞感」、それはその通りでしょうね。如上で申し上げたとおり、日本もフランスも、表向きいくら門戸が誰にでも開けているように思われても、「かえるの子はかえるの子」の世界だと思います。それはしょうがないことなのか、はたまたどうにかなることなのか。どうにかできるとして、そうすることが本当にいいことなのかどうか、そこいらはよく分かりませんが。
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