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自分の頭で考える」を書いているとき、このエントリのことを思いうかべていた。

ごく外形的には、両者とも「いっぱんに、よい、とされていることも、じつはそうでないのではないか?」という疑念を共有している。さらに言えば、そういう「いっぱんに、よい、とされていること」は、たしかにある意味「よい」とも言いうるのだが、しかし、それらの「よい、とされていること」は、じつはごく当たり前で、取りたてて「よい」だの「わるい」だの価値判断の俎上に載せるまでもないことで、ぎゃくに、そうした「当たり前のこと」がことさらに「よいもの」として称揚されるとき、「当たり前のこと」が「当たり前のこと」として持つ「よさ」が殺されてしまう、そういう考えも共有している。だが、それらが実質的に「言うこと」に目を向けたとき、たがいに背反する主張がなされているように見える。

まず、上に掲げた後者のエントリの結語において、つぎのように言われる――「だから、問題は、その人が何を感じ、そしてその上でどうするか、であって、人と違おうが違うまいが、要は『好きにすればいい』ということである」。そのようであるのなら、たとえそれがまちがって捉えられたところの「自分の頭で考える」ということであっても、「好きにすればいい」のではないか? しかし、上に掲げた前者のエントリにおいて排撃されている「自分の頭で考える」ことは、じつは「好きにしている」のではなく、「自由選択」を装った強制選択 forced choice なのではないか? そのように思われる。そして、この論点に関わるのが、「考えないための免罪符」のコメント欄において言われた、つぎのようなことである。

さらに、贅言ついでに言ってしまえば、ここで批判されてるのは、「よく知りもしないくせに箔付けで何か哲学的な言辞を弄す」という挙措の根底にある「知の崇拝」とでもいうべき姿勢です。つまり、われわれ(と言ってしまいましょう)のまわりには何か「考えんのめんどくさい」とか「考えるのって、苦手」と言うのをためらわせるような雰囲気が漂ってる。これは、よく考えるとふしぎなことです。というのも、たとえば目が悪くても、それそのこと自体が何らかのスティグマとして作用することは、あまりないからです。目が悪ければ眼鏡をかければいいように、頭が悪ければそれに相応するもの・ことに頼ればいいじゃないですか。たとえば、「ねえ、おれちょっと頭悪いから、かわりに考えてよ」と。

「考えないための免罪符」コメント欄べーやんへのレスより。

ようするに、「自分の頭で考える」ということを公言し、じつは「考える」という営みのとばくちにも届かぬ「愚考」をかさねる人たちは、「個性的でなければならない、知的でなければならない、だから、自分の頭で考えなければならない」という観念に強迫されている、つまり、みずから「個性的」であったり「知的」であったりということを選びとったわけではなく、そのようであることを強いられるような外的状況に動かされている。だからこそ、ほんらい「考える」ということに不向きな人が、(まちがって捉えられたところの)「自分の頭で考える」というイージーな選択肢に逃げるのだ。「自分の頭で考える」のであれば、その「考える」ことについていままでどういうことが言われてきたかを知る必要はなく、文字通り「好き勝手」にすればいいのだから。しかしながら、もういちど言うが、その「好き勝手さ」は、強いられたものである。

「個性的であること」も「知的であること」も、べつだん「ねばならぬ」ものではさらさらない。前者は、上記に引いたエントリの結語で言われたとおり、「個性的であろうがあるまいが、好きにすればいい」のであって、どうでもいいことである。後者、つまり「知的であること」は、これまた「ねばならぬ」ことでないのは同様だが、ただ、これは「好きにすればいい」というものではなく、「それが好きであれば、そうすればよい」ということであって、さらに、「考える」ということは、それを「好きである」ということだけで、それこそ「好き勝手」に自在にできるようになるわけではない。だが、ほんとうに「考える」のが「好き」であれば、「自分の頭で考える」などという「逃げ」を打たずに、ちゃんと考えることができるよう、どうにかすればよいのである(もちろん、「好き」ということからではなく、ある種の「いたしかたなさ」から考えなければならない、そういう人もいるだろう。だが、そういう人こそ「自分の頭で考える」なぞという悠長、かつ無責任な態度はとっていられまい)。

ところで、上で「考えることが好きであれば、そうすればよい」と言われた。これは、好きでもなければ「考える」なぞというしちめんどうなことはしないであろう、ということでもある(何かに追われてるのでもないかぎり、誰がぶったおれる寸前まで走りたいと思うか?)。では、なぜ、そのように「しちめんどう」な「考える」ことが「好き」なのか? 答えはかんたんである。考えることはおもしろいから。そして、「おもしろい」ということは基本的に無目的、つまり、それは「何かのため」ではない。だが、「自分の頭で考える人」はおうおうにして、考えることがおもしろいからではなく、「何かのため」に「考える」と称する営みをなしているように思われるし、かりに「自分の頭で考える」ことが「何かのため」ではなく、「おもしろさ」のためになされているのだとしても、そうした「好き勝手」な「自分の頭で考える」ことがおもしろいとは、とても思えない。

だから、「自分の頭で考える」ことは、その「外への影響」を度外視しても、それ自体としてだめなのだ。

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