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「自分の頭で考える」ということが、やや勘違いしたかたちで言祝がれているような風潮があり、それはたいへん困ったことだな、大げさに言えば、そういうのは根絶やしにするべきではないかな、と思う。

自分の頭で考える――これは、ことによったら、何の留保もなしに「よいこと」とする人もいるかもしれない。自分の頭で考える、そのどこがまちがっていると言うのか? まず、「自分の頭で考える」ことを標榜する人たちが、じっさいにどういうことをどういうふうに「考えている」かを見るのが、帰納的に「自分の頭で考える」ことの危険を感じるのにいちばんいいかもしれない。

「自分の頭で考える」ということを公言し、そして、それを「本を読むこと」など、外部的知識の吸収/検分と引き比べて、それらのあいだにヒエラルキーを立てる人たちの言うことは、おうおうにして荒唐無稽で端的にまちがっており、つまり、聞く価値がない(たとえば、ごく最近の例で言うと、「護憲」と「911陰謀論」が「しあわせな結婚」をした「運動」など。「それが何か」を具体的にするのは、それだけでじゅうぶんな「害悪」だと思うので、リンク等はしない)。

そういう人たちはまた、「自分の頭で考える」ということを、地道に文献を読んだり調べ物をしたりして、ある考えがどういう経緯を辿り、かずかずの困難を経て、それなりに「堅実」と言える地点に到達したかということを「知る」という、じつに骨のおれる作業をやらないことの口実にしており、さらに、思考の「材料」が自分の内にしかないから、たとえその「自分の考え」がごく初歩的なところで躓いていても、それに気づくことがない。

自分の頭で考える――それは、ある意味「あたりまえ」のことで、あらためて公言するまでもない。「考える」というのは、けっきょくは「自分の頭」ですることであるのだから。ただ同時に、「自分」というものは、こと「考える」という局面においては、固有に一意的なものではない。だから、「自分の頭で考える」ことはすでに、「自分と誰かで考えること」であるのだ。だが、おおかたの「自分の頭で考える」人たちは、そういう「考えることの恊働性」のようなものに無自覚で、今日もまた「自分の頭」で「考える」と称する営為を空転させている。

本を読んだり資料を調べたりという地道な活動と、「自分の頭で考える」というのとは、「自分の頭で考える」という(ほんとうであれば言わずもがなの)ことをあえて公言してはばからない人たちが「考える」のとはことなり、とくだんの排反的な関係にあるのではない。それらはむしろ、支えあい、互いが互いの条件になっている、そういう関係にある。そこをすっ飛ばして、「考える」などと僭称するなど、まさに笑止。だが、あいかわらず、世の中には「自分の頭で考える」人たちがあふれている。

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実は会社という組織でも「自分で考えちゃう」人は大体困った君なのです。定石に通りにものごとを進め、肝心なところで「少しだけ考える」ということが分からず、全部考えちゃうんですよ。そして、そういう人に限って色々言葉は知っているのに中身がない。まさに「口先男」なのです。
かがみ 2008/05/18(Sun)15:27:00 編集
必ずと言っていいほど、不思議とその手の人には、誤謬について簡潔明快にわざわざ指摘してくださる人がいるものです。そして、「わざわざ、子供に教えるように丁寧に教えてくださる」のに、決まって「耳を貸さない」、より正確には「理解できない」んですね。その態度の問題もさることながら、本当の問題は、最終的に頭の良し悪しに帰結する部分が大きいので仕方ないかとも思います。
そして、往々にして、そんな人の中には性格が良さそうな人もいたりしたりで、そういう人の良い面を見てあげる寛容さも、自らが人として成長する上では必要なのかと思う今日このごろです。
とはいえ、確かに執拗に逆に絡まれるとそれはそれで うっとうしいです。

まあ、そういう時、もしネット上なら最終、鹿十って手段もあるわけで、出来るだけお互い楽しんで気長にネットコミュニケーションをはかりたいものだと思うこのごろです。

ただ、実社会ともなれば、そうもいかない訳でして、かがみさんの仰せの通り、「自分でしか考えない人」というのは、裸の王様そのもので、なんとも困ったものです。はた迷惑も甚だしいですが、それでも、「あくまで、できる限りですが」根気よく寛容さを持ってつきあってあげられるかが、自らが人として成長する上では必要なのではなかろうかと思う今日このごろです。然しながら 実社会なら、少なくとも、数人から、数十人には影響が及んでいるはずで、それは、もう対私個人の問題でもなくなるので、厳しい措置も含めて対策が必要となることもあるでしょう。

そしてさらに、政治や学会や論壇という場なら、害悪が及ぶ範囲が大き過ぎて、そんな悠長なことは言ってられませんし、早く退場頂くべきですし、はやしさんの仰せの通り、問答無用で「根絶やしにするべき」だと思います。
ぷっつん大吉 2008/05/18(Sun)20:52:00 編集
社会人歴25年のオイラの個人的な感想から言えば…そういう輩はある時突然<自分で考える>やうになるのです。そして…そのキッカケとはたいてい突然社内で権限をもってしまったヤツです(シャチョーと役員とか…)。

組織って〜のは基本的にはアホくさいのですが…ある程度<まともな人間=会社に貢献する人間>を温存する機能もあります。しかし。まともな人間は必ずしも権力志向ではないので…組織はそういった人間を発掘しそこなっているのではないでしょうか。

逆に(仕事)できないのに権力志向だけのアホを昇進させちゃうからダメなんですね。アホなヤツほど専門家の意見聞かないもんね(そもそも理解できない…)。

ここんとこ…サブプライムがらみで金融商品の評価がテーマなってんだけど…オイラの勤務している会社は大学の先生にお金払って社員教育してんだよね。オイラが講義すればタダかつ実践的なんだけどね…。オイラの上司は意地でもオイラを使わないわけね。

でオイラといえば…そのお客様から有料で講演とかセミナーをしているわけ。別に自ら売り込んだわけではないけど。今週は新潟、来週は広島大阪じゃ!大吉さんとはどこで飲もうか?
藤崎達哉 2008/05/19(Mon)07:43:00 編集
(肝腎なところで)「少しだけ考える」、これはすごく重要なこと、ですね。あまり頑迷に保守的なのも困るけど、さりとて、何もかも自分で「考えよう」とするのも(場合によっては頑迷に保守的なのより)困る。先人がつみあげてきた知恵を尊重しつつも、そうした「重み」をすっ飛ばすべきときはすっ飛ばす。まあ、どういう塩梅で、遵守すべき部分と革新すべき部分を配分するか、言うは易しでじっさいにはけっこうむずかしいことだったりするんですが。

あと、かがみさんの、「自分の頭で考える、ということを、(勘違いした方向で)重く見がちな人は、おうおうにして上辺だけを(むつかしい言葉などで)取り繕いがちである」というのは、そうだなあ、と思いました。そうした、「自分の頭で考える」ことを公言するのも、上辺を取り繕うのも、けっきょくは自分のしていることに自信がない現れではないかな、と思ったりします。「自分の頭で考える」ことをもっぱらにする、というのは、裏を返せば、他の人の考えと勝負する自信がないということだったりしますから。
はやし 2008/05/19(Mon)15:35:00 編集
あまり刺戟的なことは言いたくありませんが、「自分の頭で考える人」(以後、めんどうなので、「自分の頭で考える人」という表現を以て、「自分の頭で考える、ということを公言する、じっさいは考えない人」ということの短縮表現とします)は、たぶん結果的に「頭が悪い」と言っても差し支えない人、だったりすると、ぼくも思います。それは、やはり、そういう人たちは、他から学ぶ謙虚さとでも言うものが決定的に欠けている、そういうことに起因するのではないかと。

「根絶やしにするべき」という部分は、最新エントリで紹介した中坊さんのエントリで疑義を呈されているところですが、たしかに、ぷっつん大吉さんの言うように、「自分の頭で考える人」は、おうおうにして「実害」を及ぼしがち、であると思うんですね。だから、それが「根絶やしにすべき」ということの、遠因ではあります。ただ、害を及ぼすからといって、そうしたもの/こと/人をただちに「根絶やしにすべき」というのは、やはり「言いすぎ」です。だから、「根絶やしにすべき」ということの真意は、「自分の頭で考える」と言って、じっさいは「考え」ていない人たちを、ちゃんとした「議論のテーブル」に着かせること、そういうことを実現させることを、あえて「根絶やしにする」というやや刺戟のつよい表現で表しました。
はやし 2008/05/19(Mon)15:43:00 編集
そういう「仕事はできないけど、上に取り入るのはうまい、権力志向のアホ」が上に立ってしまうのは、最終的な効用ということで考えると明らかに色んな意味でだめだと思うんですが、なにゆえにそういうパタンが温存されちゃう、んでしょうね。まあ、ハリウッドで映画が作られるようになったことに取りたてたる理由がないように、そうした「慣例」というのも、ある初期条件と、そうした条件を取り巻く集積効果で固着的になった、というのが近似解かもしれませんが、もっと大局的に見れば(そして、やや社会進化論者風の見方をすれば)、そうした「アホ」が上に立つことは、何かご利益があったりするのかもしれませんが……とにかく、そうした「アホ」のしたで働くのは、何かとストレスフルであろうので、やはり「アホ」は「根絶やしにする」とまではいかずとも、もうちと勢力をよわめていただいたほうが、最大多数最大幸福状態により近づくのではないかと。
はやし 2008/05/19(Mon)15:50:00 編集
藤崎さま。。。。。。。。。。。
>大吉さんとはどこで飲もうか?
ネタでなくマジと受け取らせていただくとして、
私は、全くもって いや正確には、多分何時でも大丈夫です。天下御免の暇人?ですから。場所は、大阪でも神戸でもどこなりと。それより、藤崎さん! メールアドレスが分かりません・・・・・。しょぼーーん。
実は小生もごくごく最近アドレスを変えており、ちょうどお知らせしようかと思っていたところでした。
ぷっつん大吉 2008/05/20(Tue)04:49:00 編集
あほは、あほしか(高く)評価することが出来きないので、故に、会社が一旦、あほである一定以上の率を占有されてしまうと会社の上層部は あほ しか いなくなるというのは当然の理です。ビルゲイツが、15年前、マイクロソフトは あほを 一人たりとも採用しない と断言していました。理由は、あほがあほを高く評価して、仕事が出来る奴をちゃんと評価できないからで、一人たりともあほを入れると、腐ったりんご1個が全部のりんごを腐らせると。こういう発想は、当時のIT先端のマイクロソフトの社風によるところも大きいでしょうが、一般の日本企業にも、このロジックは相当部分 当てはまると思います。
日本の企業は、昭和の末期に、あほで占有されて以来、あほの寡占状態が続いており、平成になって20年たっても何ら変わっていないですよ。
実際、サラリーマンの教科書と言われる?日経ビジネスを見る限り、書いてある内容なんて、15年前と全くと言っていいほど同じです。
昔、プレジデント なる 雑誌があり(今でもありますが・・・)、年中全く同じ「織田信長、豊臣秀吉、・・・・」特集をやっていて、実際それで、十年以上売れたのです。(確かに、中間管理職のつらさに訴えるものがあったのは事実かとは思いますが、同じ特集を、ずーーとやって、それで売れるのですから、何も進歩してない証拠です。)
あほが経営していると全体の生産性も低くなるのも当然で、ゆえに、若くて、ちゃんとした能力を身につけようとしている(あるいは、もう身につけた)人に、超低賃金で働かせて、なんとか利益を上げているのが日本企業の実情かと思われます。
ぷっつん大吉 2008/05/20(Tue)06:56:00 編集
ビル・ゲイツがそんなこと言っても説得力ないよ、って意見もけっこうありそう、ですねえ。ただ、彼に商才が(それも「べらぼう」と言っていいくらい)ある/あったのはうたがいようのない事実だと思いますが、とはいえ、彼もまたぷっつん大吉さんが描写するような「日本的社長」と似たりよったりなのではないか、とも思われます(じじつ、MSの社員はけっこう「使い捨て」される、というのは、よく聞く話で)。もっとも、ある発言と、その評価(つまり「ほんとにMSにはアホは入ってないのか?」ということ)は別ものではありますので、ビル・ゲイツの言うことは「理念」としては妥当だとぼくも思います。
はやし 2008/05/20(Tue)13:21:00 編集
ぷっつん大吉さま

連絡遅れてすません。tatsuya_fujisaki@pro.odn.ne.jp
です。28日は香川⇒大阪で宿泊ですね。29日は姫路⇒広島となります。28日の夜がいいかな?
藤崎達哉 2008/05/26(Mon)16:14:00 編集
藤崎さん、メールを送らせていただきました。ご覧いただければ幸いです。
ぷっつん大吉 2008/05/27(Tue)04:36:00 編集
藤崎さんのメールアドレスがプレーンに表記されている、つまり、@→#などの置換がなされておらず、スパムの評的になってしまうのではないかという指摘がありましたので、要望があれば、その点を書きかえたうえで藤崎さんのコメントを再投稿します。もしそうすることが好ましいのであれば、言ってください。
はやし 2008/05/27(Tue)12:31:00 編集
僕も自分の頭で考えてしまう人なので、このエントリを読むのは心中穏やかとはいえないのですが、敢えて自分の頭で考えることを擁護してもよいでしょうか。というか、します。
敢えておかしいだろうと、間違ってる可能性が相当高いとわかっていても、自分の偏見や憶測をそのまま丸出しにして思いっきり失敗したほうが、その後の修正や、また自分の陥りやすい誤りを自覚できるのではないでしょうか。自分の陥りやすい誤りの性向というのは、おそらく死ぬまで付き纏いがちなものです。それをそれとして早く自覚することは決して無意味なこととは思われません。
となると「自分の頭で考える」ことそれ自体が悪いというよりは、自分が何らかの意見や決定に至った際に、そのプロセスに対してどれだけ自覚的な判断を行えるかということになると思います。例えば雑誌や掲示板である主義主張を目にしたから、それが正しいのだと喚くのは滑稽だとは思います。そういう人は、(よほど珍奇なことを描いてるのでなければ)その意見がどうであるかというよりも、そこに描いてあるというだけで信用してまうのだと思います。たとえばネットには世間で隠された真実が暴かれる場所なのだという思い込みは、少なかれよく目にしがちです。そして多くの場合、そういう経緯から何らかの情報を仕入れた人というのは、自分達の考えが間違っているかもしれないことを検討する場を持たない(あるいはもっても多勢で押しつぶそうとする)。

ただ、実際の技術の修練であれば失敗する場が用意されます。結果だけを独立して比較検討することができるから、失敗したのだと自覚することが可能です。でも、そうではない分野も往々にして存在するのは確かですし、そういうときはとりあえず巨人の肩に座って見晴らしをよくしてから、あとあと基礎なりなんなりを考えてみたほうが多くの点でスマートだとは思います。それでも、自分の頭で考え、敢えて玉砕するプロセスなければ、僕にはどうも物を考えたという質感が得られない気がしてしまいます。それが、ダメなのかもしれませんが。
長谷部 2008/05/27(Tue)14:07:00 編集
結論から言えば、おれが排撃している「自分の頭で考える」ことと、べーやんの擁護している「自分の頭で考える」こととは、ちがうように思える。まず、べーやんは、「自分の頭で考える」に際して、「敢えておかしいだろうと、間違ってる可能性が相当高いとわかっていても」という可謬性の自覚があるけれども、おれが排撃している「自分の頭で考える」ことは、むしろそういった「可謬性の網の目」から逃れるためになされる(つまり、外的な知識あるいは情報よりも「自分の考え」ということをプライマリにおくので、最終的な判断があくまで「自分の内」のみでなされ、ゆえに、「自分にとって都合がよい」という判断になびきがち)。さらに、べーやんの「自分の頭で考える」は、その利点として「その後の修正や、また自分の陥りやすい誤りを自覚できる」ということを有するけれども、おれの排撃する「自分の頭で考える」という人たちは、そのような点は斟酌しない。

また、気をつけてほしいのは、おれは「自分の頭で考える」ということを一律否定しているわけではなく、むしろそれは当たり前のことで(このことに関してはさいしょの「自分の頭で考える」エントリ、および、近日中に執筆予定の「考えることと知ることの関係」をめぐるエントリを参照)、そういう「当たり前」なことをあえて誇らしげに言祝ぐ人たちは、討議の可能性や可謬性の自覚という、ひどく大事(におれには思われる)な点をすっ飛ばし、そして、「自分の頭で考えたが、まちがっていること」と「自分の頭で考えたわけではないが、ただしいこと」を天秤にかけた場合、前者を重く見ているふしがあるので(そしてこれは、べーやんの言う「雑誌や掲示板である主義主張を目にしたから、それが正しいのだと喚く」という事例の、ちょうどな対応物になっている)、それはひじょうに困ったことだ、と思った次第。

何にせよ、「おれはダメかもしれぬ」という自覚がある時点で、それは「ただしき『自分の頭で考える』道」を歩んでいると思われるので、何ら問題はないのではないかと(と、おれにそんな認定をもらったところで、どうってことはないのだけれど)。
はやし 2008/05/27(Tue)19:31:00 編集
はやしさんはこういうことをも含めて否定しているとは到底思わないから「それは違う話になってるんじゃないか」という指摘がくるだろうことは予感していました。ただ僕がここで意識していたのは、可謬を自覚していたとしても、それが実際に「誤りだ」と自覚できる場を、どんな場合でも確保できうるだろうかということです。例えば小説の描き方や、文章の描き方などといった抽象的で、方法論が体系化してるわけでもないような分野では、どうすれば誤謬を正し、自分の中で一般化できるのか。今あげた例に限らず大抵の分野は、誤謬を誤謬と明確に意識できないと思うんです。

僕自身はそういうことにルサンチマン(なんて表現でいいのかどうかよくわからないですが)をもっているので、なるだけ所謂古典的といわれるものに極端に傾倒するくせがあります。そういうものを消化吸収するときに、意図的に通俗的な誤解になるだろう意識をもって、自分の予測との相違点を探して軌道修正を図るわけですが、それすらも果たして本当にそれでいいのかと僕は不安をもってます。もっと直感的に、自他合一というと話が大きく聴こえるけれども、もっと相手の言わんとせんことそのままに耳を寄せようとすべきなのではないか。そうでないのならば、はやしさんがいう「自分の頭で考えてしまう」ことのデメリットとは、本当に距離をおけてるとはいえないのではないか。

僕がここでコメントした理由は、僕がとっているスタタンスは、はやしさんの排撃するスタイルと地続きなままで何かデメリットを共有してるように思ったからです。それは誠実さとか、生真面目さとか、そういうレベルの問題ではないような意味で。可謬性の自覚という方法では、決して到達できない何かがあるのではないかという不安です。しかし、そういう方法でなければ何か実感のようなものも得られない気もする。

そう考えたときに、どうしても「僕ははやしさんの言うダメダメな人にはあたらないから大丈夫だな!」とは思えないのです。
長谷部 2008/05/28(Wed)01:00:00 編集
うーん話がぐだぐだになってきてるのですが、つまるところ「自分と誰かで考えること」というのをもっと局地的に考えたときに、それは具体的には何を指しているのか、それは出来ているのか、ということなんです。
長谷部 2008/05/28(Wed)01:18:00 編集
自分の考えが可謬であることに自覚的だとして、じゃあじっさいにどういうふうにしてその「誤り」を「誤り」として認知するのか、という問題は、それ自体として興味深くはあるけど、ますます「自分の頭で考える」ということからはずれてくる、んじゃないかな。そして、そのつぎにベーやんの言う「例えば小説の描き方や、文章の描き方など」という領域は、言うなれば「美的判断」の領域に属する問題であって、ここでおれが問題にしている「自分の頭で考える」ということが扱う領域とはだいぶちがう(ちなみに、美的判断については、その判断の一意性問題なども含めて、そのうちに何か書こう、とは思っている)。ただ、「例えば小説の描き方や、文章の描き方など」と言われているもののうち「文章の描き方」については、カント的三区分で言うと「理知的」な部分も含みうるから、その意味ではおれの言っている「自分の頭で考える」という問題圏域内で考えうるけど、ただ、「考えること」と「そのプレゼンテーション」は分けて考えたいし、また分けて考えるべきだ、と思うので(もちろん、「ある考えと、その考えの表し方は不可分である」という立論も可能だし、また、じじつそうとも言える面もあるのだけど、やはり、そのことも込みでここで問題にするのは、混乱のもと、だと思う)、この点についてもいま問題にしている「自分の頭で考える」ということからは、除外される。

さて、それで、「考える」とは本質的に「自分と誰かで考えることだ」というおれの(言いっぱなし、とも思える)発言は、1) 「自分」という区分は、ごくかぎられたuniverse of discourseにおいてしか有効ではない、2) 1と関連して、よほどとくしゅな状況でもないかぎり「オリジナル」というものは存在しない、という前提に基づいているのだけど、虚心坦懐に「自分の考え」と素朴に思えるものを検分してみると、ほとんど「これは自分のものだ!」と言えるものがないことに気づくはず。もうすこしていねいに言えば、人が何かを考えるというときには、ほぼかならず外在的な素材をもとに考えているはずだし、そして、その思考様式というsyntacticalな部分を考えても、まったくオリジナルな部分はないと言える。だから、じつは「考える」とは、じゃっかんドライな言い方をすれば、ある外在的な「素材」に推論法則をあてはめること、と言えるのだから、この時点では「自分の頭で考える」ということは、たんにそうした思念がなされる場所を(比喩的に? あるいは、文字通り?)指しているにすぎない……と、まあ、こういうことを、ちかぢか書きますので、「自分と誰かで考えること」に対する正式な返答はそのとき、ということで。
はやし 2008/05/28(Wed)15:53:00 編集
はやしさん

ご無沙汰です。メールそのままさらしたら…やっぱまずいんかしら?このブログでの投稿だとハイパーリンクじゃないんで大丈夫かと思ってた。まだスパム来てないけど訂正したほうがいいのかな?

…で、最近は無茶忙しいので(ぷっつん大吉さんとも大阪で会えなかった…ごめんなさい!)なかなか投稿する時間がないけど、たまにこのブログで数学の基礎的な議論を読んでると…オイラの今の仕事とクロスオーバーして面白いっす。

オイラがやってることといえば実は単純作業であって…単に価格変動を記述する確率微分方程式を差分化してエクセルに<落とす>わけだけど…確率論ってのはまったく難物で直感が通用しない部分がある。そうなると論理でつめるしかないもんね。

理想をいえば…思いつき(=直感)で華麗に解決したいわけだけど…現実はドロドロで地味な作業と挫折の繰り返しだよね。秋頃にはまじめな本を出そうかと思いますのでよろしく。
藤崎達哉 2008/06/02(Mon)07:00:00 編集
メールは、ハイパーリンクになっていなくても、.*@.*という形式で吸い取ってスパム配信、という手立てもあるにはありますが、ただ、いまだスパム攻撃に見舞われていないのであれば、だいじょうぶでしょう。というわけで、とりあえずはこのままにしておきます。

確率論は、一回ちゃんと勉強しておきたいな、と思い、シュプリンガーから出ている分厚い2巻本の教科書とか、あともちろん、イアン・ハッキングやらそこいら辺の「確率論の哲学」ものもゆうに五指にあまるぐらい集めてはいるのですが、なかなかそんな時間もなく。

「まじめな本」、たのしみにしてます。でも、文体は『超越論的』っぽいのがいいですねえ。
はやし 2008/06/02(Mon)15:37:00 編集
藤崎さん、先日はこちらこそ申し訳ありませんでした。小生もあの日結局会社出たのは10時前で、実は最近どういう訳か忙しくて散々って感じです。またの機会に、どうぞまたよろしくお願い申し上げます。
ぷっつん大吉 2008/06/03(Tue)05:04:00 編集
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