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ここでのコメントへの返事を書いていると、ほんとうに「ぽろり」という感じで「ニーチェ」という名前がこぼれ出た。そして、それと相即的に、こちらでのぷっつん大吉さん(該当エントリコメント欄での呼名は「原作たそがれ清兵衛」など)の「哲学書は(ある気質の持ち主にとっては)劇薬」発言も思いだし、それらが綯い交ぜになってむにゃむにゃとよしなしことに思いをはせたので、そのことについて。
まず、話の流れ(というほどのものではないのだが)をかんたんに振りかえると、ストーンローゼスの「憧れられたい I Wanna Be Adored」のキメのフレーズ、つまりタイトルそのまんまの"I wanna be adored"だけだと、「愛に飢えたいじましい人」ぐらいで終わってしまうけど、そこにおっかぶせて"I gotta be adored"とくるのがちょっとニーチェ的だ、と言ったのだった。要するに、この記事での言い方を転用すれば、"I wanna be adored"には受動的なニヒルしかないが、"I gotta be adored"には「飛ぶ」要素(「ここがロードス島だ。ここで飛べ」)、つまり「力への意志」が感じられはしまいか、ということである。
もちろん、これははっきり言ってしまえば「たんなる思いつき」以上でも以下でもなく、その水準で言えば(つまり、そうした「思いつき」としての分を弁えていれば)、「まあ、そうとも言えるかもね」で済む話なのだが、これほど無邪気なかたちでではなく、「無惨」と言ってもいい仕方で「転用」される契機というのが、ニーチェにはまちがいなくある。そして、そういう契機は、ひとりニーチェにかぎらず、「哲学」と呼ばれるものに溢れている。そして、ここに「劇薬」としての要素もあるのだ。
つまり、こういうことである。ニーチェはたしかに「ルサンチマン」や「力への意志」や「永劫回帰」、そして「超人」について語った。しかし、そうしたニーチェの言葉が二次転用されるころには、それらが語られた文脈も何もかもがすっぽりと抜け落ち、そこには無惨な「雰囲気語り」しか見出されない。そしてさらにわるいことには、そういう「語り」を誘発してしまう「キャッチー」な言葉はおうおうにして、「ある気質の持ち主」の「ある気質」に拍車をかける。ほんとうは、そういう「ある気質」こそが批判されているのに、そうした「ある気質」を温存するための理由として受け取られもする。
たとえば、「ルサンチマン」を例にとって考えてみよう。きわめて「図式的」に言えば、「ルサンチマン」とは「弱者の怨恨」の謂いであり、そして、そのような怨恨からキリスト教(的なもの)が生まれ出たとされる。言うまでもなく、ニーチェはそれらを「痛罵」した。しかし、ひるがえって言えば、そうした「痛罵」こそが「ルサンチマン」である、とも考えうる。つまり、この議論はある意味で(きわめて図式的に解釈した場合にすら)自己反駁的な要素をうちに含んでいる。そして、ニーチェ自身はこのことにじゅうぶん自覚的であり(だいたい、ほんとうに「強者」であるという自己認識があったら、「力」なぞをあえて「意志」するであろうか?)、だから、彼の行為はほとんど「自爆テロ」とも言えるのだが、「雰囲気」でそれを読むものたちは、「強者」たるニーチェに自身を投影し、刹那の「勝利」に酔いしれる。だが、真っ先にニーチェの攻撃が向かうのは、たぶんそういう人たちだ。
繰りかえすが、上に述べたようなことは何もニーチェにかぎったことではなく、「哲学書」と呼ばれるものにはこの手の陥穽はいくらでも待ちうけている。そこで何かが批判されているにしても、それを読むものはふしぎと、そうした批判の名宛人が自分であるとは思わない。ほんとうは「毒」であるのに、それを「薬」と信じて「服用」をつづけたらどうなるか。よくてせいぜい袋小路が待ちうけているだけであろう。
だから、まずは、そこがほんとうに「ロードス島」かどうか、考えてみるべきである。
僕が思うのは、とにかく哲学関係の引用では「絶対主義vs相対主義」という構図に貶めてしまうことです。ヒュームも、スピノザも、ニーチェも、科学哲学とか分析哲学とかいわれる潮流も、ポモとか言われる一連の現代思想に関しても、名前を引き合いに出したがる人に限って「それって相対主義を称揚してるだけじゃん?」と読めてしまう。そういう人たちが、科学だって宗教だとか、口先だけで平気でいう。そういう人たちほど、自分は何かを語れると無反省に思っている。まぁ気にしてもしょうがないという気もしますが、油断すれば物事を安易な構図に貶めてしまうからこそ、哲学の歴史なり、他人の意見なりに目を通す必要があるんだろうにと、思いますね。
さらに、贅言ついでに言ってしまえば、ここで批判されてるのは、「よく知りもしないくせに箔付けで何か哲学的な言辞を弄す」という挙措の根底にある「知の崇拝」とでもいうべき姿勢です。つまり、われわれ(と言ってしまいましょう)のまわりには何か「考えんのめんどくさい」とか「考えるのって、苦手」と言うのをためらわせるような雰囲気が漂ってる。これは、よく考えるとふしぎなことです。というのも、たとえば目が悪くても、それそのこと自体が何らかのスティグマとして作用することは、あまりないからです。目が悪ければ眼鏡をかければいいように、頭が悪ければそれに相応するもの・ことに頼ればいいじゃないですか。たとえば、「ねえ、おれちょっと頭悪いから、かわりに考えてよ」と。
もちろん、目が悪いよりはいいほうがよく、頭が悪いよりはいいほうがいいでしょう。たまには目を休めて遠くの緑を眺めて視力回復を狙うように、悪い頭をよくする努力も、しないよりはしたほうがいいかもしれない。しかし、「悪い」のが「目」ではなく「頭」であった場合、「目が悪い」というのとは何か質的に異なる受けとりや処遇がなされるように思えるのです。つまり、「目が悪い」という場合の「悪い」は、言うなれば「相対」の相のもとで言われるのに、「頭が悪い」という場合の「悪い」には、何か「絶対的」といったふうに言われる。つまり、「頭の悪さ」は、(あまり適当な言葉ではありませんが)その「頭が悪い人」の「実存」に響いてくる。そして、それはよくないことだ、と思うのです。
何だか長くなっちゃったのでここいらでいったんやめますが、このことについては近々また何か書きたい、と思います(そのときは、このようなギミック抜きで)。
「この人を見よ」は、ストンローゼスの歌詞の最後のフレーズが、>"I wanna be adored" ではなく、>I gotta be adored なんだよと、わざわざ解説つきで、はっきりと宣言しているような書です。
そしてローゼスの歌詞の最後のフレーズが、>"I wanna be adored"であるような解釈でもって「ツァラトゥストラ」他の彼の著作を読むであろうお馬鹿さん達に対して、凄い警鐘を発しています。
(そして、そんなお馬鹿さんは 今後沢山輩出され、困ったことになるんだろうなあ とまで、ニーチェ自信が予言をもしていました。)
またそこが極めてユーモラスなんですね。そして、くだけていて、少し笑えて、なんとも言えない感じがあります。
「ツァラトゥストラ」でのニーチェ自身の書きぶりは 実のところ私には、なんだか嫌味ったらしく感じられます。しかし、「この人を見よ」では、その嫌味が完全に消えて、極めて くだけた感じが醸し出されています。
ということで
>「ある気質の持ち主」 の方には、是非とも「この人を見よ」を読まれることをお勧めする次第です。
そうすれば
>「ある気質の持ち主」 の方はきっと、自分がニーチェに最も批判されるべき類の人であることを理解されると思います。
とか、書いても、そもそも
>「ある気質の持ち主」 の方は、ストンローゼスの歌詞でもってすら、その最後のフレーズが
>"I wanna be adored" であるか >I gotta be adored であるかによって、歌詞全体がどれほど違ったものになるか をも 全く理解できないでしょう。
だから、「この人を見よ」を読まれても、実のところ馬の耳に念仏かもしれません。
ただ、ニーチェにかぎらず、ここでも申し上げたとおり、(とくに「理論的」と呼ばれるような書きものにあって)批判的言説を読むものは、ふしぎとそこでなされている批判から身をかわせているような口吻でものごとを語りがちである。それはかなり一般的に見出される事態のような気がします。だからこそ、このエントリのような「釣り」とも言える書きぶりで(繰りかえしますが、「釣り」と解釈されるような要素をぼくのエントリは含んでいることは事実ですが、そのように受けとられるのは、べーやんへのレスにも書いたとおり、「心外」であります)、「おれはこのように思う。そして、そのことはある妥当性の閾値を超えた蓋然性を持っている、とも思う。だけれども、やっぱりおれはまちがってるかもしれん」という風味は残しておきたいんですね(ただ、じっさいにぼくの書きものが「まちがっていた」場合、何が起こるか、そこも考えてみてほしいのですが)。
というわけで、せっかくの機会ですから、あまり真剣によんだことのないニーチェを、ひまができたらちゃんと読みかえしてみようかな、といまは思っております。
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