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パトナムの「培養液のなかの脳」のなかに、レーヴェンハイム=スコーレムの定理と『哲学探究』のかかわりあいを示唆する文章を見つけて、それがひどく気になると書いたのだが、パトナムが『哲学探究』のどこいらへんにくだんの定理とのつながりを見出していたのかという具体的なことはともかく、そのつながりの内実自体はそれほど推測がむづかしくはない。

レーヴェンハイム=スコーレムの定理とはざっくり言って、ある理論が何であれモデルを持てば、それは可算モデルを持つ、というものである。誤解をおそれずに言いかえれば、何かについて語る言葉があるなら、その言葉はそれほどべらぼうなヴォキャブラリーを持つ必要はない、ということだ。

ところで、集合論は1階述語論理で形式化される。つまり、集合論はモデルを持ち、ゆえに、レーヴェンハイム=スコーレムの定理により、集合論は可算モデルを持つ。しかし、言うまでもなく集合論内には可算ではない集合、たとえば、自然数の羃集合、実数の集合、などが存在する。してみれば、レーヴェンハイム=スコーレムの定理が教えるところとはうらはらに、集合論はとてもではないが可算モデルなぞ持たないように思えてしまう。

ここで問題となっているのは、つまり、これまたざっくり言ってしまえば、語る言葉と語られる対象のかかわりあいについて、である。そしてパトナムもまた、「培養液のなかの脳」において、培養液のなかの脳が語る言葉と、そうした言葉で指示される事物/事態のかかわりあいを問題にし、そこから「語る主体が培養液のなかの脳であることの論理的不可能性」を主張したのだった。

そのような主張をしたことからも容易に分かるように、パトナムはレーヴェンハイム=スコーレムの定理が示唆する事態にある種のパラドクスを見ている。しかし、そのような事態はちっともパラドクサルな事態ではない、と主張する議論も存在する(たとえば、ティモシー・ベイズの博論(PDF)を参照)。

あまたの哲学的議論と同様、このこともそう簡単には結論が出るようなことではないだろう。しかし、そうした「反逆理論」を唱える議論を考慮にいれて、「培養液のなかの脳」でなされている議論を振りかえってみることは、なかなか興味深そうなことだと思われるのだが、どうだろうか?(って何だこの落とし方は)

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