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宮本さん主宰の掲示板でけいこさんが提起した部落差別問題に触発して書かれたフニャコさんの「差別の無い明るい社会」に対しておれが書いた「差別のある、明るい、社会」へのレスポンスがフニャコさんからあった。
それによれば、フニャコさんはあくまで、「場」と「社会」というものを分けて考えてるのだが、どうもおれにはそうすっきりと分けられるようには思えない。そこのところを、少し。
フニャコさんは「場」というものを、社会からその「社会性」を捨象したもの(フニャコさんの原文では「社会性を発揮した全ての結果」となっているが、これは単純な誤りだろう)と定義し、「社会性」というものを「自らの意志とは関係なく、社会によって宛がわれた固定的役割」と(とりあえず)置いている。そして、「場」がそのように「社会性」から逃れられているのは、それが持つ「流動性」にある、とする。
しかし、社会と言い、場と言っても、その構成要素という点から見れば、どちらも「流動的」であることに変わりはない。フニャコさんが「社会」の代表的なものとして挙げている、家族、会社、国家という「社会」からも離脱は可能であり、そういう離脱事例は決して少なくはない。
さらに、仮に「場」というものが「社会」に比べて有意にその流動性が高いとしても、それゆえに質的な差異、つまり「差別のなさ」が発揮されると言えるだろうか。確かに、その構成要素である「個人」から見れば、もし差別を感じたらそこから離脱してしまえばいいのだから、その個人にとっては「差別はない」と言えるかもしれない。だが、「抜け出ることが比較的容易」であることから、その中での差別のなさが演繹されるとはとても思えない。
ここで、何も「構造主義の教えに拠れば……」などと言い出すつもりはないが、場であれ社会であれ、何人かが寄り集まれば(極端な話、誰かと二人で会う、というときですら)、その「集まり」という上部構造が、その構成要素の布置関係を不可避的に決定してしまう、というのは、どうもおれにはそのように思える(ドゥルーズ=ガタリ、とくにガタリは、こうした「上部構造がその構成要素を決定してしまうような集合」を「モル的」と呼び、それに対するオルタネイティヴとして「分子的」なる概念を提出したのだった。そして、この考えがネグリの「マルチチュード」に引き継がれていることは明白である)。
また、「場」の構成要素という観点からではなく、「場」それ自体という観点から見れば、それは十分に「差別の起点」として機能しうる、ということにも注意が必要だ。たとえば、フニャコさんは「流動性が比較的高く、それゆえに差別意識も低い場」の例として「大都市」を持ち出すが、そうした大都市は、いわゆる「地方」という他者を析出し、それに対する差別意識を顕現させてはいないだろうか? これで、端的に「差別がない」と言えるのか?
だから、問題は、「社会」だの「場」だのということはあまり関係なく、フニャコさんも言うように「括って固定すること」であるだろう。
だが、この「括って固定すること」を端的に放棄することは出来ない。というのも、この「括って固定すること」こそが人間を人間たらしめている、とも言えるのだから(言語を用いる、ということは、「括って固定すること」でなくて何なのだろう)。
そもそも、「このわたし」からして、「わたし」として「括って固定」されてはいないか? ある程度可変的なところは留保しつつも、「わたし」が「わたし」であることは、大本では選びうることではない。そういう、不可避的に「わたし」であるしかない「わたし」に対して、その「わたし」であるがゆえに為される諸々は、「差別」ではないのか? また、「たまたまわたしではない」ということで「他者」である他ない「あなた」に、「わたし」は「差別」をしているのではないか?……
しかし、「わたし」は「このわたし」から出発せざるを得ない。その上で、多様性を認め、モル的にではなく分子的に結合し、そして、絶えざる生成変化をを生きていくしかない……。
って、ドゥルーズ的なところに落としてみました。しかも、時間がないんで(言い訳〜)to be continuedな感じ。ま、ゆっくりと。
あ、あと荒井さんへこの場をお借りして:
元々こういう思いは去年かそこいらに某所でそれとなく口走っていたんですが、荒井さんに背中押されてるって言うのは多分にあります。すごい勢いで「どーん」て。
そのせいか(?)論調が鞭打ち気味ではやしさんに整理されないとわかりづらいものになってますごめんなさい。
だから、アンダーグランドでも、3人集まれば派閥はできるでしょうね。
そんで、「吉」差別は、合理的理由にもとづいているものについては仕方ないでしょう。「吉」の多くの人は、仕事が出来なくなるってのは、ある程度本当ですから、全然仕事のできない人を、わざわざ、雇用はできないですよ。雇用者は、慈善事業やってるのじゃないので。でも、「吉」の人の多くは、社会的弱者であるのは間違いなく、それで、国家レベルでそれなりに救済しないといけない。つまり、ちゃんと仕事がある程度できるようにしてあげる必要があるんです。法律や予算を整備して。でも、そうすると、この世には、知的障害(≠「吉」です。勿論)でなくとも、究極に頭が悪くて、何の仕事も出来ない人もいるわけで、そういう人を救済すべきかどうかというのが問題になるし、救済するにしても、どこで線を引くかというのが非常に、悩ましい問題になります。
「吉」に対して差別って、なくならないだろうと思うのですが、要は、経済的なセーフティーネット、それも、ちゃんとそれなりに働けるという形(つまり、「吉」の人に直接金銭的援助を国家がするというのではなくて)で、というのが大切な気がします。繰り返しますが、僕は「吉」って、言われようと何も気にもしません。
なぜ、「吉」に対して差別ってなくならないかというと、頭の「吉」現象って、いくら説明しても、本当に経験した者しか「吉」って何か分からないのです。
昔、「吉」を神のようにあがめていた時代もあったようですが、あれも、非「吉」の人が「吉」現象を理解してないからあんなことしたんです。これも、差別でしょう。
ただ、それが差別のない状態のように勘違いするのは、「吉」の人が「不利益」をこうむっていない、あるいは「利益」を得ているからではないでしょうか。
結構、差別と「利益、不利益」ってのは、切っても切れない関係にありますが、それでもなんか、「利益」つまり、一種の既得権みたいのを得るなら、差別問題なんて消し飛んでしまいそう(=解決済み的)な考えの人がネット上で多く見かけられ、それが私にはとても不思議です。
利益を得ようと、差別は差別です。
で、「利益を得ようと、差別は差別」って、それはもう全くそうなんですが、さりとて、「利益を享受する差別」と「不利益を被る差別」が果たして双対かどうか、つまり、一般に差別と言われる「不利益を被る差別」の根絶には、「利益を享受する差別」の根絶が不可避的に伴わなければならない、ということに関しては、若干「そうだ」という方にたなびきながらも、「でも、実際のところ、どうなんだろ?」みたいな感じもし……まあ、議論が進むにつれて、このことも追々問題にせざるを得ない、と思います。
マイノリティとアンダーグラウンドに関して、誤解されている惧れはほとんどないと思うのですが、一応一言しておくと、おれはマイノリティやアンダーグラウンドを称揚してはいません。もちろん、少数者であるがゆえに受ける不当な扱いに関しては、それ相応のことをするべきだ、とは思いますが、翻って、「マイノリティ/アンダーグラウンドだから」ということを以ってそれらを慶賀するっつーのは、単純にマジョリティ/オーヴァーグラウンドのやってることの陰画であって、そうしたことは滑稽であるのみならず、危険ですらあると思います。
それはともかく、マイノリティでもアンダーグラウンドでも、呼び方は何でもいいんですが、いわゆる「虐げられた人々」について語っちゃうのって、往々にして「恵まれた人々」であることが多いですよね……。そのことは、金子勝と大澤真幸の対談本『見たくない思想的現実を見る』を読んだとき、痛切に感じ、「お気楽な、しかも金も自由もあるような外野から何言ってんだよ」って感じで、非常な不快感を覚えました。ただ、はっきり言っておれも「恵まれた人々」の一員であることは疑い得ないので、その批判はそのまま我が身に帰ってくるのですが……。
よーし、これからもバリバリ行きますか! とりあえずはまた砂漠へ戻って、禁欲修行に磨きをかけることですね。肉体なんてものは魂の自由な活動の桎梏でしかない。卑しい肉の歓びなんかにうつつを抜かしているようではまだまだ……………って、だんだん面白くなくなってきたなあ……僧侶キャラ。
えーと、はやしさん、まだ引っ越し終わってないですが、よろしければもうRSSのほう取り替えちゃってください。もう差し支えないと思います。よろしくです〜。
差別と利益、不利益の話ですが、差別、差別と言って議論しながら、その実は、社会的利益、不利益しか議論の眼中にしかないと思える人の議論が、ネットの議論にあるなあと思ったんで、その辺りを整理というか、分離して、というか明確にして議論すれば、もっと差別の議論って分かりやすくなるであろう点も多いのになと思ったという意味合いで解してください。
勿論、差別による、露骨な社会的不利益の解消は必要です。しかし、その社会的不利益の解消の話と、差別が有る無いというのは、本来は別次元の話しだろうというのが私の考えです。
それと、追加なんですが、「未成年に選挙権をあげない」というのは社会的に露骨な差別の一種です。しかし、それがなぜ、許容されるかというと、(それなりに)合理的根拠があるからだと思います。つまり、十全な判断能力がないという。その代わり、未成年は、青年より法的に保護されるという利益が付与されてしかるべきだと思うのです。
まあ、それはさて措いたとしても、差別されることと、不利益を被ること、これは確かに分けて考え、そしてその上で改めて、それらが触れ合う地点を論じるべきなんでしょうが……これも今ひとつ気が重いというか何というかで……。
そんなわけで、以後も差別がらみの話は続くでしょうが、如上の理由から、どうも歯切れが悪いというか、煮え切らないものになる可能性がでかいことを前もって宣言しておきます。
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