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それは至るところで作動している。ときに絶え間なく、ときに途切れ途切れに。それは息をし、熱を発し、食べる。糞をひり、一発ヤる。そういうものを「それ」としてあたかも単一に名指せるかのように呼んでしまったのは何たる誤りか。「それ」は至るところ遍在する機械、それも比喩的にではなく、いくつもの機械からなる機械で、それらはたがいに組み合わされ繋がっている。器官機械はエネルギー源機械に繋がれる。ある機械は流れを生み出し、またある機械はそうした流れを断ち切る。胸はミルクを生み出す機械であり、口はそれに組み合わされる機械だ。拒食症の口は、食べるための機械か、肛門機械か、喋る機械か、あるいは息をする機械(この場合、喘息の発作が起きる)かを決めかねている機械である。こんな具合に、すべては機械のパッチワークからできている。それぞれがそれぞれの小さな機械からなる。エネルギー機械には器官機械が組み合わされ、そこにはつねに流れと流れの切断が生じている。シュレーバー裁判長は尻に太陽光線を持つ。太陽肛門。シュレーバーさん、安心してください、それはちゃんと動きますから。シュレーバーは何かを感じ、何かを作り出し、そしてそれら「何か」についての理論を打ち立てることができる。「何か」はこうして作り出される、機械の作用として、比喩ではなく。
ほれぼれするくらいわけが分からない。こういうのが読みたいわけですよ。
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わけの分からないものが読みたい」ということでニーチェの『善悪の彼岸』を読みはじめたのだけど、これ、端的に「わけが分からない」というより「言いたいこと自体は理解できるが同意できない」といった感じだった(これなら、カントとかヘーゲルのほうが「わけの分からなさ」では上、のような気がする)ので、チョムスキーの言に触発されてジジェクの「内面からの物体X」(『性化』所収。ジジェクのものでこれを選んだのは、たんじゅんに、ぼくが持ってる本の範囲でジジェクの書きものとしていちばん短いやつだったから)を読みはじめたら、これまた言いたいこと自体は分かってしまった(しかも、あんがいおもしろい)ので、こうなったら真打ちに登場してもらうしかないかな、と思っているところ。
となると、まず思いうかぶのがフランス現代思想がらみの本なのだけど、ここはひとつ、フランス現代思想がらみ以外で、むかし読んで「わけ分からん」と放擲した本にもう一度チャレンジしてみたい(そして、そうした「むかし読んで『わけ分からん』と放擲した本」をいま読んで「わけが分かった」らそれはそれでハッピーなことだし、いま読んでもやっぱり「わけが分からなかった」らつつがなく当初の目的が達成されることになる)。

そういう、「むかし読んで『わけ分からん』と放擲したフランス現代思想がらみ以外の本」としてぼくの場合ニーチェがその筆頭に挙げられるので(だから、『力への意志』をのぞけば、ニーチェの本というのはほとんどまともに読んだことがない。いや、『力への意志』にしたって拾い読みをしたに過ぎないのだけど)、ニーチェの書きもののなかでもいちばん苦手な『善悪の彼岸』(冒頭のかの有名な「真理を女と仮定してみよう」というフレーズからしてあまり好きじゃない)を読んでみようかな。
「何を言い出すんだお前は」と思われるかもしれませんが、ほんとうにあるんですよ、そういう感じの本が。
高校生のころの愛読書はエンゲルスの『反デューリング論』で、学校の行き帰りによく読んでいた。

ちょうおもしろいので、ぜひ。

ちなみに、国民文庫版『反デューリング論』を読んでいたがゆえにモテたという覚えはいっさいありません。
国民文庫一択でしょう。

造反有理!
かりにもし、自分が女性かつヘテロセクシャルだった場合、どういう本を男子が読んでいたらグッとくるかということを自分内会議した結果、『ひとりひとりの人』が選ばれたことをご報告申し上げます。
だいたいにおいて、本ってのはほんとうに「モテアイテム」として機能するもんなんですかね。

いや、そういう場合も存在しはするのでしょうけど、どれほどの一般性があるのか、と。
じっさいに書目があげられているものは一件もなかったので誰かはよ。
なんでも、紀伊国屋書店渋谷店が「本当は女子にこんな文庫を読んで欲しいのだ」と銘打ったフェアをやったところ非難ごうごうの沙汰となりそのフェアは速攻中止になったということで、それを聞いたとき、「そんなん、男の衒学的顕示欲の発露に過ぎないことはあきらかだし、そういう顕示欲の発露なんて鼻で笑ってやり過ごせばいいわけで、中止に追いこむまでやいのやいの言わなくてもいいんじゃない?」とさいしょは思ったんですが、そもそもこれ、「女は本を読まない」ってことが前提となっていたんですね。まあ、「女は本を読まない」ってのは事実だと思うんですが(ただ、女が本を読まないのと同程度、もしくはそれ以上に男だって本を読まないし、だいたい、男であれ女であれ、いっぱんに人はあまり本なんて読まない)、それだけを前面に出しちゃうと「男は本を読み、女は本を読まない」という(まちがった)コノテーション、そして「本を読む男から本を読まない女へ」という「上から下へ」なインプリケーションを漂わせてしまい、そういう意味で「よくないな」と思いつつ、それでもやっぱり「フェアを中止に追いこむまでやいのやいの言うのは(あるいは、そうしたやいのやいのに屈してフェアを中止するのは)行きすぎなんじゃないか」とぼくは思います。

だいたい、「女は(あるいは、男は)本を読まない」という前提には立たないけど(そもそもぼくは、男であれ女であれ、本を読まない人に本を贈ろうとは思わない)衒学的顕示欲はちょっと(場合によっては、だいぶ)添えつつ(だいたいにおいて、その対象が異性であれ同性であれ、「本を贈る」という行為には衒学的顕示欲がつきまとうものだと思う)でもほんとうには「自分が読んですごくおもしろかった(あるいは、感銘を受けた)から、このおもしろさ(あるいは、感銘)を、親しいつきあいのあなたともぜひ共有したい」というおもいをだいいちに異性(あるいは、同性)に本を贈るなんてことはままあるわけで、そういう事態がままあるのだとすれば、「異性(あるいは、同性)に贈りたい本」というフェアがあったってべつにいいじゃないですか。(繰り返せば、くだんのフェアで問題だったのは「女子に贈りたい本」という大き過ぎる一刀両断な括りではなく、「女は本を読まない」という含みだったわけで、そのフェアについてやいのやいの言っていた人たちもそういう含みがなければ「女子に贈りたい本フェア」みたいなものにかんして百歩譲ってくれることでしょう)

というわけで、それがはたしてフェアとして成立するかどうかははなはだ疑問ですが(そもそも、「本を贈る」という行為はきわめてパーソナルなものであってみれば、ある程度「雑駁な一括り」、つまりは「パブリック」を対象とせざるを得ない「フェア」というものにはなじまない、とも言える)、時流に乗って、ぼくが過去、女性に贈ったことのある文庫をさらしてみます。
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