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これも、何かの調べものの過程で出くわしたのだけど、"Econometrics" という文字列と "Dummies" という文字列のそぐわなさがすごいなと思った。そもそも、ほんとうに dummy だったら計量経済学なんてものの存在自体知らないよね。
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調べものをしていてぐうぜん出くわした本。とんだ食わせもののような気もするけど、ちょっと気になるので図書館に所蔵があれば眺めてみよう。
理由はたんじゅん。最近本を買っていないし(今年に入ってから一冊も本を買っていない。どうだ。すごいだろ)、読む本も勉強/研究がらみのものばかりでそれらについてとくに書くこともないから。

ただ、新刊書等のチェックはあいかわらずしていて、そのなかで気になる本はとうぜんあったりするので、買った本や(勉強や研究にかかわらない範囲で)読んだ本がなくても、それら気になる本について(もっぱら未来の自分のために)書いておこうかな。
たしか渡部直己だったと思うけど、「小説家は『構造と力』を読んだ(そして理解した)か読んでいない(あるいは読んだけど理解できなかった)かで分類できる」と言っていた。たとえば高橋源一郎はあきらかに前者、よしもとばななは(あきらかに?)後者。おもしろいのは村上春樹の扱いで、彼は「『構造と力』は読んだ(そして理解した)けど読んでいない(あるいは読んだけど理解できなかった)ふりをしている小説家」だという。

もちろん、こういう「分類」というのはいつだってその限界があり、それだけで対象物が語りつくせないことは言うまでもないし、それにそもそも、これは一種の「遊び」と受けとるべきで、「そんな分類が成り立つわけないじゃないか」と憤ってもしようがない。ただ、「村上春樹とは、『構造と力』は読んだ(そして理解した)けど読んでいない(あるいは読んだけど理解できなかった)ふりをしている作家である」という特徴づけは、かなり村上春樹の本質を捉えているように思う。

村上さんのところ」に「『構造と力』を読んだことがありますか?」という質問をすればよかったな。
ぼくは、小説のいわゆる「古典」というものをほとんど読んだことがない。それはたぶん、高校生ぐらいになるまで「物語」(あるいは「筋のある話」)を理解することができなかったからだと思う(そもそも、小中のころには本なんてほとんど読まなかったということもあるけど)。そして、どうやら物語がそれなりに読めるようになったと思われる高校生のときには、小説よりも「哲学」とか「思想」とか言われるようなものをおもに読んでいた。

思うに、小説の古典というのはおおむね、若いころに読んでおくべきものだ(もちろん、「古典は老いてから読んだほうがその真価が分かる」という意見もあるだろうけど、老いてからわざわざ古典を読もうという気になるには、まずもって若いころにそれを読んでいることが必要と思われる)。だから、ぼくはけっきょくそうした古典をほとんど読まずに死んでいくのだと思う。それは、何となくもったいないことのようにも思うけど、しかたない。
本の書き出しが好きだ。たとえそれが自分の知らない作家や、あるいはきらいな作家(と書いて、ぼくにはべつにきらいな作家というのはいないことに気づいた)が書いたものであっても、書き出しは書き出しというだけでかがやいて見える。大学生のころはよく、本屋で手当たり次第に本の書き出しを読んで過ごしていた。たぶん、本屋さんからは、迷惑なやつ、あるいは変なやつと思われていただろうな。

ともあれ、そういう「書き出し愛好家」というのはけっこういるものと見えて、Der schönste erste SatzNovel Openers といった「書き出しの一文」を集めた本が何冊か出ている。とくに、前者の Der schönste erste Satz は、書き出しの一文が小説にかぎらずいろいろな書きものから採られていて(たとえば、アドルノ『否定弁証法』の書き出し「かつて時代遅れなものと見えた哲学は、いまだ生き残っている、その実現の機会を逸してしまったがゆえ Philosophie, die einmal überholt schien, erhält sich am Leben, weil der Augenblick ihrer Verwirklichung versäumt ward」が収められていたりする。ただ、個人的には、『美学的理論』の「藝術にかんすることで自明なことは何もない、ということが自明になった Selbstverständlichkeit wurde, daß nichts, was die Kunst betrifft, mehr selbstverständlich ist」のほうがキャッチーのように思うけど)、さらに、読んだことも、それどころか聞いたこともないような作家の人の「かがやける書き出し」がたくさん読めて、とてもいい。

ちなみに、ぼくの好きな書き出しの一文は、レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』の「わたしは旅がきらいだ Je hais les voyages」です。
蓮實重彦はゴダールの映画を最低三回は見るという。一回目は、無心に。二回目は、映像に注目して。そして、三回目には、目をつむり、音だけを。

本も、そのように最低三回は読みたい。一回目は、無心に。二回目は、内容に注目して。三回目は、内容を度外視して、文体だけを。
ぼくが女だったらまずまちがいなくオリーブ少女になっていたと思われるので『オリーブ少女ライフ』は「そうであったかもしれない自分の過去」を「追体験」するうえでもぜひ読みたいと思っています。
「古典」と称されるような書物は、まだ書籍の流通がそれほど発達していなかったころに書かれたものが多く、いきおい、そうした古典においては現在のように本文や注に参考文献が飛びかうということが少ない(ぼくの大ざっぱな感覚では、18世紀までは本文や注に明白なかたちで参考文献が差しはさまれることはあまりなく、19世紀あたりからそういうことがだんだん増えてくるように思える)。だから、書かれた時代の近しい、参考文献が山もりの書物を読むさいにありがちな「あ、この文献おもしろそう。どういうものかちょっと調べてみよう」とか「お、この文献はたしか持っていたな。そちらをちょっと読んでみよう」という「寄り道」なしに(そして、この「寄り道」こそが、書かれた時代の近しい、参考文献が山もりの書物を読むことの愉しみだったりする)、その本そのものに沈みこむことができる(もちろん、書物間の往還ないしは交感はその本がいつ書かれたかにかかわらず生じるものだし、それに、書かれた時代の近しい、参考文献が山もりの書物だって、それをきちんと理解あるいは味読しようとすればそこに「沈みこむ」必要があるわけで、だから、書かれた時代によって読み方が「拡散/没入」に二分されるというのは雑すぎる物言いではあるのだけど、ごく表面的な形式が素朴にしからしむる読書形態の傾向がここでは言われているということで諒とされたい)。そして、そういう「古典への沈みこみ」には、ほかにやらねばならないことがたくさんあるときに誘われることが多く、すると、「ああ、こんなことをしている場合ではないのに」という背徳の甘美さとあいまって、とてもよい。

そんなわけでぼくはいま、「ねばならぬ」ことのいっさいがっさいを放擲して、『純粋理性批判』を読んでいる。
昨年、所用で日本に一時帰国したときに買い、かつこちらに持って帰ってきた本のメモ。

ごく短期間の帰国で、かつ超絶に忙しかったため、行くことのできた大きめの本屋は渋谷のブックファーストと青山の青山ブックセンターぐらいで、欲しいと思っていた本はほとんど買えず、店頭で見かけての衝動買い、あるいはもともと持っている本の買い直しが主となった。(ただ、そういう買い方のほうが読書傾向が透けて見えるようにも思え、そういう意味でおもしろい、ような気もする)
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