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「文化のグーロバル化、全然問題なし!」という声はなぜかあまり聞かれることがない、と言っていたのですが、「文化のグローバル化とはアメリカ化のことではない」という、文化のグローバル化擁護とも言える内容の記事を発見しました。

要は、「グローバリゼーションの波が文化的領域にも押し寄せていて、その結果、伝統文化が死につつあり、アメリカ文化が全世界を覆い始めている」というよくあるテーゼに対して、「いや、文化の汎アメリカ化って言っても、実際はそんなことないよ。それに、グローバリゼーションてのは基本的にいいもんだよ」という反対意見をぶつける、というものなんだけど、正直、これでアンチグローバリゼーションの論者を説得できるかどうか、疑問。

まず、「文化の汎アメリカ化って言っても、実際はそれほどでもない」というテーゼを証するのに、1)「アメリカ文化」と言われてるものも、その起源をたどると実際はアメリカのものではない、2)「アメリカ文化」がアメリカ以外に進出している割合も、言われるほど多くはないし、それどころか、他の国が凌駕している事例もけっこうある、という論点を出してくるんだけど、2はともかく、1なんてのは「それ反論になってるのか?」という気がする。いくらジーンズが、ドイツ移民によって作られた、フランスとイタリアの折衷様式、だったとしても、それが何だというのだ。

てなわけで、文化のグローバル化擁護の論陣を張る人を発見したはしたけど、イマイチな感は拭えないので、引き続きハントを続けます。

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フィリプさんの書いてるファッションや音楽の話と大差ない話かもしれないが、実際に自分が接しているHandicraftsの世界では、傾向は限りなくアメリカナイズってよりヨーロッパナイズされ続けていると思う。
日本も含めてアジアのこの世界では、トレンドも流通も、目はいつもヨーロッパに向けられている。
上海、ベトナム、タイとかでは、フランス人やイギリス人とかが、現地に住み着いて、その地の伝統的な素材や技法を活かした製品を作り出しているし、逆にこれらのアジアの国のデザイナーやメーカーも、フランスのメゾン・エ・オブジェとかミラノの展示会とかに伝統的なデザインをリファインした製品を掲げて多数が進出している。ここ数年では、廃れかけてた日本の伝統工芸と欧米のデザイナーとのコラボとかも始まってるし、ipod(これはアメリカだけど)の鏡面仕上げとかは、日本の職人技が採用されてる。
だから「伝統文化の死」というより「伝統文化の進化」ってが実感するところ。
こういった事は、日本の自分達の生活様式も今や着物着て、畳で暮らしている訳ではないので、フツーに自由自在に利点を選んで受け入れていると思うが、どうなんだろ?「文化」に関しては、侵略されてその相手国の文化を強要されない限りは、自主的に融合して変化して、より面白いものが生まれている気がする。
でもって、文化ってのは広がる為には、流通も消費も広告も関わって来るけど、アルテルモンディアリスムって実際のとこどうなんだ?ってググっていたら、ここには(<a href="http
「ちょっと世間に関心を持っている若者の間ではファッションになるほど「流行している」大きな潮流です。」などと書いてある。
ジョゼ・ボヴェも2007年に予定されているフランス大統領選に出馬を表明したらしいし…なんて考えてたら猫屋さんが、登場!どうなんでしょ?本場では?
Sita 2006/09/09(Sat)10:40:00 編集
シータさんの言っている事例は、業界では「文化のhybridization」と呼ばれるもので、現象としては何も目新しいものでも何でもなく、文化というのはいつだって融合してきた。ただ、いわゆる「グローバリゼーション」と呼ばれる潮流のもと、文化をもふくむさまざまな事物の伝播の速度は確実に早まっている。そうした「速度」の変化が何をもたらすのか。それが争点ではあるんだけど、はっきりしたことは何も分かっていない。

ただ、一つポイントとなるのが「(文化の)自主的な受け入れ」という部分で、その「自主性」なるものが、どこで、どのように担保されるのか、が問題とされる。もっともうまく為し遂げられた「支配」とは、あたかもそれが「自主的」におこなわれるかのように為される、ということではないか?

とはいえ、おれ個人としては、それが老獪な「支配」の結果であろうとなかろうと、選びとられたものは選びとられたものであるし、しかも、この先固定的にそうした「混合物」が残るかどうかも分からないわけで、四の五の言ってもしゃーないわな、というのが正直なところ。

ちなみに、altermondialismeは「オルタグローバリゼーション」の名で日本にもちゃんと入ってきてはいます。ただ、入ってきてどうなったか、という詳細は知らない。
はやし 2006/09/10(Sun)19:55:00 編集
文化のグローバル化というものは、さかのぼれば近代の黎明期…大航海時代以来綿々と続いている逆らうことのできない趨勢です。したがってそれは僕ら個人にはとりあえず否応無しに押し付けられた運命であり、いかんともしがたい生の「条件」だと考えるべきでしょう。……なんてことを言うのも、最近僕が繰り返している「資本主義社会における文化とは反抗することである」という命題に、この文化のグローバル化の話題を絡めてみようと思ったからです。

sitaさんやこのフィリップさんとやらの言っている「文化」という概念は、いわゆる習俗とかスタイルと言いかえ得る……「形式化した」文化体系のことだと思います。しかし「文化とは反抗することである」という視点からすると、このような形式化した文化はいわば「文化の抜け殻」みたいなものです。(このあたりの「文化」の概念についてははっきり整理しておかねばならないでしょう。)そのような抜け殻的なローカルな文化がどのように伝播し融合し、また折衷様式が生まれたりとかいったことは、ぶっちゃけ二次的などうでもいい問題じゃないかと僕は思っています。

問題はあくまで「反抗=まったく新しい文化の創出」であって、そのときいわゆる(抜け殻の)「文化」は反抗する当のものとして、また反抗の土台として、いまここにある現実(条件)として僕らの前に姿を現しています。そのとき「マクドナルド化した文化」も「伝統文化」も、それぞれの地域によって独特の形で混ざり合った一つの現実として現れてくるはずです。だからアメリカ資本主義のマクド文化と伝統文化を対立させて、どちらかに肩入れする……みたいなことは意味のあることではないでしょう。どちらもひっくるめて一つの抜け殻文化なのであって、それに対して「反抗=まったく新しい文化の創出」という活動を考えるべきだなんですね。

同様に、文化のグローバル化の批判と擁護という対立させてみるというはやしさんの問題設定も何だかまわりくどいなあと感じました。だって、文化がグローバル化し、世界中どこへ行っても同じ表情に出会うだけだという事態ほど退屈なものはない……という意味ではグローバル化に批判的であるのは当然だ。しかし実際、僕らは現にグローバル化した文化の恩恵を受け(ビックマックをおいしくいただき)、それなしには生活がスムーズに成り立たず、愛着すら感じているありさまです。そういう意味ではグローバル化を肯定しないわけにはいきません。つまり、自らの「条件」に対して否定的であるとともに肯定的だというアンビヴバレントな態度はごくごく自然なことでしょう。
araiken 2006/09/11(Mon)12:16:00 編集
あ……そうか。そうじゃなくって、なぜ文化のグローバル化を擁護する立場があまり見受けられないのか? ってのがそもそもの問題でしたね。
araiken 2006/09/11(Mon)12:32:00 編集
スーザン・ジョージとか読んでいないから「新しい世界」がどんな世界かはよく分からないけど、これと同じような響きを感じる、「まったく新しい文化が創出された世界」とは”具体的に”どんな世界なの?
「抜け殻」の文化の先には、糸を紡ぐ女達が、鉄を叩く男達がいる。
輸送機関が整備され、ネットで連絡が取れ、安い運賃で飛べる事で、私達は、彼等と一緒に仕事が出来る。
Sita 2006/09/11(Mon)12:51:00 編集
「まったく新しい文化が創出された世界」
は、君ら、抜け殻の文化を漁る「古物商」たちが跋扈する世界かも知れない。

そんなの誰にもわからない。

だから「まったく新しい…」んじゃないのか?
宮本浩樹 2006/09/11(Mon)23:12:00 編集
いやその……余計な解説になっちゃうかもしれないけどさ、「新しい文化の創出」っていうとき僕が考えているのは、そういう超越的な形で新しい「世界」が出現するってことじゃなくて、それこそ祭りの時間のようなテンポラルな生命の燃焼の瞬間みたいなことを考えてるんです。だから「抜け殻」文化の先……みたいなものもないわけです。僕らの身の回りにあるのは文化の抜け殻やガラクタばかりですが、それは僕らの活動の土台であり、それによって自分を形作っているという意味ではむしろ「抜け殻」はなくてはならないものだといえます。僕らは自らの意志と闘いでこの抜け殻やガラクタという素材をダイヤモンドに変える錬金術師であるべきだと僕は思っているんです。

文化を考えるときに僕がどうにも面白くないのは、アジアのでもイスラムのそれでもいいのだけど、ある伝統的な共同体に共通した習慣やスタイル、行動や思考、信仰などの型みたいなものを外的に観察して、そういうスタイルの束みたいなものを「文化」と称して、その伝播について語ったり、多文化主義だの文化相対主義だの言ってることなんです。もちろんそれを「文化」と呼んではいけないわけじゃないのだけど、僕は新しい「文化」という言葉の使い方を提案しなければならないと思うのですね。

「文化」は外側からとらえられたスタイルではなくって、僕らが内側から生きるものでなければなりません。資本主義に対する反抗的かつ実験的な生のあり方、そしてその高揚という意味では、たとえば(詳しく知らないのですが)アウトノミア運動の盛り上がりの季節のようなものが「文化」という言葉にふさわしい、と僕は思います。それをイタリア・ルネッサンス期の文化の盛り上がりと並べて考えることができなくてはならない。抜け殻となったスタイルの束でしかない伝統文化やガラクタのようなマクド文化のシステムに「文化」なんて言葉を当てるのはもうやめて(それは乗り越えるべきものであるとともに新しく創りだす文化の素材に過ぎません)、まだ見たこともない熱い生の燃焼の形をこそ「文化」と呼ばなければならないと思うわけです。
araiken 2006/09/12(Tue)09:01:00 編集
あ、猫屋ですがなにか。
んー、結局“米国文化”というのは、まあサブカルはいったん横に置いといて、ワーホールが提示したみたいなマス資本主義活動なわけで、これが米国発で広まった根底には米国の“歴史”なしの歴史があると思うのね。もともとデラシネだからどこでも繁殖する。コストがかからない。ただこれが一回広まっちゃうと、つまり辺境を想定できない現在情況ではもう、使いまわし不能なアメ文化ではだめで、ローカル(歴史性のある)物品を導入して“進化”しようとしてるんじゃないか。でも問題は、歴史モノ(あるいは土着モノ)は土から離して大量生産することによって元々の魅力(魔術)を失いますでしょ。つまり、たとえば手でこねくり回してつくってた、あるいはその生産・流通段階での人間間の関係性が薄まる、あるいは消滅する。てな具合で、マスな生産・消費ってのは終わりのない追いかけっこなんだろう。

あともう一方では、地べたにあい変わらずへばりついている“貧者”がいて、安チャーター機にも乗れないからボート・ピープルになって惨い状態なんだけど。。。いずれにしても資本主義文化ってのは、共食い的“進化”を続けていくのだろうが、ウンベルト・エーコも書いてたけど、そろそろエクルビス(ザリガニ)的後戻り歩きを人類は覚えるべきなのかもしれないです。
猫屋 2006/09/12(Tue)15:32:00 編集
激烈に時間がないので、せっかく荒井さんが長文コメントを寄せてくださったのですが、手短に。

まず、荒井さんのおっしゃっている「文化」ですが、一般で言う「文化」とはもちろん違いますね。一般に言う「文化」というのはなべて、荒井さんの言い方で言えば「抜け殻」なのです。もし、それに「生きて、在る」ことそのものを投影したいのなら、もはや「文化」という言葉も捨て去るべきでしょう。

また、「まったく新しい文化」という言い方も荒井さんはしていますが、ここにぼくは「新しさの罠」を見ます。つまり、「新しさ」というのがなぜ肯定されねばならないのか、よく分からない。しかも、そうした「新しさ」というのを追い求めるのは、資本主義とて同じことです。というか、資本主義こそが「新しさ」を必要としている。対抗すべきものと根っこのところで同じ欲望をもつのはどういうことか。もし、何かが違うとしたら、どこが、どう違うのか。

……と、まあ、そんなことを思うのですが、基本的にぼくは、「グローバリゼーション」に関して個人的にほとんど、というか、まったく興味はなく、課題で与えられたからしようがなくかかずらってる、というのが正直なところです。
はやし 2006/09/12(Tue)18:01:00 編集
猫屋さんの言っていることは、何か「分かるような分からんような」なので、ちょっとパラフレーズしてみます。

まず、「大量生産することで元々の魔力を失う」ってのはベンヤミン以来われわれの耳目に親しいフレーズなんですが、これはほんとにそうか。そもそも、「元々の魔力」なんてのがあるのかってのが疑わしいですし、そう思う人はそう思う、という程度の問題ではないですか? もちろん、ぼく個人としては「そう思う」ということもあるのですが、その一方で、大量生産であるがゆえに生じる「魔力」と思います。その場合、大量生産でない「魔力」は肯定し、大量生産の「魔力」を否定する(文脈が多いように思える)のはなぜか。

また、こうした「魔力」の消失と相即的に、「手でこねくり回してつくってた、あるいはその生産・流通段階での人間間の関係性が薄まる、あるいは消滅する」と書いておられますが、どうしてこうしたことから「マスな生産・消費ってのは終わりのない追いかけっこ(である)」という命題が帰結するのか。これもよく分かりません。ぼくには前提とされていることと、その帰結とされていることとは、全然別のことのように思われます。

てなわけで、時間ができたらちっくら考えてみます。
はやし 2006/09/12(Tue)18:20:00 編集
訂正
誤:大量生産であるがゆえに生じる「魔力」と思います
正:大量生産であるがゆえに生じる「魔力」もあると思います
はやし 2006/09/12(Tue)18:24:00 編集
大量生産の「魔力」ですかあ。

具体的に、手でこねたパンと全部オートマで作られたパンの違いってあって、たぶんこれだと思う。つまり消費者が一番安い食パンにあきたりすると、製造者は“手作り風”とかいう、これも機械製ですが付加価値のより大きいものを作ったりする。逆手に言えば、ジャンクフードの魔力ってあるけどね、これの、太めジャンキーが一杯いますが。

終わりのない追っかけっこは、市場経済主義の本質でしょう。高度化したマーケティングでもいいけど。

喪失する、あるいは薄まる人間関係性というのは、例としては、たとえば一般小売店舗からスーパー・マーケット、そしてハイパーやショッピング・モール(日本のコンビニもはいるか)、への移行を考えればいいんじゃないかな。世界中の(少なくとも消費者層が存在するゾーンで)ショッピング・モールがみんな似通っている。このところ、ローカル色を出す試みをフランスマクドナルドチェーンなんかがやってるけどね。これも実際は市場開発の一端であって、プラスティックの“土着”です。

まあ、アタクシのいるのが幸い、欧州非プロテスタント圏なんで、ビッグマックにはあまりお世話にならずにすんでいます。あれマズイよ。

あと、フランスでのオルターは今のところ内部分裂でさえません。南米で盛り上がってるみたいですけど。
猫屋 2006/09/13(Wed)12:40:00 編集
うーん、猫屋さんが出してくれた「薄まる人間関係」の例自体は、「ま、そゆことあるよね」なんですが、やはり、そうしたことがどうして「終わりのない追いかけっこ」をentailするのかよく分からないです。もちろん、市場資本主義の特性として「終わりのない追いかけっこ」的な側面があることは認めるに吝かではないんですが(ただ、「停滞する資本主義」なんてことをいう人がいる以上、それが本質規定とまで言えるものなのかどうか、これも要再考です)。
はやし 2006/09/14(Thu)03:31:00 編集
どうもすみませんねえ。もともと詩を書いてたりの名残ですか、(特に狭いコメント欄に直に書くと)まったく論理形成してないよ。

本来はもっと考えこんで字にしてみるべきなんだけど、時間がない。同じところをウロウロしていますが、ニンゲンは本来ビョーキをかかえた存在なんだが、オートマットからインターネットまで出てきて、ビョーキな部分がいくらでもデジタル・コピペできちゃうってことなんじゃないかな。そこらへんが、マクドナルド文化の魔性=脆弱性で、ブタニンゲン再生産する。それに抗うものとしての土着性って(あるいは集団的記憶ということ)があるのかもなんだけど、今は奇妙なナショナリズムで置き換えられていたりするわけです、と思うんだよね。それでひとまずパンを捏ねてみたり、そばをうってみたり。ザリガニ後退歩きを指向したり。ところで、資本主義はまだまだ進みますでしょ。
猫屋 2006/09/14(Thu)09:20:00 編集
思い返してみると、僕は昔からさかんに「新しい」祭りの創出……について語っていますね。これはいま「文化」について語っているのとまったく同じ構図です。それもそのはず……祭り=文化……なわけですから。

で、ここでいう「新しさ」は、僕の使っている概念が、一般的に流通している「祭り」とか「文化」という概念から想像されるものと質的に違う切り口でも問題にしているんだということを強調したいがために使っています。したがって「文化」の規定としての「新しさ」を言おうとしているわけではないですね。まあ、意識的に「新しさ」を求めようが求めまいが、どのみちそれは「新しい」ものとして資本に認知されるんでしょうけど…。

「文化」を生と同一視するなら、それを何かの言葉で規定することはできず、それはそれ自体だ、というぐらいのことしかできないだろうというのは理解するところでありますが、それでも僕はたとえば「文化とは反抗することである」というようなきわどい挑発的な言い方をしたくなります。結局僕は『祭りの戦士』の「祭り」にしても、ここで語っている「文化」にしても、一般的な使われかたとズレた意味で使いたいってことのようで、どうやらそういう言葉の使いかたをすることがなにやら自分を熱くさせているのです。

このような脱構築的な(っていうのかな?)試みで僕が指摘したいのは、いかに「文化」の問題をまさにいま目の前で自分の生に突きつけられているものとして見ないで、外側から観客的な立場で眺めている人が多いか……につきると思います。思想家とかインテリの人にも多いような気がするんですよね。文化を論じるときのその文化への距離感が何とも歯がゆい。

……おっと、柄にもなくおしゃべりしすぎました。なんか最近ブログ更新へのテンションがあがってきたので、長くなってしまいましたが前口上はこのへんにして、あとはテメーのブログに書き連ねようと思います。……が、たった一つ僕にないものがあります。それは暇な時間です。じゃあ、みんなまた会おう!
禁欲王 2006/09/14(Thu)16:36:00 編集
人々が共有する信念の体系、これが「文化」の定義としては一番しっくりくるでしょう。

もちろん「体系」といっても静止したものじゃなく、われわれの欲望がそれに則って組織され、われわれのその欲望がそれを変化させる、動的なダイナミックなシステムとしてのその全体、なんですが。

過去のその変化の経緯は歴史と呼ばれ、未来のそれは革命と呼ばれるのですが、
信念の体系ですから、
何が美しいとされ、何が醜いとされるか。
何が褒められるべき行動で、何が貶されるべき行いか、何が名誉とされ何が恥ずべき事柄とされるか。
ここに「論理」の出番はありませんから、(論理的必然性もないのは当然。)はやしさんが「興味ない」のは無理も無いでしょう。

その体系が生み出した生産物(美術品とか芸術とか芸能とか)の総体であるとか様式であるとかその一部分を「文化」と呼ぶ慣習も否定するわけにはいかないでしょうが、arai/禁欲王さんの言う、その文化は納得できるものです。
(「テメーのブログ」はどうなってんだよ!)
宮本浩樹 2006/09/14(Thu)22:28:00 編集
ぼく自身、詩は論理を有していない、とは思わないのですが、まあそれはそれとして、猫屋さんの言説で一番気になるのは、ある種のステレオティピックな見解なんですね(「マクドナルド文化の魔性=脆弱性……ブタニンゲンの再生産」)。要は、敵の言説に対して単純なNOTを取っただけで、ぼくには両者とも位相同型に見えるのです。

また、「停滞する資本主義」というのは、事実の描写、ではなく、定言命法として言われているので、実際問題どうか、ということとはあまり関係ありません。重要なポイントは、「無限遠点に向かって突き進んでいかなければ存立することができない資本主義」という規定以外のものが考えられうる以上、本質規定として「不可避的に前進しなければ倒れてしまう自転車操業的資本主義」ということが言えるかどうか、ということです。
はやし 2006/09/17(Sun)08:15:00 編集
荒井さんの言っている「文化」が、通常一般に言われているそれとは異なるものだ、ということは、それ自体としては分かるんですが、じゃあさりとて、そこで言われている「文化」は何なんだ、と考えると、よく分からなかったりするのです。たしかに、荒井さんも言っているように、もしそれが、「生きて、在る」ことと密接不可分であるがゆえに言語化を拒む、という点も「そうかも」と思うのですが、「そうかな?」という気も強くします。

何にせよ、ぼくとしても、「ズレ」ということは非常に大事だと思う反面、その「ズレ」が資本主義的運動をドライヴさせている、とも考えうるので、じゃあ、そういう資本主義的運動から切れた、もしくは、そうした運動自体を危うくさせる「ズレ」って何よ?と考えもし、それはそれで面白いな、と思う次第です。

あと、荒井さんは、「文化とは、まさにいま目の前で自分の生に突きつけられているもの」と仰っていますが、正直、ぼくにはこういう逼迫した感覚がないんですよね。それは、荒井さんが糾弾しているインテリや思想家の人たちにとってもそうだと思います。ただ、彼らの一部は、「擬態」として「自分の生に突きつけられている」そぶりをしたり、というのがなきにしも、なのがいやらしいところだったりするのですが。

ともあれ、こういう「長文」こそが荒井さんの真骨頂であると思いますので、お時間ができましたらぜひに「テメーのブログ」ではじけてください!
はやし 2006/09/17(Sun)08:27:00 編集
ん? おれは「文化」に「興味ない」とは一言も言っていないし(念のために言っておくと、おれが「興味ない」と言ったのは「グローバリゼーション」について、だよ)、また、「文化」に「論理」がない、とも思わない(論理的必然はない、というのはそうかもしれないけど、「論理=論理的必然」ではないから)。
はやし 2006/09/17(Sun)08:30:00 編集
まあとてもカメなんですが、補足。
まあ大体のところは「不可避的に前進しなければ倒れてしまう自転車操業的資本主義」として、現在の経済・政治・流通社会とかを捕らえているわけですが、

それに対応、あるいはそれへのアンチテーゼとして“土着”なるものを想定しているわけでないので、結果、このふたつが二元論的場所をとるとは思ってない。いまんとこは、“土着”なるものが一体なんだかよく分からんので、パンをこねたり、野菜スープを作りながら同時に世界をボーゼンと眺めつつ考えてるのね。

でもやっぱりビッグ・マック、あれマズイ。
猫屋 2006/09/19(Tue)22:53:00 編集
カメにはカメで対抗!……というわけではないんですが、何だか「殺す気か!」ぐらいに忙しく、PCにさわる時間もないぐらいで返答遅れて申し訳ないです。

で、たしかに、「停滞する資本主義、というものを考えている人がいる(隠す必要もないので具体的に言うと、立岩真也)」と言ってはみたものの、ぼく自身も「自転車操業的資本主義」っていう規定におおかた賛同できはするんですよ。でも実際の歴史を見ると、プレ資本主義と言われる時代だってそんなに牧歌的だったかよ、とか、仮に牧歌的だったとして、そういう生活と今の生活をトレードオフしたときどうよ?ってことを考えると、必ずしもぼくが、資本主義の恩恵を被りまくっている先進国の一員であるから、という理由だけではなく、資本主義でええんちゃう?と思います。それに、猫屋さんがそうやってパンこねたり野菜スープを作ったりできるのも、資本主義のおかげサマサマではないですか? 無論、だからダメじゃん!とは思わないのですが。

ともあれ、ぼくにしたって決定的な証拠を握っているわけではないのでいきおい及び腰になりますが、いわゆる「左翼的言説」が言い立てる「オルタナティヴ」より、資本主義的グローバリズム万歳的言説のほうがまだしも筋が通ってるし、しかも、ここが重要なポイントですが、それこそ「グローバル」に見て世のため人のためになる、と思います。

で、ビッグ・マック、小さな声で白状しますが、食べたことありません。
はやし 2006/09/23(Sat)14:45:00 編集
カメハメハの猫屋です。
欧州の片隅で貧乏している、また明日の生活がかなりヤバイ感じがあるし、年齢の違いもあると思うけど(アタクシはザリガニ後退的前進を謳うウンベルト・エーコに地理的にも年齢的にも近しいので)いちおうミル・プラトーを読み終わらないまでも神棚、いや本棚にえぃとばかりに飾ってる人間としては《資本主義でええんちゃう?》とは言えない。ひとまずジジェクが言うところの、同時に結局のところ社会主義独裁システムのツインセット的な《自由資本民主主義》なる現状内での、これはなんだ、抵抗運動なり自己保存運動なんだか分からないけどやってくよりしょうがない、と思っています。じゃないととってもじゃないけどやってらんない。

はやし氏にあられましては、死にそうに勉強できる機会ってのは誰にでも恵まれるものじゃないし、いつでもできるってもんでもないわけで、がんばってね。

余裕が出来たら、ゼヒ欧州にも足を運んでくださいな。いや、いいとこっすよ、ホント。モノがなくて音がなくて。カフェで煙草すえるしマクドでビールも飲めます(非アングロサクソン国)。
猫屋 2006/09/24(Sun)07:21:00 編集
いや、おれもかなり相当恵まれている、ということは自覚の上で、そうであればこそ、そうした現状の正当化とは別の次元で、資本主義的運動を認めつつ、何らかの運動(という表現は何かそぐわないんですが)をなしていくほかない、と思います。だから、何かしつこく食い下がる、といった風情になってしまっていますが、基本認識としてはそれほどの懸隔はない、とした上で、そういう「運動」ですら内部に繰り込みながら「自己拡大」していく「資本主義」なるものを、繰り返しになりますが自己正当化とは違った位相で、言うなれば「ツール」として使いこなしていく、という姿勢が必要なんではないか、とぼくは思います。

で、欧州、ぜひとも行きたいですねえ。何より、カフェで煙草が吸えるというのが……(それに、正直、食いもんもそっちのほうが断然うまいと思います)。
はやし 2006/09/26(Tue)14:24:00 編集
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