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超越論的な場、とは何だろうか? それは、何らかの対象に帰することも、ある主体に属することもない、つまり経験的表象ではないのだから、経験からは区別される。それはまた、非-主体的意識、非人称な前反省的意識からなる純粋な流れとして、「私」抜きの意識からなる質的持続として現れる。ここで超越論的なものが、「意識」という直截に与えられたものによって表されていることを奇妙に思うかもしれないので、主体や対象からなる世界を成すすべてのものとは対照的な超越論的経験論について語ってみよう。そういう超越論的経験論には、荒々しく力強い何かがある。その「何か」はたしかに感覚の要素ではない。というのも、感覚というものは、絶対的な意識(の流れ)における「途切れ」に他ならないのだから。その「何か」はむしろ、生成としての、(潜在量たる)力の強まりあるいは弱まりとしての、ある感覚から別のある感覚への移り変わりなのだ、これらの感覚がどれほど似通ったものであるにしても。とするならば、超越論的な場を、始まりも終わりもない運動としての、対象や「私」抜きで直截的な純粋意識で定義づけるべきだろうか?(力の移り変わりやその量についてのスピノザ的把握にしても、意識を持ち出している)

G. Deleuze "L'immanence : une vie..." in Deux régimes de fous, p.359

ドゥルーズにとって経験論とは、「実際の経験」を礎に据えた何かではなく、「今まで知られも考えられもしなかった概念の、きちがいじみた創造の試み」としてある(G. Deleuze, Différence et Répétition, p.3)。つまりそれは、「すでにある何か」に関わるものではなく、「いまだない何か」に関わる。そして、そうした(超越論的)経験論に住まう「荒々しく力強い何か」とは、昨日のエントリを読んでもらえば容易に分かるとおり、「生」を「生」として立ち現せさせる、そんな「何か」である。

そして、そういう「何か」、ひいては超越論的経験論は、(純粋)意識という(ドゥルーズを通過した上での)ベルグソン的概念で表される、とされる。それでは、その「意識」とは何か? それが続くパラグラフのトピックである。次に進もう。



(何だか、「『スペクタクルの社会』を読む」みたいになってきたな……)

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カントって、たしか、ホッブスにボコボコにされた合理論の復権を図るため、超越論的態度こそ哲学のフレームワークだとしたと思うのですが、カントが立てた、「人の思考には限界があるのだから、その限界をよく人はわきまえるように!」という態度が結局哲学を面白くなくしたというのが、ドゥルーズの一貫した態度だったと思います。

勿論、私自身、「人の思考には限界があるのだから、その限界をよく人はわきまえるように!」というカントの超越論的態度は、決して忘れてはならないものだと思います。
というか、これを、わきまえないと、人はいとも簡単に、「ト」に走ったり「桶屋」に、走ったりするからです。

しかし、時に「ト」や「桶屋」をやらないと、思考というのは決して面白くないし、そして、「ト」や「桶屋」から、時々瓢箪から駒みたいに、結構、面白い思考の産物が出てきたりする。

勿論、「ト」や「桶屋」の大半は、「ト」や「桶屋」に過ぎませんし、それを「ト」や「桶屋」の可能性大と意識もせずに主張するということは、人としてとても恥ずかしいことですが・・・。

しかし、ドゥルーズの書いた文章が、はやしさんによって「電波」に分類されることに、藤崎さんなら合点納得というところだと思いますが、私は、ちょっと複雑な思いを禁じえません。


なぜなら私自身、ドゥルーズは最も好きな哲学者ですが、読んでいて、「俺の頭が悪くて理解が悪いのか、それとも電波なのか」と問うことしばしばですから。(笑)


それにしても、笑えますね。ドゥルーズと ガタリって、コンビ組んで一緒に本を書いたのに、お互い、あとになって、一緒のこと考えているつもりだったのに、本当は結構乖離があったと認めているんですよね。

そういう本を、読者はどう読んだらいいのか・・・・・、私は、かいた本人たちが分からない本を、第三者がちゃんと読めるわけがないと思います。

だから、こっちも「電波」として、浅田彰はりに、テキトーに読んじゃえ!っていうと、多分、今度は、はやしさんに私が叱られそうな気がしますが。(笑)
Kaizer Soze 2006/05/02(Tue)04:44:00 編集
あ、原作、じゃなかった、カイザーさん、誤解しておられます。これら一連のエントリが「電波」に分類されているのは、ドゥルーズが「電波」ということではなく、ドゥルーズをダシにおれが「電波」なことを言う、ということです。

で、これについては誤解はないと思うんですが、「トンデモ」や「電波」と呼ばれるもの自体に批判はないんですよ(と言い切るのはちょっとうそかも、ですが)。というか、そんなものを批判してもしようがない。そうではなく、おれをイライラさせるのは、そういう「トンデモ」や「電波」をそういうものとして楽しむのではなく、それらが裸の王様と知ってか知らいでか、それらを信奉してそれら「トンデモ」や「電波」を増幅させちゃう人たち、なんですよ。まあ、それとても、「そういうもの」として面白がればいいんですが……おれは人間ができてないんで、なかなか。

それはともかく、「桶屋」ってどういう意味ですか?
はやし 2006/05/02(Tue)04:54:00 編集
あ、そういうことですか。ちょっと安心です。しかし、電波度は ドゥルーズ>はやしさんの解説 だったりして。(笑)

「桶屋」は「風が吹けば桶屋が儲かる」っていう、あれです。
演繹思考の典型とも言えますが、演繹の前提が何もチェックされていなかったり、帰納によってチェックされていなかったりで、話がどんどん、誰が考えてもヘンテコな方向に行く、その手の思考パタンです。「ト」の一部を構成するとも言えると思います。
Kaizer Soze 2006/05/02(Tue)05:24:00 編集
んんーそうですか、ジルに電波度では負けてますか……って、自分でも、電波なところをどうにか「非電波」に回収してるなあ、という感じが書いていて強くするので、さもありなん、です。精進いたします。

それで、「桶屋」に関しては、この間ちょっとしたやりとりをカイザーさんがなさっているときに、「誤った演繹思考」のことかなあ、とは思ったんですが、何か違うインプリケーションも含まれているようにも読めたので、念のために聞いてみましたが、概略、先述のようなことでいいんですよね。
はやし 2006/05/02(Tue)05:28:00 編集
そういうことです。と 一言だけ。
二言、三言いうと、お叱りをうけますので。
Kaizer Soze 2006/05/02(Tue)06:31:00 編集
ああ、なるほど、とぼくも手短に話を畳みましょう。
はやし 2006/05/02(Tue)06:58:00 編集
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