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マルクスの言っていること、そしてマルクス主義の目指すものが何なのか、正直言ってよく分からない。
そりゃ、一般的な知識として、価値形態論がどーたらこーたら、とか、そういうことは知っているし、あまつさえ、一応『資本論』をはじめとして、マルクスの各種著作にも若かりし頃に目を通してさえいる。ただ、それが実際のところ、現在の資本主義社会の分析にどの程度有効で、かつ、そうした理論が、いわゆる「左翼思想」の(マルクスの片言隻句をパッチワークしたアドホックな「礎」ではなく、それなりのロジカルコンシステンシーを持った)礎として用をなすのか、それが分からない。
そういう想いを以って、昔日Analytical Marxism という本を読んだ。その序文で編者のローマーはこう言っている。
どんな方法的側面によって、分析的マルクス主義は従来型のマルクス主義から分かたれるのか? それは、まず第一に、「抽象の必要性」に何恥じることなくコミットする点にある。……そして、こうした抽象へのコミットから、分析的マルクス主義を特徴付ける他の側面も出てくる。かくして、この本の多くの論文は、従来型マルクス主義が問おうともしなかった問いを問うこととなる。たとえば、なぜ「階級」というものが重要な行為主体として現れるのか(そして、実際にそうなのか)、なぜ剰余労働の体系的移転たる「搾取」は間違っているのか、現代資本主義においても社会主義は労働者の味方なのか、社会主義的革命や転換は可能なのか、プロレタリアートは果たして本当に不自由か、平等というものはマルクス主義のゴールなのか、といった問いである。
なるほど、このような問いは、言われて見れば確かに「言うまでもないこと」としてあれやこれやのマルクシストたちには素通りされていたものだ(もちろん、例外はあることは認めるが)。しかし、「そういうものだ」として頬かむりするには、あまりにも基底的、というか、のっぴきならない事柄であるように思われる。いやしくも「マルクス主義」を標榜するなら、これらの問いに答える必要が是非ともあるだろう。
しかし、そうした問いに首尾よく答ええたにしても、現状を見ると、社会主義は潰え、資本主義はそれなりにうまくやっているように見えるが、これはマルクス主義の説くところと大きく齟齬をきたすのではないか、という疑問が残る。またしてもローマーの序文から引こう。
(この疑義への)一つ目の応答は、「聖なる言葉」のタルムード的擁護をして、歴史と折り合いのつく解釈を見出すことである。二つ目は、「歴史的事実」として現れている事柄を否定することである。三つ目は、マルクス主義を「根本的に誤っているもの」として拒絶することである。四つ目は、マルクス主義は十九世紀の社会科学だ、ということに、よくよく想いを致すことである。
もちろん、分析的マルクス主義の採る道は、四つ目であり、マルクス的な問いかけを正面から受け取りながらも、その学説を現代的な論理学や数学やモデリングによってリフォーマライズし、切り捨てるべきものは切り捨てる、ということだ。
「マルクス的な心意気」というのはどうにも捨てがたい、でも、その「理論」としての現状との適応具合、および完成度から言うと「……」と思ってしまうおれなんかにとっては、うってつけ、とも言える書物であったことは間違いないのだが……その詳細についてはほとんど忘却の果て。
ということで、最近出た『アナリティカル・マルクシズム』や、けっこう前に出てる『アナリティカル・マルキシズム』も併せて再読してみよう、と思っている。
難しいですが、魅力的な主題です。セオリーとしてのマルクスにしても、経済学なのか哲学なのかカテゴライズの仕方によって行く先はだいぶ変わってくる。“20年の危機”のなかでE.H.カーはたしか面白い見方をしていて、マルクスの時代には精神分析はまだ生まれていなかった、したがって潜在意識というのはフロイトを待たねばならなかった、、(記憶ですが)見たいな事書いてます。そういった19世紀という時代の制約、もちろんマルクスの目撃したのがイギリス産業革命だったという制約もあるんですね。これらの時代的要因(多分一杯ある)を21世紀までの世界と絡めて見なきゃいけないし、かりにソヴィエト連邦の形成と崩壊がなかったなら、マルクスはどういった読まれ方をしえたかまで夢想していいと思います。いや、単なるアマチュアとしてですが、、(マルクス読んでないけど)
自称マルキストの連れ(・・・でも、彼の思想はどこが、マルクスしているかが未だに不明)から聞いた話では、「階級」が世の中を変化させる とはマルクスは言っていたが、「階級意識」が変化させるなんて、一言も言っていないとか。
これを、「階級」から「階級意識」に勝手に書き換えたのが、かのルカーチ。(・・・これは、結構読んだことあります。)
戦後のマルクス主義とは、だいたいが「階級」でなくて「階級意識」に立脚している。
それで、戦後マルクス主義を、いかさまであると否定する、連れが考え出した証明を。(ちょっと記憶があやふやですが・・・)
階級意識が歴史を形成するというなら、意識が歴史を規定することになり、それは、唯物論でなく、観念論である。
マルクスは、史的唯物論に立脚しており、それは、観念論ではない。
よって、戦後マルクス主義は、マルクスの完全な誤解釈によって成立した、いかさまである。
この証明を彼から聞いたとき、しばらく笑いが止まりませんでした。
発想の元を、遡ると安保闘争のときの 精神的支柱となった「歴史と階級意識」でしょうか。
ところで、戦後マスクス主義に足を突っ込んだ人で「歴史と階級意識」を読んだことがない人も多いというか、ルカーチの名前すら知らない人も今となっては多いのでは?
私は、人の「意識」を変えることが歴史を動かす原動力になるなんて、非常に能天気な発想だと思います。
まずはちょっと本題から微妙に外れる話かもしれませんが、猫屋さんご紹介のカーの意見は、"The Twenty Years' Crisis 1919-1939"に出てくるものですか? いや、この本、迂闊ながら猫屋さんのところでその存在を知り、ちょっと読んでみたいな、と思っているものですから……。
で、マルクスを読む上で、一番大きい、とまで言っていいかどうかはともかく、その時代背景の相違が齎す側面というのは捨象できない部分ですよね。マルクス以後のマルクシストたちは、マルクスの書き物を純粋培養しすぎて、マルクス自身が異常とも言える情熱を傾けて意を払った「歴史的デターユ」な役割というものがすっぽり抜け落ちてしまっている、と思われます。もちろん、『21世紀のマルクス』とか何とか、現代の状況に合わせてその理論を鋳直そう、という動きももちろんありますが、やはり、「理論先にありき」な感は否めません。
「もし、ソ連崩壊なかりせば……」については、どうでしょうね。そもそも、ソ連健全なりし頃から「マルクス主義」の失墜は始まっていた、といえる面もあるし、でも……といった、ぬるいことしかとりあえずは言えませんが。
それに対して、マルクスは、生産関係が生み出す「プロレタリアート」という社会に実在する階層が革命を起こす原動力になると考えていて、つまり、洗脳しなくてもアジらなくても革命は必然として起きると考えていたのでは?
(私は、マルクスは、読んでいないに等しいので、本当のところはよく分かりません。)
マルクスは、人間の頭の外に、歴然と存在する「階級」が歴史を動かすと考えたのに対し、ルカーチは、人間の頭の中にしか存在しえない「階級意識」こそが歴史を動かすと考えました。
だから、マルクスは、プロレタリアートを構成する個人個人なんてどうでもよくて、その集合体がなしている「階級」という階層に、歴史を動かす力を見た。
ルカーチは、個人、個人(の「意識」)があくまでも大切であると考えていたふしがあります。
マルクスの発想は、極めて非人称的、ルカーチは人称的といえるでしょう。
そこで、このルカーチの個人の意識を大切にする人称性と、サルトルの主体的発想がちょうどマッチして、それで、形成されたのが戦後左翼思想であるというのが、私の理解です。
ですから、戦後左翼思想ってのは、マルクスの敗北(=ソ連の崩壊)を待たずして、敗北していたというのが、私の考えです。
意識なんか、改革しても、多分、なーんも出来ないでしょう。それなら、ヒッピーが、平和を唱えたら、世界は平和になるはずです。
意識を改革しても、別に社会の根本は、全くとは言いませんが、大して変わらないでしょう。
多分、個人の意識をどうのこうのするより、家電製品の発達のほうが、ジェンダーの問題には、よほど影響すると思います。
戦後左翼に、浸った人は、なぜか、この問題というか事実を直視しない傾向があるみたいです。
戦後左翼は極めて観念的で意識に力があると思いこみ、ドゥルージアン(唯物論者)は、今、ここにある「生」そのものに力と喜びを見ていると思います。
それで、確かに、「道具(生産手段)が思考を規定する」という面が大きいでしょうが、翻って、「観念的なものがなんらかの実在を規定する」という面も、「歴史を動かす原動力」とまでは言わないにせよ、ないではないかなあ、とも思ったりします。
こう言うと、またぞろ古臭い「疎外論」的な雲行きになりそうで、ちょっと鬱陶しくはあるんですが、ここいらは考え始めると卵鶏問題的様相を呈しもし、とりあえず、「ま、捨て置け捨て置け」という感じです。
それで、以前もちょっと気になったんですが、どうもルカーチを原作たそがれ清兵衛さんは相当読み込まれたみたいで、これは一体どういった顛末で斯様なことになったんですか?
「集合的とはいえそれなりに実体的なもの」と書いてて自分で思ったんですけど、「集合名詞」って十二分に「観念的」じゃないですか? 「階級」と言ったって、あくまで実存を有すのは、一人ひとりの人なわけで。ここいらの議論、それこそ「分析的マルクス主義」の問題系として、好適。
記憶は曖昧なんで、申し訳ないです。カーは“What's history”でもフロイト擁護してますね。フロイトはマルクスに反するのではなく、補足するものだと書いてる。“危機”のほうでの言及はちょっと探したけど見つからない、、。ルカーチって知らないんでなんともいえませんが、最近はこちらでもフロイト再読の流れがあったりします、だったらマルクス再読したっていいじゃん、とか思うわけですよ(アタリが書いてたようですが)。ドゥルーズだってフロイトのなんでもリピドー原罪主義は批判しても、フロイト自体あるいは精神分析というアプローチ自体を批判したわけではない。また彼はサルトル読みからはじめてるわけで、ドゥルーズもフーコーもデリダも戦後左翼に入ると思ってます、これってちがうかしらん?
あと結局へーゲル系ドイツ観念論を越えようとしてマルクスは唯物論に行ったわけだし。ジジェクとは違って、20世紀革命理論はレーニンとこ(一国社会主義)で間違えたよーに私は思います。付け加えればマオは単なるフェオダル親分だし。
あとジェンダーの問題は避妊がネックでしょ。これをクリアして、労働者になって賃金で電気製品買うわけだもん、元来はね。
なんだか意味なしてないかも、、、でもひとまず送る。
あと、「意識ともの」の社会変化におけるプライオリティの置き方についてですが、やっぱりこれ、卵鶏問題、だと思いますねえ。だって、「何でその『もの』を作ろうと思ったのよ?」とか言われると、ある審級では「意識」を持ち出さざるを得ないじゃないですか。まあ、その影響の及ぼす範囲を考えれば、断然「もの」というか、テクノロジーに軍配が上がる、とは思いますけど。
それで、原作たそがれ清兵衛さんがたびたび言う「ドゥルージアン=唯物論者」という定式化、これちょっと分かるようで分からないんですよ。というのも、ぼくの目には時折、ドゥルーズというのはひどく観念論的に映ることがありますから。だいたい、「差異」なんてのは観念に他ならなくないですか? だから、というわけでもないですが、ぼくは、何かが唯物的だとか観念的だとかで、そのvalue judgementを下したり、ってのは、あんまり意味がない、というか、どーなんだろ?と思ったりします。
ま、科学っつー言葉自体の持つ意味がすっかり変わっちゃってるわけで、大変ですよ。
古代人的に言えば
>「もの」というか、テクノロジーに軍配が上がる、
のであれば、これはもうライセンスでは米国、もの消費文化では日本が最先端なわけで。同じ“もの”でも量でいえば中国になる。逆に“科学”をどこでストップさせるか、ってな局面に来てると思ったりする。問題は自己培養的に繁殖するテクノロジを作り手の人間がわかってんのか、おいおい。ってカンジかと。ところで私は算数は苦手であります。
しかし、ヘーゲルから、ガイストなる人称性を排除したはずのマルクスに、また、ガイストみたいなものを持ち込んで、人称性を回復したのが、ルカーチでしょう。
しかし、この回復した人称性って、私には、神なきあとに座ろうとした人間(・・・もちろん、ニーチェが批判的に言ったことです)を思い出します。
そりゃ、主体性の回復なんて、言いだして、いかにも、歴史の中心に自分がいて、それで、きっと自分は何かが出来ると思い込むことは、かなり頭の中のマスターベーションとしては、気持ちいいと思いますよ。
マスターベーションばかりしていたから、戦後左翼は、ソ連の崩壊を待つまでもなく、敗北していたんじゃないかと思っています。
まあ、ドゥルーズも、頭の中のマスターベーションといえば、その通りかもしれませんがね。w
それから、人間は、ものを作るときに、何に使ってそれがどんな効果があって、ってレベルまでは考えると思いますが、その先の、どれほど人や社会を動かしてしまうかまで、ほとんど考えないと思います。もし、はやしさんが、そこまで考えて、計算しつくしてANKKの開発に挑むなら、はやり、はやしさんにとって、世界征服が本当の野望なんだ。w
それから、唯物論、観念論の分類は私もナンセンスだと思います。
しかし、こういう分類で、あえて書いちゃうと、結構、分かりやすかったりするので、あえて、こういう書き方をしています。
考察してみよう。
たとえば「マスターベーション」という言葉が否定的な意味合いで比喩として用いられている場合、それに対して肯定的な言葉がそこには暗示的にでもあるものと我々読者は想定してしまう。
では、この場合「マスターベーション」と対になる概念とは何か?
神への愛/信仰か?
ことほどさように「二項対立」図式というものは我々の認識の基本に居座っている。
しかし、たそがれ氏はその構図を軽やかに無視して平気らしい。
「ナンセンスだがわかりやすい。」?
彼のやり方では「脳天気、エロおやじ、アホ、etc」ネガティブなレッテルは全て自分自身の属性であるがしかし、より脳天気な、よりエロい、よりアホな、etc…他者を貶めるためには有効に使用できる。
主体性を放棄し、現実を変えられるという夢を失い、シニックにはなったがニヒルにまではなれない、薄汚い「大人」。
自分より明らかに優れた者は崇め奉るか、策略で陥れるか。
放棄したはずの「主体」が、自らを守る為に、新たに立ち現れるあらゆるものを過去の分類基準に従って整理し、「今有るものが全てで、新しいものは何もない。」その小さな世界を脅かされない事が最大の目的であり、そのためには手段を問わない…。
要するに、俺たちの言葉で言えば「俗物」。
バカにするしかない在り方。
何故、バカにされに現れるんだろう?
何かワケがあるに違いない。
知りたい。
それで、猫屋さんが仰る「科学っつー言葉自体の持つ意味がすっかり変わっちゃってる」という点は、ちょっと分かるようで分からないところですね。「科学」という言葉の内包、という意味での「意味」というよりかは、「科学」という言葉が指す外延に対する、われわれのプラグマティックな接し方、という感じでしょうか? ただ、そうした場合も、議論するのであればぼくは、「科学」という言葉のもと雑駁に寄せ集められるあれやこれやを、とりあえず「科学/技術」という風に切り分けて、ちょっとメンドイけど過去に遡ってチクチク、って感じでやらんとしゃーないかな、と思います。ちなみに以前、「文系/理系」というディヴィジョンを巡って、ちょっとした議論をしたことがあるので、もしよろしければご覧ください。以下に掲げるURLから辿れる各エントリのコメント欄で執り行われております。
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また、「科学(技術)をどこでストップさせるか」については、基本的にぼくはストップさせるべきではない、と思いますし、科学者/技術者に専一に、彼らが齎し来る理論や技術の責任を押し付けるべき、とも思いません。もちろん、いずれの命題に関しても全称的に言うのではありませんし、各々について、実現可能だけど諸々のcost and benefitを考えるとやんない方がいい、ということの判断や、最低限の科学者/技術者倫理の涵養もすべきだ、とも思います。
これでも、俺は、宮本さんの発想の古臭さをずっとちゃんと指摘してあげている「つもり」だったんだけど。
俺、こっちで、猫屋さん(はじめまして!)も入ってきてくださって、久しぶりに、まともな議論が出来ると思っていたし(また、はやしさんもそれを期待していたと思うんだけど)、宮本さんの、先の書き込みで全部ぶち壊し。
「戦後左翼」という言葉に敏感に反応したのかもしれないけど、まあ、それなら、仕方ないのかなあ。
「哲学者占い」でも、はやしさんは、俺に突っ込みを入れるタイミングを計っていたと思う。でも、全部ぶち壊し。まあ、勝手な憶測ですがね。
ってなことで、どういうわけか、いろいろと、宮本さんには、イラつくことが多いです。
しかし、どうして、大阪には、こういう「読めない」人が多いのか?
うちの会社にも、宮本さんみたい人が、沢山いらっしゃいます。
俺も、「タイガイ」だけど、宮本さんも「タイガイ」だよ。
さて、科学と言う言葉の包括する意味についてはですねえ。まず頭に、“進歩”という概念があったころの“科学”と言うのがくるわけです。ただ私は、左翼論にしてもそうですが、20年来島流し状態にありまして、日本でのコノテーションはまったく無視、というより無知なんでズレがあるはずだというのはご理解ください。それで“空想から科学へ”という文章があったわけですね。あの本は書かれた時代の考古学的知フィールドへのある程度の理解をもって読んだり扱ったりすべきでしょう。実際に科学は人間の未来で人間を解放すると考えられていた。また観念論は直あるいは間接的に教会に繋がっていた。それを忘れてはいけない。そして(フロイト以前の)科学はscience exacteからまだそんなに遠くには行っていなかった。以来、精神分析をはじめとする人文科学とか経済学とかが発達するわけなんですが、今の経済学とか、、あれは科学なんですか?と不思議になったりします。また韓国でのバイオ系の捏造事件を見ても、医学にしても製薬会社と研究者のつながりとか宇宙工学とNASAとペンタゴンのつながりとか、フランスで言えば核工学とエネルギー業界のつながりとか、どうも腑に落ちない。科学自体は勝手に進むんだろうが、これは歴史自体がそうであるように、方向性は宿命的に決まっちゃっているわけではなくて、人間が決めていくわけだと思いますから、アインシュタインのユーレカ!から核兵器に繋がったようなルートはやっぱ、これからも起こるだろうし、ストップさせなければいけないだろうと思うわけなんですよ。
んでもって、直コメント欄に書いてるんで、なんの話だったか分からなくなりましたが、あそうか、科学だ。けっきょく、インテリジェント・デザイナーとかアフォなこと話題になってますが、なんか人間進歩してないじゃん、となる。経済とは富の流通ばかりではないし、ものがあふれたら人間は幸福なのか、といったらそうでもない、としか答えられない。同時にscience exacteとしての数学も、わざと誇張して言えば人間の頭の中だけに(つまり観念)存在するから純粋セオリーなんじゃないの、と吹っかけて今日のコメントを終わらせたいと思います。ではクリック。
該当URL先読んでない(本来は翻訳中のはずがこちらでサボっているわけで時間はないはずで、ハハ)ので話が大幅にずれている可能性もあり、その場合はやはりおフランスだからアバウトなのよ、とスルーしていただきたいです。
それはさておき、ブランシュビックの『諸階梯』、昔日ごりごり読んだ覚えがあるので、何となく懐かしかったです。そういやあの頃、他にもVuilleminの『代数学の哲学』とかDesantiの『数学の観念性』とか、この手の文献を「騙された」ってほど読んだなあ、と独り言。
考察してみよう。
たとえば「主体性」という言葉が肯定的な意味合いで用いられている場合、それに対して否定的な言葉がそこには暗示的にでもあるものと我々読者は想定してしまう。
では、この場合「主体性」と対になる概念とは何か?
疎外か?
確かに、ことほどさように「二項対立」図式というものは我々の認識の基本に居座っている。
しかし、宮本さんはその構図を重く受け止めて動きがとれないらしい。
「ナンセンスでわかりにくい。」!!
彼のやり方では「主体性etc」ポジティブなレッテルは全て自分自身の属性であるし、また、主体性がないetc…を他者を貶めるためには有効に使用できる。
主体性を回復し、あたかも自分の意思ひとつで現実を変えられるという「機動ガンダム」並みの夢をかなえたいという、シニックでかつニヒルになったそこらの「中高生」。
自分より明らかに劣った者はいないから、策略で陥しいれようもない。
そこで気に入らなければ、YUIさんばりにネットの上で暴れる、ネット弁慶。
回復した「主体性」を守る為に、新たに立ち現れるものを過去の分類基準に従って整理し、「今有るものを全てを否定する。」
その自分の思弁の小さな世界を脅かされない事が最大の目的であり、そのためには手段を問わない…。
要するに、俺たちの言葉で言えば「鳥頭」。
「鳥頭」そのものという存在。
何故、バカにされに現れるんだろう?
何かワケがあるに違いない。
でも、特段その理由は誰一人として知りたくもない。
皆は知っている、彼こそ、「鳥頭」を持つ「鳥人」であることを。
わかった? 宮本さんの像って、全部、既成の価値観を左右反対に鏡で写しているだけなのね。
何も、宮本さんの中に、目新しいものなんか何もないよ。
猫屋さん(はじめまして)のレスで科学は人間を解放するか?という点がありました。これについて私は解放する、と思います。例えば上記で家電の例が出ていますが電気洗濯機は主婦を重労働の洗濯から解放させてくれました。医学や薬学の発展も病人を病から解放してくれます。これらの新しいモノや技術の登場はある種の小さな革命です。この点で進歩は常に必要とされているだろうと思います。
もちろん一方で核や公害に代表される環境汚染、あるいはクローン技術などの危険なモノや状況を生み出したのもたしかです。しかしこれは、人間はモノをうまく扱えるのか?という別の命題だと思います。もちろん科学の進歩と人間のモノの使い方の進歩というか知恵が同時期に進行しないのは明らかなのだから、この遅れは当然重要な問題だとは思います。ちなみに私の知る限り現状ではたしかに少なくない失敗は経験したけども、管理することについてもそれなりに真剣にしっかり知恵を絞っているように思えます。
フロイトに関してはそれが革命(治療)につながらなかったのは精神分析学があくまで治療を目的とした技術あるいはモノとしては(結果論ですが)失敗作だったからでしょう。あるいは試作品としての価値はあったのかもしれませんが、それ以降の歴史はよく知らないです。
洗濯機が試作品から度重なる試行錯誤を繰り返してついに製品になったような過程は、おそらく古いといわれる科学においても試す価値はあるような気がするのですが、ただそれが試作品としての価値を持つか否かの判断を間違えると最終的に徒労に終わる可能性もあるわけで、科学者には常にその覚悟が必要とされるのかもしれません。とまるで他人事というか私の仕事ではないなので気楽に書いてしまいますが。
というか私はマルクスをまるっきり知りません。ごめんなさい。コメント欄が面白かったので参加したくなりました。
おれもほとんど、というか全的にiosifの兄いと科学/技術に対する見方を共有するから、レスするだけ野暮って感じもしないでもないんだけど、一方で、科学/技術が齎す利益と害悪のバランスやトレードオフという点に関する猫屋さんの危惧も分かる。
もちろんiosifの兄いも科学や技術が齎す害悪についてもちゃんとした認識は持っていると思うんだけど、おれ/iosifの兄いと猫屋さんで相違するのは、この評価バランスなんだろうな。
ただ、あらゆる、というのは言い過ぎにしても、多くの科学/技術は負の側面を持っていて、たとえば包丁なんていうプリミティヴな「技術」にしても人を刺したりもできるわけで、でも、だからといって「包丁はダメだ!」と言い出す人は少なく、一方、核に関しては日頃蒙っている恩恵は度外視してその害悪だけが述べ立てられもし、これは、その殺傷能力の多寡に起因するのかも知れず、多分そうであろうと思うのだけど、そんな議論の立て方でいいのかしら、とも思わないでもないわけで、なかなか。
つわけで、ではでは!
そこで、展開した話のように、フロイトが、サイエンスとしての面からすごいインチキ医者であったことを論じても、哲学的な面からは、もしかすれば無意味なことかもしれません。
しかし、フロイトを哲学の面から評価される方の多くは、こういう客観的事実も、ご存知なく、論を進めておられる方が多いのではないかといく感がいなめないと思います。
サイエンスと 哲学の関係を考える上で、インチキ医者のフロイトを論じてみるということは、それなりに意味があることだと思います。
是非、読んでみてくださいね。
そういった限界を、マルクスは唯物論で止揚する試みを“資本論”でやったんじゃあないでしょうか、、と話をトピックに戻してみます。
あとURLは文系・理数系についての言及先のことでした。残念ながら私は単に“lettre/文字”の人間であり、引っ掻き回すのが専門で、科学についてはこれ以上言うことないんですよ。ただ物のさして豊富ではない大陸に住んでますが、ここが母国のように次第に物に覆われつつあり恐怖しています。洗濯機は単純頑丈で20年ぐらい持つのが好きです。また5年ごとに洗濯機は壊れるか買い換えられるべきである、というのは単にマーケッティング・企業理論ですね。壊れたら風呂タブ内で足で踏みつけ洗いするのは、私貧乏人です。では翻訳に戻ります。
言ってみれば、目の前だけ見て開発するタイプの進み方は今もう出来ないはずだ、と私は思ってます。自然環境のことと、株式制度のこと、そして子供の育つ状況について頭に置いて、のことですが。
また潜在意識あるいは社会学における意識の問題などの点でフロイトのなしたところは大きいですし、実際にポスト・トロマティズムなんて場面では私達は精神科医を実際必要としているわけですから、意義はあると思っています。
あと、ドストエフスキーなりのARTがもたらしたもの、、というのもあるんですよね、付け加えれば。それと書き忘れたんですが、ナチスドイツがソヴィエトに与えた影響とかも“共産主義”の変遷を考える上では忘れるわけにはいきません。(ここら辺はカーが書いています)
ただ、そうではあっても、「科学/技術の価値中立性」ということが言われもし、現場的には「いっちゃえいっちゃえ」的なムードがともすれば湧出しかねない面もあることも確かで、そこいら辺のリミッターというかチェック機構をどうするか、というのは、「これで万事オッケー」という万能薬がありそうもない以上、一つひとつの個別事例に関して、地道にやり続けていくしかないでしょう。
それで、「科学の系譜学」的なことに関しては、直近のコメント欄で示したやりとりを見ていただくのが早いんですが、ここで掻い摘んで言っておくと、「科学」という言葉で指示されるもの/ことと言えど、通時的に一枚板ではありえないわけで、あくまで「そのとき/その場所」で何が言われていたか、ということに就いて発言するべきであろう、と思われます。ただ、いわゆる「近代」という言葉で名指される時期以降の「学問機制」に関しては、理念的にはカントの三批判書を経てヴェーバーの理念系に至る流れや、学制的には英国王立科学協会や仏ポリテクの創設というメルクマールもあったりしますが、そうした事柄に併走するように、「科学」という言葉が専一に「自然科学」というときのそれを指示し始めた、と見ることが出来ます。
ただ、この手の話題(科学/技術に関する、理念的/倫理的な話)になると、1)個別事例を何の手続きもなしに普遍化したり、2)カテゴリー的に決して排中的でない事例の片側が否定されたからもう片っぽが成り立つという論理的に妥当でない物言いが為されたり、ということがなぜだか不思議と目立つのがちょっと気になります。たとえば、猫屋さんの発言で言うと、「けっきょく、インテリジェント・デザイナーとかアフォなこと話題になってますが、なんか人間進歩してないじゃん」というのが1の例になりましょうし、「経済とは富の流通ばかりではないし、ものがあふれたら人間は幸福なのか、といったらそうでもない」というのが2の例になる、と思います(もっとも、猫屋さんとて全称的にこれらの命題を挙げたわけではなく、こういう事例も考え合わせて議論せにゃアカンという問題提起をしている、ということも同時に理解しているつもりです)。ちなみに、数学に関しては、「わざと誇張して」言っても言わなくても、純粋理論的であり「どこが自然科学なんじゃいな?」というのは全く以って正当な判断ではあります。しかし、科哲的に言っても面白いのは、何でそういう純理的で非自然的な数学が、この自然界をこうもうまく記述でき、かつ箆棒なapplicabilityを有するのか、ということではありますが。
ここいら辺の議論は、科学方法論が専門の(?)藤崎さんにご登場いただいて吼えてもらうとおれとしては面白いと思うんですが……藤崎さーん、見てますかー?
あ、それで、二つ目の猫屋さんの「自己解説」レスで言われている「該当URL」、カッコ内の文言と併せて考えるとどのURLのことなのか分からないのですが、ぼくが挙げた「文系/理系」を巡る議論エントリのURLのこと、でしょうか?
大体においておれは、マルチタスク型というか、全然関係のない議論や与太話を同時並行オッケー問題なしですから、おれのことは気にせんで進めてください。そして、隙あらば場をさらに掻き乱しに参入します。
神話/呪術、宗教/瞑想、政治/テロetc…。
他の方法はいくつもあるのに、科学/技術だけが唯一の方法だと信じるのは馬鹿げてる。
全体を部分に切り分け(カテゴライズし)説明可能なパートを反証可能性を担保しつつ決定していくっていう「科学」のその方法が「たゆまざる進歩。」(ダーウィン進化論)と「一神教」(キリスト教)と結びついた結果…。
その(科学の)制御不可能な暴走とも見える事象に反映されていると思える。
「西洋」科学が唯一の正統な『我々人間が世界を理解し、世界に働きかける為の方法/テクノロジー』ではないという立場に立てば、はやしさんの
「1)個別事例を何の手続きもなしに普遍化したり、2)カテゴリー的に決して排中的でない事例の片側が否定されたからもう片っぽが成り立つという論理的に妥当でない物言いが為されたり」の例としてあげられた猫屋さんの発言中の「インテリジェント・デザイナー」などはそれ自体が普遍的な、宇宙の全体を説明しようと企てられたものだからあきらかに個別事例とは言えないものをはやしさん自身が「論理」の枠組みに無理矢理押し込めているととれる。
2)の例も否定形と否定形を重ねてるのだから「排中律」は使われてない。
はやしさん、しっかりしてよ。
と言わざるを得ない。
で、ペットのたそがれさんについても
俺の後に嬉しそうにコメントを付けたあとで、何がフレームなんとかが読めないなんだよ?
そんな間抜けなこと言ってるから「たそがれ」さんって呼ばれるんだろ!
お互い大阪なんだからこの際決着をつけようぜ!
俺は8時前にはバイト終るから、梅田でもナンバでも何処でもいいから会って飲もうぜ!!
で、その会合の報告をここでするってのはどう?
「フロイト」の名で我々の言説空間にもたらされた「無意識」を扱う技法ってものが、我々の世界を、世界を扱うそのやり方と可能性を拡げてくれた事は歴史的事実なんだから、フロイトそのヒトがパクリ屋で女たらしでアル中で…etcだったとしてもそんな事どうだっていいじゃん。
ちがうかい?
>目の前だけ見て開発するタイプの進み方は今もう出来ないはず
というのはやみくもに開発できないということですね。たしかに石油に代わるクリーンエネルギー、環境に配慮した車、などなど目下の現在の主要なテーマ(だと思う)はそういう流れにあるんだろうと思います。
それと、フロイトについて失敗作と表現したのはあくまで治療の技術としてのことです。社会学的な部分については私も否定的な感想は持っていません。
あとはやしさんの問いかけ(「そんな議論の立て方でいいのかしら」)に答えられる言葉を残念ながら私は考えられませんでした。すいません。
ちょっと勇み足が過ぎたようなのでこの辺で退散させてもらいたいかと思います。ではでは。
ただ、そうは言っても、ゾルレン的なことに関してはやはり哲学的言説に登場願わねばならぬわけで、ここいらの「科学/哲学」の絡み合いに関しては、猫屋さんも指摘するように、元来の統一的な姿を少しでも思い出しつつ、お互いがお互いの土台を提供しながら、反目するのではなく足並みを揃えてやっていくべきでしょう。
あとフロイトに関して言えば、今臨床的にPTSDを扱っている精神医学と、フロイトを絡めて語られるそれとは、ほとんど別物、と言ってもよくはないですか? 確かに臨床の現場を離れ、人文的なことがらにおける解読ツールとしてフロイト的解釈格子が用いられる、もしくは、フロイトの言説が提起した問題を、それはそれとして引き受けつつ歩みを進める、という道行はありなのかもしれませんが。
で、宮本さんはインテリジェント・デザインの内包をを取り上げて、「それは普遍的な事柄を扱ってるから……」なんてマヌケなことを言ってるけど、おれが言ってるのはそんなことじゃないでしょ? おれの発言と、IDが言わんとする内実なんてのは、ほとんど何の関係もない。おれの言いたいことは、IDみたいな、「おいおいそれどーなのよ?」というような不用意なことを言っちゃうやつってのは全体から考えればほんの一握りの「個別事例」に過ぎないのに、そこから「だから人間ってのは……」という普遍的な命題にすっ飛ばすのは何か手続き抜かしてるでしょ?ということ。ただ、猫屋さんの言いたいことというのを忖度すると、「ほんの一握りとはいえ、IDのようなことを言い出すやつが、いつの時代も一定の割合でいる」ということを言いたいのかも知れず、それはそれで確かにほんとっぽい命題ではあるけど、やっぱりそれにしても「だから人間は進歩してない」というのは言い過ぎというもの、と思うのだ。
排中律に関する論点も、猫屋さんの原文は「否定形と否定形を重ねてる」んじゃないと思うけどな。バカな宮本さんのために丁寧に猫屋さんの言をパラフレーズすると、1)経済とは富の流通ばかりではない、2)「ものがあふれたら人間は幸福なのか」といったらそうでもない、という二つの意見が、まとめると、一般的にgoods/biensと呼ばれるところのものが必ずしも「人のしあわせ」に寄与するとは限らない、と言ってる。そして、それはそれで全く以ってそうなんだけど、だからといってgoodsによる「しあわせ」というものを猫屋さんは低く見積もり過ぎなんではないか、つまりけっこう強い意味での「goods/それ以外」という排中的な図式を想定しているんではないか、とおれは言っているだけのこと。
だから、宮本さん、「しっかりして」といくら言ってももう手遅れだろうから、せめて大人しく部を弁えて、事の推移を見守ってたら? ま、これはあくまで「勧告」であって、何か言いたきゃ言やいいけどさ。
って、まず手始めにさ、「『無意識』を扱う技法ってものが、我々の世界を、世界を扱うそのやり方と可能性を拡げてくれた」って宮本さん言ってるけど、ちょっと具体的な事例を挙げてみてよ。話はそれから。
それで、こういうことでどうですか。
1 梅田の曽根崎警察署の前で待ち合わせて、「お酒無しで、かつ、曽根崎警察署の中で議論する」
ってのは、ネタですが、
2 貴方も、私も、はやしさんのブログに、2月末まで、一切書き込みを行わない ということで。
とても、はやしさんは迷惑されていますよ。私にも貴方にも。
親しき仲にも礼儀あり と いいますね。
最大の礼儀とは、しばらく、お互い 書かないことだと思います。
まさか、この程度の子供でもできる自制が利かないってことは無いでしょう?
ID:とんでもな言論はいつでもあった。→どーせ世のなかいつでもおんなじだからなるようになるだけさ。となる。でも、最近いろんなところでトンデモが加速拡散してる印象は強くて、おまけにそのトンデモを拡散させる媒体と、トンデモと“権力”がどこかで繋がってるよーである。過去を見ても時としてトンデモが急激に繁殖した時期がある。
フロイト:潜在意識というのはそれ以前にはなかった。と言う意味において現在の精神医学や社会学etc.はフロイトと繋がっている。精神病というのもそれ以前はなかったって事でもあるんだけど。
あと“科学”に関して“自分のいる場所”と書いたけど、これは地理的場所関係も入ります。てのは環境問題に関しては、たとえば欧州と日本では、一般化は出来ませんが、コンセンサスが、また日常的に流通する情報にしてもだいぶ違うようだ。企業の出してる環境情報が全て間違いだとは言わないけれど、かなり差っぴいて理解すべきでしょう。また過剰なる“物”は何かを奪うよ。上手くいえないけど関係性の問題だと思いますが、、。まあ、過剰というのは人間の背負った宿命みたいな気もしますが、、。同時に過去の人間と現在の人間とどっちが、たとえば“利巧”かと言えば、これ私には分からない。ラスコーに残された“絵画”なんて見ても凄くて、今の人間にはあんな凄いもの描けないと思うし、ラディカルに言っちゃえば物が増えた分だけ人間はばかになってるのかもしれません。
ちょっと話は飛ぶけど、子供達がどんどん暴力的になってるのは現在の社会システム(新階級性)と経済システム(過剰消費)と繋がってるように思います。親が時間の変わりに物を与えてるってのはある。
それで、別におれは原作たそがれ清兵衛さんの書込みにも、そして宮本さんの書込みにも迷惑しているなんてことは微塵もないので、そういう点ではお気遣いなく、です。
「礼儀」ということでおれが宮本さんに要求したいものは、1)人の意見をきちんと読み、そして咀嚼し、2)その上で自分の意見を理解可能な構成と言葉で書き表す、ということかな。今の時点では残念ながら、どちらの点についても宮本さんは失格と言える。
ただ、フロイトに関してのぼくの評価は、猫屋さんに比べると断然辛いです。というのも、彼が為したと思しき業績とその害悪とを引き比べると、ぼくには害悪の方が圧倒的に有意であるように思われます。また、「潜在意識」というのもフロイトの専売特許ではなく、精神病というものもフロイトの以前から厳として認知されていました。ここいらの結構については、またも手前味噌ですが、以下の記事、およびそれに付随したコメント欄でのやりとりをご覧ください。
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