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このことについて東浩紀は、GLOCOM設計研共同討議で、「これは古典的な論理パズルにすぎなくて、実践的にはたいして重要な問題じゃない」と言ってるんだけど、ほんとにそうか?
おれにはこのことは、まさしく「実践的」な意味で重要な問題だと思う。
確かに、徹頭徹尾「多様性を認める」という硬直的な態度ではなく、「基本的に」そういう態度を取るが、譲れない点は譲らない(たとえば、相手が「多様性を認めない立場」を採っている場合、「その立場は認められない」と一旦「多様性を認める立場」を自らが放棄する、など)、と実践的にはなるのかもしれない。
ただ、やはり、それは一貫していないことは明らかだし、どうにか「多様性を認める立場」を貫きたい。その場合、「多様性を認めない立場」の人を「改宗」させて万事オッケーであれば話は早いのだが、そのようなこと自体「多様性を認める立場」からは出てきようがないだろう。また、「多様性を認める」ということで、単に「そういう(多様性を認めないような)存在を許容する」というだけのことであれば、どうということもない。
そうではなく、「多様性を認める立場」から、「多様性を認めない立場」をも等しく「多様性」の一つとして認め、かつ、そういう人と関係を切り結んでいくにはどうすればいいのか?
単純な結論など出そうにもない。最終的に如上のように「それはそれ」という「大人の対応」で切り抜けるしかないことなのかもしれない。それでも、どうにかならないものか?と思う。
だからこそ、「招かれざる客をも無条件に歓待すべきか?」ということを論じるようなデリダなんぞのことを、打ち捨てられずにいるのだけれど。
GLOCOM設計研共同討議ではその後…
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多様性は多様性を認めない存在よりもつねにメタレベルに立つ、なぜならば多様性とはそもそもメタに立とうとする「運動」としてあるからだ、ということで簡単に片が付くと思うんですね。
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と続いていますね。ちょっと仕事の合間に書いているので資料なし(いつも20年前の記憶だったりして)ですが…個人的にいえばメタ・レベルに逃げこむというのはラッセルとかラムゼイあたりからの発想ですよね。
…でも、あれって動的な運動ではなくて静的な論理学だと思うんだけど…。それにメタ→メタメタ→・・・運動ってバートリーのお友達のアルバートが指摘したように、無限後退ですよね。
推論2
1)もし独裁制を望む多数者の意志でさえも尊重されなければならないならば民主主義は自己を否定する要素を内に含んでいる。
2)もし民主主義が多数者支配を至上の原則とするならば独裁制を望む多数者の意志でさえも尊重されなければならない。
従って
3)もし民主主義が多数者支配を至上の原則とするならば民主主義は自己を否定する要素を内に含んでいる。
ということで、宮本さんに一票
デリダのこの「歓待本」、「条件なき歓待」というものを主人が主人として、主体が主体として、そして国家が国家としてあるための条件であるにも関わらず、実際問題「条件付けられた歓待」しかなすことが出来ないという「アポリア」をどうするか?……という、こう書くと、まあ「いかにも」デリダなものなんですが、実際は移民の問題や、ネットなんかの「遠隔通信技術」のセキュリティがもたらす「公共=警察」の力の拡大の問題など、けっこう実践的なことを扱った本なんで、是非。
それに、まさしく藤崎さんが言われるように、こういう階層理論というのはあんまり「動的」だとは思われないし、それに無限退行的でもあるわけです。
ただ、「メタに立とうとする」という、「試行的」なことを匂わせる東さんの言い回しがちょっと引っかからないでもないんですが。
確かに、多様性を認める立場に対して、認めない立場から「お前のこと、認めないよ」と言われちゃえば、その立場を改宗させるつもりがなければ打つ手なし、なのかもしれないけど、でも、「まあ、そういうやつもいるんだな」という「認識的寛容」にとどまらず、というか、とどまりえず、そういう人と関係を切り結んでやっていかなきゃならんことがどうしたって出てくる。「そういうとき、どうするよ?」っつーことなんだけど……。
だから、「認めあいたがってる」ということでは、さらさらない。
で、宮本さんの返答にも書いたけど、確かに論理的には「そう言われちゃしゃーない! おわり!」なんだけど、実践的にはそんな簡単には「終われない」わけで、だからこそ、「どーすっかねえ」っつーことです。
それはさておき、実は、おれがこれを書きながら念頭においていたのが、「民主主義というのは定義上必然的に独裁者の存在を要請してしまう」ということを「証明」した「アローの不可能性定理」なんだけど、何かめむひさんの記述を見て、「しんくろにしてぃ〜」と思ったことであります。
オイラは、プラットフォームに落っこちたことを告白したカノ人の本を読んだことはないのでコメントできませんが、一般論として、文献解釈あるいは翻訳ばっかやった<頭のいい人>って…実践のレベルで「じゃぁ、俺たちどうすればいいの?」とゆ〜問題に直面した場合…世間知らずなチンプンカンプンなソルーションを与えてしまう輩が多いですね。まあオイラのようなビジネスマンには、そんなヤツは<ムカつくだけ>で何の関係もありませんが…。
…で、いわゆる<民主主義のパラドクス>あるいは<多数決のパラドクス>は、ポパーが定式化したものですが(まあポパーでなくとも誰かが…)、デリバティブ理論の元祖アローによって否定的に解決されたというわけです。オイラが総括するのもなんですが、19世紀が科学積極主義(ポジティビズム)だったのに対して、20世紀学問の特徴は、近代社会の根幹をなす基本テーゼのいくつかが、否定的解決されたとゆ〜点で<重要な世紀>であったと考えています。ゲーデル、クワイン、アロー…みんなそうですね。そして、同時並行的に勃発した世界規模の戦争が、大きな傷跡とともに、オイラたちに<実践レベル>の教訓を与えてくれた…。
ここで重視すべきは、このような否定的解決のインプリケーションを、どのように解釈して実践に適用するかだと思います。これが21世紀の課題のひとつになるのではないか…。ここで、20世紀後半に資本主義体制内部に発芽した<いわゆる左翼>は、このようなネガティブなインプリケーションを近代資本社会の限界だとかいいつつ、そこから派生するあらゆるプラットフォームを否定するアナキズムになったり、既存プラットフォームの破壊活動を志向しましたが…結果として、多くの<真っ当な>人たちは、<ノイラートの船>は下船不可能であるとの合意ができたのでは…と考えています。
いずれにせよ、否定的解決は<いわゆる左翼>でなくても、現状の否定という弁証法的契機を含んでいるので、時間(あるいは発展)を考慮せざるを得なくなります。そんなわけで、西洋論理学とインド論理学を対峙させるくらいなら、プリゴジンにならって、<存在の科学・哲学>と<発展の科学・哲学>を対峙させたいとゆ〜のが個人的な意見っす。
<ノイラートの船>は一隻の船でしょうが、この一隻の船を、よくよく詳細に観察すると、ありとあらゆる「板」というプラットフォームの集合体でもあることが分かるわけです。
そんで、なんで、<ノイラートの船>一隻を、一気にひっくりかえそうとした、ほとんどの連中は流血革命家にすらなれなくて、刑務所行きになったかというと、「板」の複雑に絡み合った集合体であるという認識が決定的に欠けていたからなんですね。
それなら、どうやって、無血革命をすればいいかというと、そりゃ、みんなが、丁寧に一枚一枚 はり替えていくしかない、これが私の持っている感覚です。
自分の良く理解できているテリトリーだけでもいいから、「一枚一枚、「身体を張って」変えていく地道な努力」、これができる人がアナーキストであると、ドゥルーズは考えていたのではなかろうかというのが、私の見方です。
(ほな、そうしたら、必ず無血革命ができてしまうというほど、さすがの私も能天気ではありませんが・・・。)
先に言っておきますが、これは改良改善の類ではありませんので。明らかに、捨て身の攻撃以外の何でもありませんから。ただ、その時に大切なのがいかなる権力の擁護者ともならないことです。
そういう意味で、アニメ業界で一歩でも、その大切な一歩を踏み出しておられる荒井さんなんか、私には尊敬に値する人となります。
金融業界において、「裁定といわれているもののほとんどは、本当は投機だ」って「王様は裸だよ」って言っておられる藤崎さんも勿論そうなのです。
お二人は、多分、お互い考えが違うなって感じておられるかもしれませんが、私なんかがお二人を見ていれば、素晴らしいシンギュラリティーが並走している姿のように思えてしまいます。
言葉の定義にもよると思いますが、私には藤崎さんって人は、かなりアナーキーに見えてしまいます。
一方、こういうお二人のような実践面を完全に無視して、たった一つの統一的な理論を求めておられる方は、アナーキズムからも本当の革命からもほど遠いように思えて仕方がありません。
ひとの世界は、どんなに小さいことでも、「実際にできて、なんぼ」の世界であります。
で、多元論の持つ「あれもこれも」性を積極的に認めたドゥルーズは、やっぱり好きですね。一元論の好きな理論家には嫌われると思いますが。
私にとって、ドゥルーズの「思想」が凄いと思えるところは、藤崎さんも、荒井さんも、はやしさんも、私も自由に思考して、「板」のはり替えが出来やすい「思想」をばら撒いてしまったことでしょうか。
そんで、今もう、とても眠いので、さっさと寝させていただきます。ふああああ。
「民主主義は失敗する事があるよね」というのを前提にして、「とにかく、基本的人権は大事だよね(基本的人権の尊重)」「他の権力装置による国の監視も必要だよね(権力分立、チェック&バランス)」「だったら、基本法を作って、国はそれをできるかぎり守らなければならないようにするのがいいよね」ってことで、「基本的人権の尊重と権力分立+代表民主制=立憲主義」と発展するのだっけ、とか思っております。まあ権力分立は普通は中央集権の腐敗防止だろうけど。
そんな感じで、板を一枚一枚組み合わせて、ベストとは呼べないかもしれないけど、以前よりましなものを作っていこうという、私の考え方は改良改善の類です。
話は変わって、「そういうとき、どうするよ?」っていう問いについてなんですが、最近読んだ本の解説に、結構気に入った文章があってデスね、ちょっと引用すると、
『人々のお喋りは、「そう思ってそれを口にすること以外に当面何の根拠もない」ものであって、二人の人物の意見や態度の間にある差異など「たんに二人の好きな冗談の種類の違い」に過ぎないからである。』
と書いてあって、まあ状況によっては「好きな冗談の種類の違い」では済まされない事もあるだろうけど、この位に気楽に考えるのが実践的なのかもなあ、なんて脳天気に思いました。では私も寝ます。またー
で、「多数決(民主主義)のパラドクス」、フォーマライズしたのポパーなんですか? それはちょっと知りませんでしたけど、藤崎さんの言うように、20世紀というのはある意味、色んな問題が否定的解決を得て、「で、どうするよ?」ということの多い時代でしたね。
そして、その「で、どうするよ?」ということに関して、案外、というか何というか、その否定的解決が出たプラットフォームに関して、「じゃあ、何でもありなんだな?」ということでアナーキズムに走る、というのは、むしろ少数例でしょう。「しゃーねえなあ」とぼやきながらも、どうにかこうにか欠陥のある船で航海を続けてきたわけです。そして、そうした「どうにかこうにかな航海」の中から、単にその場しのぎというのではない、新たな展開というものも多数生れてきたわけです(たとえば、アローに関してはその後の社会選択理論の発展など)。ただ、そうした中でも、自分が乗ってる船が欠陥船であることを理解できず、旧態然としてる人たちも未だにいるような気がしますが……。
で、インド哲学と西洋哲学というペアでも、プリゴジン風に<存在の科学>と<発展の科学>というペアでもどちらでもいいんですが、「ある」と「なる」っていうのは必ずしも排他的なものではなく、実践的にはスコーピングの問題ですよね。だから、藤崎さんの意は違うところにあるのかもしれませんが、「対峙」っつーのもちょっと違うかなあ、と思います。
アナーキズムに関しては色々難しいんですが、少なくともドゥルーズからはアナーキズムは出てこないんじゃないでしょうか? というのも、あのおっさんはああ見えてけっこう依怙地な人ですし、むしろ一般に言われる「アナーキズム」なるものは軽蔑していたのではないかと……もちろん、原作たそがれ清兵衛さんが仰っているアナーキズムは一般のそれではないということは分かるのですが。
翻って、「アナーキズム」という言葉の語義を考えてみると、an-archeで「起源がないこと」です。つまり、最終的な決定要因、つまり「神」やら何やらを否定することが、そのぎりぎりの内包だと考えられます。となると、何らかの物事があるとして、その超越的な決定因を否定、もしくは不可知とすれば、これ、アナーキズムと言えばアナーキズムなわけです。そうすると、ここからは「単にむちゃくちゃやる」ということではなく、「何がどうしてそうなったかは分からないけど、とりあえず今ある状況におれたちは置かれていて、そこにおいてありものでどうにかしなきゃなんない」という、きわめて実践的な態度にもなりうるわけで、こうしたことが原作たそがれ清兵衛さんの言うアナーキズムに繋がってくるのかなあ、と。
で、だからといって、「ダメじゃん!」ってことをほっぽりだすんじゃなく、理屈で言えばダメだしパラドクスにも陥るんだろうけど、それでも現実を回してかなきゃいけなくって、で、そういう場合にもある種の「理屈」はいるだろう、じゃあ、そうした場合の「理屈」はどんなんがいいかな?ということを問わなきゃなんないすよね、「論理的には問題にならない」とか、メタに逃げ込むんじゃなくって。
めむひさんが引いてくれた引用、それ何だかとっても素敵な情景(におれには思えた)だし、事実そうだよなあ、とも思うんだけど、おれが考えていたのはもうちとシビアな状況っつーか……でも、「人々のお喋りは、『そう思ってそれを口にすること以外に当面何の根拠もない』もの」っつーのは、そうかも。何か、「全部後付だろ?」って気がしてきちゃうよね、何でも(というのは言い過ぎか)。
はやしさんの表現をちょっと、お借りして書いてみるなら、やたらでっかいだけで極めてぼろそうな船を、「みんなで船の修理」してたら、なんかいつの間にか「宇宙戦艦ヤマト」みたいなもんが出来とって、なんか知らんけど、宇宙の「果ての果て」まで飛んで行ってしまったという風になれたら、おもれーんですね。しかし、なかなか、そんな風には行く訳でもないのですね。とほほ。
1) the romanticism of the intellectually interesting
知的好奇心という浪漫主義
2) Te ubiquitous chase for 'experience'
なんでもかんでも体験したい
これが僕のような若い世代の欠点であり、ウェーバーから厳しく戒められたのを覚えております。
さて、<実践>についてですが、オイラは過去の学説研究とか理論研究といった象牙の塔系の活動も<実践>だと考えています。象牙の塔の問題は、むしろ官僚組織論/権力論として把握すべきで…まさにウエバーそしてフーコーですね。これは官民問わず大組織共通の問題です。彼らは超一流の経営学者である!
…で、オイラは理論と実践は表裏一体だと考えています…IT関連用語でいえば、問題の核心は、実装技術(インプリメンテーション)の評価だと思います。理論家だけが<理想>に走っても<実装>が追いつかない、また使い古されたような理論でも、<実装技術>に関しては難問が存在する…。そのような実装家の問題圏に配慮できないような、傍若無人の理論家をオイラは<世間知らず>と言いたいだけです。
逆に日本で問題なのは、理論家/アカデミズムの軽視ですね。理論があたかも<実践>と別の世界であるかのごとく…遠ざけ奉れば無害だと思っている(またそれを名誉だと思っている御用学者も存在する)。たとえば、亀井議員や野中元議員は、言葉の端々に<竹中のような学者ごときになにができる!>というニュアンスが伺えます。おそらく竹中氏が御用学者としてナンチャラ委員会の座長程度ならOKなのです。でも大臣としての地位を確保してしまった!これが守旧派には我慢がならない。
…で、竹中議員の学者しての評価はともかく、現場を踏まない人間は現実を解決できないとゆ〜自民党ドロドロ政治家の現場感覚至上主義もまたドグマですね。切れる理論は実践でも切れる。ただしくインプリできれば…。
実装技術を軽視する
そういう不可測なところがまさに、生きてることのおもれーところでもあり、と同時にすっげーいらつくところでもあります。
で、確かに「学者」(とくに、その「修行時代」に関してね)としては「知的好奇心という浪漫主義」とか「なんでもかんでも体験したい」という「発散」させる方向はまずいっちゃまずいんだけど、さりとて、「蛸壺化」もどうかなあ、とやはり思うし……。
それはそうと、訳が悪いのは岩波版?
あ、僕にもそう推測されます。特にウェーバーの本を読んでいると、これはひょっとすると職種を問わず管理職の方向きの本なのかなあ、と思う時があります。で、「社会学」という学問は他の学問とはかなり異なり、恐らく管理職の学問だと思うのですが(だから実を言えば僕にはまだ全然必要のない学問なのですが…)。その意味でも、他の学問ならともかく世間知らずの社会学者というのは問題があるような気がします。
で、この問題ってけっこう古くからある<スキエンティア>と<テクネー>の対立なんじゃないかなあ、といい加減に思ったりもします。たとえば、同じ学科内でも理論系と実験系でお互いに、いがみ合う、とまではいかなくても、内心密かに自分の方の優位性を誇っていたりだとか……でも、スキエンティアとテクネー、つまり理論と実践って決して対立的なものじゃなく、相補的というか、そんな感じのものですよね。だから、理論家の方も、実務家の方も、お互いに相手の方を向くことが大事だと思いますね。
ただ、必ずしも相手のことを意識してなきゃいい仕事が出来ないってわけでもなく、たとえば、伊藤のレンマが今のような使われ方をするなんて伊藤さんは全然思ってもみなかったわけで……だから、一概には何とも言えないにせよ、でも、理想としては「相思相愛がいいね」っつー感じですかね。
いや、もちろん、その「修行時代」には他のことには目も向けずに、決められたことだけを専一にやってたのかもしれないけど、その結果だけを見ると如上の「欠点」2つに動かされていたとしか思えないような、スコープの広い仕事を残しているような気がする。
それに比べると、最近の方がスコープが狭いよな……って、それぞれの領域の掘り下げ方がべらぼうに深くなってきてるから、致し方ないことではあるんだけど。
10 | 2024/11 | 12 |
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