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一階論理に関する完全性定理について、スコーレム1922年の論文「公理化された集合論に関するいくつかの指摘」が、その証明の一歩手前まで議論を進めていたのは、有名な話である。そして、じっさいに完全性定理の証明を遂行したゲーデルじしんが、その1922年のスコーレム論文を参考にしていたかどうかについて議論があったのも、有名な話である。しかし、ゲーデルが後年、スコーレムが完全性定理の証明に迫りつつも惜しいところで届かなかったのは(そして、ゲーデルはその証明を成し遂げられたのは)、ひとえにその数学観、つまり、数学についての哲学的態度による、と語っていたことは、あまり有名ではない。
ゲーデルは、ハオ・ワンに送った1967年12月7日付の手紙のなかで、つぎのように言っている。
つぎのように付け加えてもよいかもしれません。つまり、数学とメタ数学一般、とくに超限的推論に関して、わたしはそれらを客観的なものとして捉えている my objective conception ということが、完全性定理の証明に限らず、わたしのほかの論理学上の仕事にとっても基礎的なことである、と。(Collected Works, Vol. V, p. 398)
数学およびメタ数学に関して、それらを「客観的なものとして捉える」ということは、数学やメタ数学(の少なくともある側面)に関して、それら主題におけるエージェント、つまりは人間の存在とは独立に、たとえば「数」やら「超限的推論」やらが(何らかの意味で)存在する、ということである。ここで言われたことと、ゲーデルがほかの場所(たとえば、1947年の「カントールの連続体仮説」などを参照)で主張した「プラグマティックなプラトニズム」とでも言うべきものとの相同性を見るのは、むずかしいことではない。
しかし、ひるがえって考えると、じっさいのところ、スコーレム(あるいは、ゲーデル)の証明の具体的にどの部分で「数学およびメタ数学の客観的把捉」が欠けていた(あるいは、あった)と言えるので、惜しいところで完全性定理に届かなかった(あるいは、届いた)のか、さらには、スコーレム(あるいは、ゲーデル)におけるテクニカルな部分での瑕疵(あるいは、利点)は、はたして本当にそうした「数学およびメタ数学の客観的把捉」の有無に帰せられるようなものなのか、その検討(とくに、後者の論点に関して)はじゅうぶんになされたとは、言えないように思える。
とりあえず、ゲーデルのスコーレムに対する評言を、スコーレムの書きものそれじしんに愚直に当てはめてみること。まずは、そういう前提作業からはじめてみようと思う。
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