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中学時代のストリートアーチンぶりとはうってかわって、高校のころはそれなりに本を読んだように思う。そのなかで、中学時代の『銀星倶楽部』ノイズ特集号に匹敵する役割を果たしたのは、高橋源一郎『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』である。

これは、いまとなってはどうして手に取ったのだかまったく覚えていないのだけど、『さようなら、ギャングたち』を読んで、「こりゃすげえな」と思った。それまでも、フィクティヴなものにかぎって言えば、どちらかと言えば「正統」ではないような、とっぱずれた(あるいは「実験的」とも称されうる)ものを読んでいたのだけど、この『さようなら、ギャングたち』はそれらのどれともちがっており、めちゃくちゃをやりつつも、同時に凛とした「うつくしさ」とでも言うべきものを湛えていた。そうなると、とうぜん、高橋源一郎の書いたほかのものも読みたくなるのが人情というもの(おれが集中的に高橋源一郎の本を読んだころはいまだ競馬番組のキャスターをしたりとか、そういうじゃっかん悪い意味で「表立った」活動はしていなかったのです)。そして出会ったのが、『しまうま語』だったのだ。

『しまうま語』は、かんたんに言うと、高橋源一郎がいろんな媒体に書き散らした雑文やら対談やらをコンパイルしたもので、悪く言えば「余藝の(その時点までの)集大成」といった感じだが、これがなかなかどうして、内容が濃く、そこに収められた各種雑文や対談を通じて、バース、ピンチョン、バーセルミなどのいわゆる「ポストモダン的」と呼ばれるアメリカの作家たちや、吉本隆明、蓮實重彦、柄谷行人、浅田彰といった人たちを知り、それら著作を順次読んでいくことになる。とくに吉本隆明との対談は、そこで聴かれる吉本隆明のvoiceにみょうに惹かれたということもさることながら、その「フーコーの『言葉と物』を読んでいないやつはモグリ」との発言を真に受け、いまだ本店しかなかった新宿紀伊国屋書店まで『言葉と物』を買いに走らせたという意味で、重要である。

それ以外、つまり『言葉と物』以外で言えば、『しまうま語』に触発されて読んだ書物で、おれの「その後」にある程度響いているものでは、つぎのようなものがある: Conjunctionsというポストモダン文藝誌(新宿紀伊国屋の洋書部にはないようだったので、わざわざ池袋リブロまで足を伸ばして買っていた。この雑誌で、はじめて本格的な英文にふれることになる)、吉本隆明『共同幻想論』(はっきり言って、いまに至るまでじっさい何が書いてあったのか判然としない本ではあるが、その「へたうま」とも言える文章はふしぎと蠢惑的で、けっこう影響を受けている、と思う)、蓮實重彦『凡庸さについてお話させていただきます』『反=日本語論』『表層批評宣言』(ほぼ、読んだ順。さいしょに読んだのが『凡庸さについて』だったのは、近くの本屋で売っていたからという蓋然的理由であったとはいえ、運がよかったのではないか、といまにして思う)、柄谷行人『探求』(とうぜんほかにもいろいろ読んだが、あまり響いてこなかった。とくにゲーデルがらみの議論に関しては、それらを読んだときすでにそれなりの知識があったので、「これどうなの?」と思ったものである)、そして、浅田彰『逃走論』『構造と力』・・・・・・。

浅田彰については、やはり段落を変えてふれておかねばなるまい。浅田彰の名は、おれがその著作を読んだときにもいまだ、その『構造と力』がその扱う内容からは考えられぬほど不釣合いに売れてしまったことに起因する毀誉褒貶相半ばする雰囲気とともに流通していたものだが、おれはその著作には、ほとんど感謝と感嘆の念しか持っていない。とくに、『逃走論』に現れた著作は、財布と相談のうえ、買えるものは買い、読めるものは読んでいた。そうしたもののなかでは、バタイユ(『エロティシスム』。いっけんふつうに生物学的な話をしながら、何かとんでもないところに漸進しているような感じが好きだった)、クリステヴァ(『セーメイオーチケー』。「フランス的」と言えば言えるようなレトリックには難儀したが、その語るところはむしろ平明で、がまんして読めば大陸系言語論のよい入門になる、と思う)、バルト(『テクストの快楽』。この本について、子ども心に「どうも翻訳が、ひどい、とまでは言わないが、その魅力を十全に伝えきれていないのではないか」と思ったことをきっかけに、フランス語の学習をはじめることになる)、そしてやや批判的に紹介されていた廣松渉(『世界の共同主観的存在構造』。そのきれいな構成と、そしていわずもがなの「廣松節」に、やられた。いまだについつい面妖な漢語をたまに使ってしまうのは、廣松渉のせいである)といったところが、高校生でもがんばれば読めた(という錯覚が得られた)ので、お気に入りだった(ドゥルーズに関しては、『銀星倶楽部』ノイズ特集号のこともあってガタリとの『アンチ・オイディプス』を読もうとしたが、これはほんとうに訳が分からず、とちゅうで読むのを止めてしまった)。

それ以外、つまり高橋源一郎『しまうま語』と浅田彰『逃走論』以外で言えば、梅棹忠夫の「全巻読むべし」との言にほだされて読んだ中央公論社(現・中央公論新社)の「世界の名著」シリーズの存在が大きい。もちろん、「全巻読もう」と思っただけでじっさいに全巻読んだわけではないが、せまく「思想・哲学」とくくられるところでの主要どころにはいちおう(ほんとうに、いちおう)目を通した。そのなかでも、ヴィッゲンシュタインの『論理哲学論考』が、その「語るところ」というよりも「佇まい」的に衝撃で、後年ドイツ語原文を覚えこむまでになったのは、これまで何度か言ったとおり。

と、このようにあらためて思いかえしてみると、じつに平々凡々な、「ちょっと思弁的なことが好きな高校生がいかにも読みそうな本」ばかりで、取りたてておおやけにすべきようなことでもなかったと思うわけだが、じじつこのような本しか読んでいなかったのだから、しようがない。

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恐れ入りました。いや、高校生にしてこのレベルの本がすらすら読めるという事実はさて措いて、アッキー本の利用の仕方がなんとも言えないですね。大学当時、「逃走論」は結構簡単に読めちゃったんですが、「構造と力」は当時素養不足の私には、読むにそれなりの労を要しました。ゆえに、「構造と力」はまさに アッキーが「チャート式」と称したように、頭が悪い私には基礎演習本としてはもってこいだったもんですから、「構造と力」ばかりに注意が行き、「逃走論」にはあまり目が行ってなかったですね。
今村さんとの対談が面白かったとの弁がかつてありましたが、どういう訳か私はあまり面白くなかったんですよ。そして、あの対談に限らず、「逃走論」自体が。
冒頭部分の話に戻りますが、確かに「逃走論」で出てくる本を潰していくってのは、ほんといい勉強になるだろうなあとそのアイデアに感心させられました。結果して、私が読んだ日本人の書いた「てつがくぼん」は、はやしさんがここで挙げられた本と相当被っていますが。ただ、マルクスへの知識不足からか廣松さんは吉本さん以上に、分かんなかったです。
ところで、中村雄二郎は明らかに悪文書きだと思います(というか、日本語がそもそも変です)が、蓮実さんってあれは芸なのでしょうか、それとも単なる悪文なんでしょうか。それに比べ柄谷さんは普通の文章で読みやすかったです。内容で感心したのは「日本近代文学の起源」だけでしたけど。
ぷっつん大吉 2008/08/16(Sat)18:44:38 編集
一個書き忘れました。僕がアッキーのことを全く悪く思っていないのはもうご理解頂いているでしょうけど、僕がアッキーのことを積極的に評価している点をひとつ書いておきます。悪文や「芸」を駆使して、実はさほどたいしたことでもない?内容をわざわざ難解に書くことを流儀とし、それがある種の権威付けに使われたいたのではなかろうかという当時の日本の「てつがく界」で、おそらく彼こそがはじめて綺麗な文章で分かりやすく書くという努力をやったことです。ゆえに「構造と力」は読みやすかったし、理解しやすかった。彼が、私のような一般ピープルにでも分かるように書こうと努力したその態度には真摯に敬意を表しています。
ぷっつん大吉 2008/08/16(Sat)20:16:23 編集
いや、べつに全部の本がすらすら読めていたというわけではさらさらなく、たとえば、『言葉と物』なんてのはやっぱり難物でしたし、『共同幻想論』も、個々の文意自体はけっして分かりにくくないのですが、全体としての射程がつかみにくく、その意味で読みにくかった、ですね。ただ、他のものに関しては、だいたいにおいて平明に書いてあるか(『セーメイオーチケー』『探求』『世界の共同主観的存在構造』)、もしくは、あまりその「書かれていること」に頓着せず、ひたすら「流れ」に乗っていれば(少なくともぼくにとっては)じゅうぶんな本だったので(『表層批評宣言』『テクストの快楽』)、べつに高校生が読んでいてもぜんぜんおかしくはないラインナップだと思います。

あと、『逃走論』について言えば、今村さんとの対談も含めて、もっぱらブックガイドとしての読み方が主、でしたね。だから、「それ自体」としておもしろかったか、と問われると、「うーん」となっちゃいます。もっとも、今村さんとの対談は、「おもしろかった」というよりも、「有益だった」といまでも思っています。

廣松さんの本は、もちろんマルクス関係のやつも読みましたが、やはりぼくにとって重要だったのは、あまり「マルクス」とは(少なくとも表面上は)関わらない書きものでしたね。ただ、「あまりマルクスとは関係のない書きもの」のなかでも、対話形式のやつはあまり好きではありませんでした。

蓮實さんは、十中八九、というか、かくじつに「わざと」ですね(本人の言うところによれば、立教かなんかの講師時代に、学生と討議するなかで生み出された話法だ、とのことです。うそかほんとか分かりませんが)。それに、たしかに読みにくいは読みにくいですけど、ぼくは悪文だとはまったく思わずに読んでいました。もっとも、ぼくの個人的嗜好として、「読みにくい文」に対する偏愛めいたものがあることも否定できませんが。

中村雄二郎さんの本に関しては、じつは(その訳文も含めて)1冊も読んだことがないので、とくにコメントすることはありません。
はやし 2008/08/17(Sun)19:53:56 編集
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