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デリダのL'animal que donc je suis(の英訳)を読みながら、そこに書かれていることを備忘と紹介がてらここに書こうと思ったのだけど、もっとその手前の「動物の権利」について、いや、それよりももっともっと手前で「動物」について、「権利」について、そして、それらのことが「われわれ」がそうであると措定されているところの「人間(の権利)」にどう関わるのか、そういうことについてまずは書くべきではないか、という気がした。だから、デリダのL'animal que donc je suis について書くことは後日に回し、今日は「動物の権利」について、「動物」について、「権利」について、そして「人間(の権利)」について、書く。

まず、さいしょに言っておかなければならないと思うこと。このブログではたびたび「動物の権利」ということが言われてきた(参考: キーワード「動物の権利」によるはやしのブログ内Google検索の結果)。しかし、けっして誤解してはならないのが、「動物の権利」へのそれなりに頻々なる言及は、たんじゅんに「動物への愛」などに根ざすものではない、ということだ(もちろん、いっぱんに「動物」と名指されるあれやこれやの「人間」ではない生体に、「愛」というか、深甚なる関心があることは否定しないが)。それでは、なぜ、なにゆえに「動物の権利」が云々されねばならないのか? それを明らかにするには、迂遠なようだが、まずは「動物」について、そして「権利」についてふれる必要がある。

「動物」、とくに「動物の権利」と言われる場合のそれは、よほどのことがないかぎり排他的に「人間以外の動物」を指す。この場合、とうぜん問題になってくるのが、何が「人間」を排他的に「人間以外の動物」から分つのか、ということである。この「分割点」は、あらっぽく言って、つぎの「能力」の有無に設定されることが多い。

  • 「理性」
  • 「言語」(などの「象徴能力」)
  • (前二者の帰結、もしくは前提としての)「反省」

これらに関してはほんらい、「人間を特徴づけるもの」ということとは関係なしに(とはいえ、不可避的にそうした「特徴づけ」に参与せざるをえない事情も織りこみつつ)、「それ自体」としておのおの、あれやこれやの細かなことが言われるべきではある。しかしここでは雑駁に、こうした「特徴づけ」がまさに「人間」という区分けのなかにすら「亀裂」を走らせる、つまり、「理性」や「言語」や「反省」といった「能力」を持たぬ、あるいはそうした「能力」がふじゅうぶんな「人間」を、そうではない「人間」から陰に陽に分け隔つ。

もちろん、といそいで付け加えなければならないが、そうした諸「能力」を「人間」のメルクマールとして認め、そして何らかの論を展開するものとて、そうした「能力」がないからあるものは「人間」ではない、という主張をなしているわけではない。それら諸「能力」はあくまで、「人間(のメルクマール)」の「近似表現」として用いられているわけで、そうした「特徴づけ」が「人間」と呼ばれうるものを根こそぎ、完膚なきまでに代表しえる、(と、それら諸「能力」を「人間」の「特徴づけ」として「使用」する論者たちが考えている)と考えるのは、早計である。ただ、不幸なことに、そうした(本来的にはpurpose-orientedな)「特徴づけ」が、排他的に作用してしまっていることは、事実である。

「権利」についても、「動物」と同様、「動物の権利」と言われる場合、ふつうよりもごくせまい用法で用いられる(もっとも「動物」の場合、おおむね「人間以外のそれ」が意味されるのではあるが)。つまり、「動物の権利」とは端的に言って、「動物の生存権」のことである。そして、「権利」とは通常、「義務」とセットになっている。「義務なくして権利なし」というわけだ。しかし、もし硬直的に「義務なくして権利なし」というスキームを「動物の権利」に適用するのであれば、「動物」(もちろん、ここでは「人間以外」のそれを指す)にははなから、「生存権」であれ何であれ「権利」なぞない、ということになる。

しかしここで、「動物」のではなく、「人間の生存権」を考えた場合、それにカップリングされるべき「義務」とは何か? 「善く」生きること? 「自死」してはならない? どちらも、そういうことを言う人はいそうではある。しかし、「生きる」ということは、その「対価」として何らかの「義務」が求められるような、そういうものではないであろう。「善く」生きようが、「悪く」生きようが、「生きている」ことにかわりはない(「悪く」生きるものは死ね、とでも言うのか? ざんねんながら、そう考えているふしのある人は、いる)。そして、「生きる」ということは、「汝まさに為すべし」という当為ではありえないし(参考)、そして、その否定もまた、「べからず」という当為では語りえない(「死んではならない」という「命令」を、わたしはあなたにすることはできない。できるのは、「死んでほしくない」という「嘆願」、「あなたにそこにいてほしい」という「願い」だけである)。

つまり、うえで言われたことをまとめれば、「動物の権利」を認めるとは(あるいは、言いかえれば、「動物」そして「生存権」という「概念」を「無化」することは)、われわれ(ここで言う「われわれ」とは、最大限ひろい意味にとったそれ、つまり、「人間をも含む動物」の謂いである)が「生きること」を、無条件に肯定することである(そして、ここから敷衍すれば、「無生物の権利」を認める境位まであと一歩であり、じじつそうした「権利」も認めたいのだが、この稿ではそれについてはふれない)。だが、それができてない。だから、「動物の権利」ということを明らかにし、その承認(あるいは、「動物の権利」という言い回しを作動させるメカニズムの廃棄)を求める。

それが、「動物の権利」について、間歇的にではあれ、しつこく書きついでいる理由である。

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