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前回では、「自分の頭で考える」に対する中坊俊平太の(何度目かの)リプライの第1回目について、ごく些末ではあるが、やはり、「それは、中坊の主張を弱めこそすれ、けっして補強しないのではないか」という点について述べた。今回は、中坊のリプライの第2回のものについて、応答する。今回も、前回と同様、やや細かな点をめぐることになるので、よほど暇であるか、「毒食わば皿まで」という人以外は、読む必要はない(ただ、すこしでも可読性を高めるために、各論点については、ごくかんたんな指摘にとどめる。ゆえに、ところどころ簡略にすぎる記述が出てくると思われるが、そのような諸点については、要望があれば詳述する)。
まず、中坊のこの稿に現れる「暗黒時代」という表現だが、それについて以下の3点に拠り、その語の使用は妥当ではないのではないか、と言った。
1) ほぼ1000年にわたる「中世」を特徴づけるには雑駁すぎること(そもそも、そうした大きな時代区劃を言うのに、「中世」と一言で済ませること自体が問題なのだが)、2) おもにルネサンス期の人たちによって、みずから(つまりはルネサンス期の人たち)を高く見せるために用いられた「蔑称」であること、そして、3) じっさいに「中世」と呼ばれる時代におこったことをつぶさに見ると「暗黒時代」どころではなく、じつに豊穣な知的活動がなされていたこと
そして、こうした批判に対して中坊は、「『暗黒時代』と言われる時代だっていろいろ知的なアレコレがあったわけだから“否定されるべきものじゃないだろ”」と言いたかった、と言う。つまり中坊は、ある時点で評価の低かったものが、後世「再評価」される「例」として「(所謂)暗黒時代」を持ち出しているわけだ。しかし、ここで中坊は「比較対象のカテゴリーミステイク」をおかしている。中世(のある一時期)が「暗黒時代」と呼ばれたのは、そこでなされていた営みを評価してのことではなく、端的に「そこでなされていた営み自体」が知られていなかったことによる。かたや、「自分の頭で考える」が批判されるのは、もっぱら「そのなすところ」によって、である。もちろん、「暗黒時代」と「自分の頭で考える」のあいだに、ほとんど「むりやり」といった体ではあるが、対比を打ち立てることもできるはできる(たとえば、中世のある一時期を指して「暗黒時代」と呼んだ人たちのほうが「自分の頭で考える人」に比されるべきであり、そして、そうした「誤り」も後代には正される、など。しかし、こう考えた場合、それはむしろ「自分の頭で考えることはやはりだめだ」ということになってしまうが)。
つぎに、「科学への信仰」という論点について、つぎのように言われた。
「信じようが信じまいが、そうである」という「事実」の「信仰」に対する勝利であったように思われる(「科学」を信じぬものに対しても、物理法則は依然有効である。だから、「科学への信仰」というのは、よく言われる言い回しであるが、当たっていない)。
そして中坊は、これに対して、「だけれど有効であるからと言って簡単に“「科学」を信じぬもの”を改宗させられるか」と問うが、これの問いは、それこそ「有効」ではない。そもそも、おれが主張しているのは、「科学は信仰の対象ではない」ということであって、であれば、「“「科学」を信じぬもの”を改宗させ」るということは、端的に意味のない言明だからだ。しかし、中坊が言いたいのは、たぶん、「科学の役割」とでも言うべきもので、つまり、雑駁に言えば、その「社会における主導性」なのだろう。もっとも、であれば、やはり「科学への信仰」という表現は、「まちがえ」とは言えずとも「誤解をあたえそうな表現」であることにかわりはない。
また、中坊はこの「科学への信仰」ということに関連して、「“「事実」の「信仰」に対する勝利”というような言い回しをしてしまうのであれば、今主題とされるべき「自分で考えちゃう人」を、【信仰に勝利した事実】と【事実に敗れた信仰】のどちらの立場に含まれるのか」と問うているが、この答えはかんたんである。どちらにも含まれない。(何ゆえに、何かが「信仰に勝利した事実」と「事実に敗れた信仰」とのどちらかに排中的に含まれる必要があるのか?)そもそも、「『事実』の『信仰』に対する勝利」というおれの言い回しは、中坊の議論にあわせた表現であり、こうしたことが何の制約条件もなしに広範囲に成り立つとは、微塵も思っていない(中坊の「言い回し」に則って言うなら、「自分の頭で考える人」が「“外部的知識の吸収/検分”をすっとばして(信仰ではない)事実として現れうる“正解”を求めちゃう」のだから、たとえそうした「自分の頭で考える人」が「事実」として捉えるものが「事実」でなくとも、そうした人は「事実」に重きをおきていることにかわりはなく、のであれば、あきらかに「信仰に勝利した事実」の立場に含まれるのではないか? ここで中坊は、意図的なのかどうか分からないが、自分で立てた区分けを混同している)
つまり、上記2点に関して言えば、中坊はまさに「自分の頭で考え」てしまっており(そして、これは多分に「わざと」である、とおれは思っている)、そして、そのことはけっして、「自分の頭で考えるのも『あり』だな」と思わせるものになっていない。だから、中坊は、「暗黒時代」という言葉も、「宗教(化)」という言葉もつかわずに論をなすべきだったのだ。
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