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カントの「『7+5=12』は総合的かつア・プリオリな判断である」という言明について考えていたら、カントは「数学」というものをどのように考えていたのか?という問いに逢着した。この問いに答える手がかりとして、1762年の論文「自然神学と道徳における弁別原理に関する考究」(以下「考究」と約す。英訳はD. Walford and R. Meerbote. eds. 2002. Theoretical Philosophy, 1755-1770. New York: Cambridgeに所収。日本語訳は、たぶん岩波カント全集の第1巻第2巻第3巻に入っている、はず)を読んでいる。それはいったいどのようなものか? 以下に、「考究」を読みながら、ある程度公開することを念頭においてとった読書ノートを掲げるので、気になる向きは参考になるのなら、どうぞ。


1762年カントは、「一般に形而上学的真理、とくに自然神学と道徳とにおける第1原理は、幾何学的真理においてのものと同等に明確な証明を持ちうるかどうか? また、もしそうした明確な証明をもちえないとすれば、それら自然神学と道徳における第1原理が確実であることの本質は何に存するのか、そのような確実性は[幾何学のそれに比して]どの程度のものなのか、そして、その程度は人にそれら第1原理について確信を抱かせるに足るものなのか?」という問いかけのベルリン・アカデミー懸賞論文に、「自然神学と道徳における弁別原理に関する考究」という論文を応募した。

このときに1席に入ったのが、モーゼス・メンデルスゾーンの「形而上的科学における明証性について」で、カントの論文は次席、であった(このことは、宮本顕治「『敗北』の文学」が1席、小林秀雄の「様々なる意匠」が次席の1929年『改造』主催の懸賞論文や、石川達三「蒼氓」が受賞し、太宰治が選外だった第1回芥川賞のことを思いおこさせる)。そのわけは、Guyer (2007, pp. 23-24)によれば、メンデルスゾーンの論文の趣旨が、ベルリン・アカデミーの望むとおりのものであったのに、カントの論文はちょうどその反対のことを主張している、ということが大きかった、と言われる(当然、それだけの理由ではないであろうことを、Guyerもフォローしている)。つまり、ベルリン・アカデミーが期待していたのとは真逆に、カントは「幾何学(今風に言えば、数理科学全般)におけるのと同等な明証さは、形而上学的科学では得ることはできない」と主張したのだ。

まず、「考究」論文の第1考察「数学的知識における確実性の得られ方と、哲学的知識における確実性の得られ方の一般的比較」第1節「数学は、そのすべての定義を総合的に得るが、哲学はその定義を分析的に得る」を見る。ここで、「定義を得る」という事態が、現在的な目にはおかしなことに映ずる(現在的には、ふつう「定義」は「与える」もので、「得る」ものではない)。註によれば、この時期カントは「定義Definitionen」という言葉と、「解明Erklärung」という言葉を可換的に用いていた、とのことなので、つまり、ここで言われる「定義」とは「〜は…であることに基づく」という「解明」、とくに、そのような「解明」の連鎖の果てにある「根本定義」、すなわち、ベルリン・アカデミーが問うた元の問いに見られる「第1原理」のことであると察せられる。

「定義」という言葉を上記のように、つまり、「第1原理」を意味するものとして捉えた場合、ではそうした原理の「総合的/分析的」とは、どういうことなのか、が問題となる。しかし、「総合的/分析的」という対の一般的解釈をあてはめて考えてみても、あまりはっきりしたことは分からない。第1考察第1節の本文を読んでみる。すると、「数学の第1原理は総合的だが、哲学の第1原理は分析的である」ということを解き明かす(「解明」する!)ヒントになりそうな、次の文章に劈頭で出くわす。

一般概念に到るには、2つの道がある。ひとつは、諸概念の任意の組み合わせによるもので、もうひとつは、分析のやり方によってはっきりと区別されるものになるような知識を析出させることによるものである。数学はその定義を、第1の方法によってのみ引き出す。

「定義」を「第1原理」と読み替えて、「数学の第1原理はどのように得られるのか?」という問いの答をこの引用文に探せば、それは「諸概念の任意の組み合わせによって」という答えが得られる。つまり、「総合的」とは「諸概念の任意の組み合わせによって」ということである。形式的にはそうだ。しかし、「総合的」とは「諸概念の任意の組み合わせによって」ということであることが分かっても、それがけっきょくはどのようなことなのか、まだよく分からない。もう少しこの劈頭の文章をこまかく見ることにする。

まず思うのが、「2つの道(やり方)」のように、何かあるものを2つに分ける場合、たいていそれら2つは何らかの意味で「対」になっていることが多いが、この引用文での場合、対比させられているのは「諸概念の任意の組み合わせ」と「分析のやり方によってはっきりと区別されるものになるような知識を析出させること」というもので、とてもではないが「はっきりとした対」になっているようには見えない。しかし、これら「対」として措定される諸名詞句のそれぞれの主要部分を見れば、「組み合わせること」は「多から一へ」という方向の、「析出させること」は「一から多へ」の方向の働きであり、これらはたしかに「総合的/分析的」という「対」の意味するところ(の少なくとも一側面)に合致しているように思われる。

すると問題は、それら「対」と措定される名詞句の「対象部分」を担うもの、つまり、「組み合わされるもの」と「析出されるもの」というレヴェルでの対構造はどうなっているのか、ということになる。まずこれら名詞句で修飾的役割を担う部分、すなわち、「組み合わされること」における「任意に」という部分と、「析出させること」における「分析のやり方によってはっきりと区別される」という部分を考えてみる。分かりにくいが、その任意性を軸に考えてみると、「分析のやり方によってはっきりと区別される」とは、多様ではあるがそのそれぞれについて言えば、(「任意」ではなく)「一意」である、ということをその意味の底に持っている。もう少し敷衍して言うと、ある対象Oについてある分析Aで区別されるものは一意である、つまり、異なる環境(直感的に言えば、異なる時間)においてある対象Oをある分析Aで区別しても、それら結果は異ならない、ということである。ともあれ、一方は「任意」であるが、もう一方は「確定的」である。そこまでは言える。

ここで、「任意に」なされる「諸概念の組み合わせ」は数学について、「確定的」であるような「知識」の「析出」は哲学について言われていることを想起すると、少なくとも「数学=任意」というペアに関しては、一般的に考えられる数学のイメージにはそぐわないような気がする(では「哲学=確定的」というもうひとつのペアに関してはどうか、ということは、今は措く)。2つの可能性が考えられる。ひとつは、いくら「現在」の視点からして奇異に映ろうと、カントの時代にあっては「数学=任意」というペアはべつだん奇異ではなかった可能性であり、もうひとつは、カントの時代でも、一般的な感覚としては「数学=確定的」というペアのほうがなじみがあり、ゆえにカントも、端的に「数学=任意」というペアを持ち出しているわけではなく、その「任意」であることが、何らかの仕方でその「確定性」を担保している可能性である(あとひとつ、カント、もしくはおれのどちらかが端的に間違っている、という可能性もあるが、それらの可能性を考慮しては元も子もないので、ここではそうした可能性はとりあえず除外する)。

まず第1の可能性を考える。これは、そもそものベルリン・アカデミーの問いの出し方、つまりは「明証性」のある種の「模範」として「数学(における原理)」というものを前提としているのだから、「数学=任意」というペアは、カントの時代でも一般的ではないものであったのではないか、と考えられる。すると、残るは第2の可能性ということになるが、数学における何らか(それは、「もの」的、たとえば「数学における対象」であっても、「こと的」、たとえば「数学における操作」であっても、どちらでもかまわない)が「任意」と呼ばれるものであっても、数学それ自体は「確定的」であることは、かりに必然的に「任意」ということが要求されないにしても、少なくとも「可能性」としてありうる。

上での考察を、もともとの「諸概念の任意の組み合わせ」という文章に引き戻してみると、どうやら「任意に、でたらめに数学内で概念を組み合わせても、それは堅牢なものとして立ち現れる」ということが言いたい、あるいは、そうしたことが前提になっているらしい、と思われる。つまり、こうした見方に立つ場合、数学はどうしたって「正しい」もの、あるいは「明証なもの」であるしかない。何となれば、そもそも数学はその「定義=第1原理」をそのように「引き出す」と言われているのだから。

ここで、もうひとつの名詞句「分析のやり方によってはっきりと区別されるものになるような知識を析出させること」に目を向けてみる。全体の文脈を考えると、つまり、これは哲学における「一般原理」の得られ方を言っている。イメージ的に言えば、ある「もやっとしたもの」から分析によって「たしかなもの=確定的なもの」が得られる、ということだ。しかし、いくら分析を通じて「確定的なもの」が得られるにしても、その「確定的なもの」の取得先であるものは、依然として「もやっとした」ままである。だから、そこから得られた各種の「確定的なもの=第1原理」も、ほんとうのところいかほどに確定的なのか、それも「もやっ」とせざるをえない。

これら数学と哲学の「第1原理」の得られ方について、つまり、「総合」と「分析」にそれぞれ依拠するそれらについて、この論文の註4は「総合は概念を作り出すが、分析は概念を明確なものにする」とキャッチフレーズ的にまとめている。ここで、「概念」という言葉がやや不用意に用いられている点が気になりはするが、大略、「数学はその第1原理を自分で作り出すことができ、かつ、それは引き出され方から言って明証なものである」ということ、「哲学はその第1原理を、何かあるものから分析によって引き出し、そして、その何かに関して言えばそれら第1原理は明確=明証的ではあるが、そうした第1原理の引き出し元である『何か』自体についての明証性については定かではない」ということが、もろもろ考え合わせると、言える。

上記のことからとりあえず、「カントの数学観」ということに関して、それは構成主義と形式主義のミクスチャのようなものが見えてくる。これは、数学の見方としてはそれほど奇異なものではなく、多少の修正を加えれば、いまでも通用するような見方だ。しかし、カントの数学観はほんとうに、「構成主義」や「形式主義」という後代の考え方を逆照射して定めていいものなのか? さらには、カントが数学について抱く存在論的前提も、現在「構成主義」「形式主義」と呼ばれるそれぞれの流派が仮定するようなそれらになぞらえて解釈していいのか? また、より大きな射程、つまりは、カントの論文の元の趣旨に則って考えると、果たして哲学の第1原理たる「概念」(カント原文では「知識」)は、じっさいに数学より劣った明証性しかないのか? それらが次に考えるべきことである。


あまりに長くなったのでこのあたりで切り上げるが、このヴァージョンは「ある程度公開することを念頭において」書かれているとはいえ、だいたい似たような、だがこれに比べれば大幅に簡略なものを読書中にノートに書きつけている。どうりで読書が進まないわけだ(ここに載せた範囲で言うと、本文中に翻訳引用した英訳4行分しか進んでいない!)。

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著書「哲学者16人の謎と真実」は、わずか36頁で哲学史の全てが理解でき、ネットで読むことができる。
http://www.geocities.jp/k_kibino/page2000.html

ところで、ヒュームの「観念は連合する」に対し、「観念連合には分断もある」と考えるよう提唱する。
つまり、観念連合に関する3法則、因果・近接・類似の反対に、分断に関する意外・遠隔・相違がある。
こうすることでヒュームを(カントよりも)相対化し、ブッシュ・小泉時代の新自由主義にも引導を渡すことができる。
http://blogs.yahoo.co.jp/k_kibino/60877061.html
kibino 2010/04/10(Sat)08:23:37 編集
宣伝のつもりかもしれませんが、かえって逆効果、と思われます。以後このようなことをする際、その点に注意したほうがよろしかろうかと。
はやし 2010/04/10(Sat)15:10:17 編集
こんにちわ。標準モデルと申します。

カントの「分析的方法」という言葉は命題の分析的/綜合的という区別とは全然異なるものであるとカント自身が述べています。

 「認識が次第に進歩するにつれて、学問の幼年期から使われて既に古典的になった或る表現が、のちに不十分でうまくあてはまらなくなっているのがわかり、そしてもっと新しくより適当な用法が、古い用法と混同される危険に陥ることを避けるのは難しい。分析的方法は、分析的命題(の総体)とはまったく異なるものである。分析的方法は、我々が求めているところのものを、すでに与えられているかのように見做して、これを可能とするような条件へ遡る仕方である」
(『プロレゴメナ』第五節原注)

 「分析的方法は、条件付きのものから始めて原理へ向って進み、綜合的方法は、それとは反対に、原理から始めて帰結へ、或いは単純なものから始めて合成或いは複合されたものへ向かうのである」
(『論理学』第一一七節)

『道徳形而上学の基礎付け』にも同様の用例があります。「分析的方法」という言葉はカントより上の世代の哲学者達が既に用いていたようで、しかもかなり幅のある仕方で用いられていた、ということが中川大『数学の方法、哲学の方法』で述べられています。

釈迦に説法とは思いますが、関連の深い情報だと思いましてコメントさせていただきました。時宜を失したコメント失礼致しました。
標準モデル 2012/05/03(Thu)04:46:47 編集
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