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昨日のエントリを書いているとき、Ars longa, vita brevisという言葉がふと浮かんだ。
この言葉は言うまでもなく、ヒポクラテスに帰せられているもので、日本では「青年老いやすく、学成りがたし」というべつな言葉に引きよせられ、「藝の道はながく、人の世というみじかい時間では修めきれないぐらいのものである」というふうに解釈されがちである。だが、この言葉は、ほんとうにそういったことを意味しているのだろうか? これはむしろ、「藝(学)」と「人の生」というそれぞれの「息のながさ」を言っている、のではないだろうか?
つまり、こういうことである。人の生、というのは、きわめてはかないもので、ある例外的な場合をのぞいて、誰かある人が生きていた、ということは、ごくみじかい時間しか記憶にとどめられない。それに反して、arsと呼ばれる「藝」ないしは「学」は、そうしたはかない人の生のはるか遠くまで、その「生」を持つ。もちろん、何かがarsだからと言って、それだけで無条件に「息のながさ」が保証されるわけではないだろう。つまらぬarsは、ごく短時間のうちに忘却の闇に去っていく。だが、平均的に言えば、誰かある特定の人が世の人びとの記憶に留まりつづけるよりも、arsが時空を超えて生きつづける、というほうが、まったく容易に思える。
もちろん、そうであるからと言って、arsは尊く、人間は卑しい、とは言うまい。そもそも、arsというものが「人のわざ」である以上、そうした「人」が卑しければ、そこから生まれるarsが尊い、ということはありえない。だが、そうした尊卑を超えて、arsにたずさわるものは誰しも、「人の生」を超えた、ある意味「超時間的」な何かを夢見るのだ。
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皆は彼に、それはできっこないといった。
微笑しながら、彼はまっすぐそれに向かっていった。
そしてできっこないことに取り組んだ。
そしてそれはできなかった。
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日暮れて道長し
あっしはどちらかというと、研究者が何をのこしたかより、なんでそれをやろうとしたか?という人間的な側面に興味があります。困ったもんです。
また、研究における「なぜ?」という観点、これも非常に大切なことで、極言すれば、「なぜ?」が分からなければ「何」も分からないものだ、と思います。だから、上記エントリでは研究対象の「何」が、それの遂行主体であるものから切り離されたかのように読めるかもしれませんが、そうではなく、あくまでそれらはセットとして考えたほうが、ペダゴジカルにも都合がよいでしょう。もっとも、そうした行為主体がindifferentになる位相というのもあるであろうことも否定しませんが。
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