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……ぼくからすると東大を出ているというだけで暴力的だとおもうんです。知識を持っているというだけですごい暴力的です。たとえば知識のある人が現場の人に向かってしゃべると現場の人は黙りますね。人を沈黙させるというのは暴力と言うか権力なんです。……
(吉本隆明・三好春樹『〈老い〉の現在進行形』166ページ、三好春樹氏の発言より)
〈暴力〉と言い、そして〈権力〉と言っても、それはそもそも〈力〉のある特殊な一形態であることを思いおこそう。そして、そのような〈力〉をわれわれは日々発現させて生きている。何らかの〈力〉なくしては、われわれは生きていかれはしない。
そうした〈力〉がどういう場合に〈暴力〉と呼ばれるものや〈権力〉と呼ばれるものに変質するのか? いや、変質、という言い方は正しくない。そもそもあらゆる〈力〉は〈暴力〉であり〈権力〉であるのだ(いま、この文章が書かれるために、PowerBookのキーは〈暴力〉にさらされ〈権力〉に平伏している……)。とすると、問いは次のようなものになる。いかなる場合に〈暴力〉や〈権力〉は〈正しいもの〉として認められるのか?
たとえば、上の対談での三好春樹氏が出している例を考えてみる。この例では、「知識を持っている人」が、何か言いたいことがある「現場の人」を黙らせることが〈暴力〉と呼ばれる。なるほど、「何か言いたいことがある人」を黙らせるというのは、あまりほめられたことではないかもしれない。ただ、そういう「何か言いたいことがある人」の「言いたいこと」が、愚にもつかぬような、いや、「愚にもつかぬ」ぐらいならまだしも、それが第三者に対してそれこそ〈暴力〉として立ち現れるものであるならどうだろう(たとえば、ある圏域に属する人たちに対して、その圏域に属しているがゆえにそれらの人は〈悪〉だ、と主張する場合、など)。
ここで議論は、あのおなじみの〈手段/目的〉をめぐる問いに振り戻される。つまり、それ自体としては「どうだろう」と思うようなものでも、それがある〈善き目的〉のために使われるのであればどうか、という問いだ。そして、そういう問いに対して、これもまた「おなじみの」と言うべきベンヤミンの議論が対置される。
それが正しい目的のための手段であるとしても、そもそも暴力それ自体は原理として倫理的であるのか、という問いは依然未解決のままである。したがって、より直接的な基準を打ち立てるため、この問いは、手段それ自身の領域で、手段が仕える目的のことは考えずに、区別がなされねばならない。
(Walter Benjamin, "Zur Kritik der Gewalt," in Gesammlte Schriften Band II-1 , p. 179. 邦訳は『暴力批判論』(岩波文庫)に所収)
ここで「なされねばならない」と言われている区別は、かの有名な「神話的暴力/神的暴力」というそれで、〈神話的暴力〉のほうは、上の引用文でも批判されているような、手段を目的で判断する自然法的なそれや、目的はどうあれ手段が〈法〉に合致しているか否かを問う実定法的なそれ、つまりは法措定的ないし法維持的暴力のことを指すのだが、これに対置される〈神的暴力〉とは何か? ベンヤミンはこう言う。
あらゆる点で神話と神が対立するように、神話的暴力と神的暴力も対立する。神話的暴力は法措定的だが、神的暴力は法破壊的である。神話的暴力が限界を策定すれば、神的暴力はそうした限界を破棄する。神話的暴力が罪を犯し、そして同時にそれをあがなうものであれば、神的暴力はひたすら罪をあがなう。神話的暴力が切迫したものであるとすれば、神的暴力は爆発するようなものである。神話的暴力は血なまぐさいが、神的暴力は血なまぐさくないやりかたで致命的である。
(op.cit., p. 199)
はっきり言ってこれだけでは何が何だか分からない、と言われても仕方のない対比の羅列ではあるが、ぼんやりとした像は結ばれる。しかし、「血なまぐさくない」とはいえ「致命的」とは、何やらおだやかではない。しかし、煮え切らない書き方をしているにせよ、ベンヤミンは神的暴力の肩を持っている。だが、なにゆえに? 次回はこれについて考えてみたい。
確かに…現場を知らないヤツがエラソ〜に企画して崩壊するケースもある。これって官僚とか参謀本部とかのイメージだよね。アホな左翼ってこの種の現場知らずのエリートの<力>のみを問題とするとゆ〜視野狭窄がある。しかし、現場でのたたき上げの発言も暴力であるといえば暴力なんだよね。
現場の暴走は知識のある企画部門が制御する必要がある。頭でっかちの企画部門の空論には現場の経験で反論する必要がある。現場だけが一方的に力を行使されるってのは…左翼的/労組的な被害意識だよね。ヤツラのほうが<暴力的>ってことは20世紀後半の世界史が示していると思うけどね…。
暴力について考えるなら、それについて善悪の判断を先にしてちゃいけないと思う。
人を黙らせるものは「法」でもあるわけで、法の発生する地点/論理の始まる手前の、そのドグマ。「立憲的権力」なんかにもからめて、俺も考えてみよう。
暴力がその目的に関係なく倫理的に考えられるべきというのは少なからずわかるつもりなのですが、今のところ神的暴力というものが何なのかよくわからないです。神話的暴力というものが、その目的の善悪性によって評価されるようなものであって、神的暴力はそうではないようなものだとしたら。神的暴力は法の発生以前の暴力という風に思えます。そうだとしたら、神的暴力は例えば動物の弱肉強食の世界観に僕には思えました。多分、全く違うのでしょうけれど。だとしたらどのあたりで間違ってるのか今のところよくわからないです。仮にそうだとしたら、神的暴力と神話的暴力は対称的なものではなく、包摂関係にあるように思えます。神話的暴力も全ては神的暴力に過ぎない、みたいな。
ともあれ、「現場の人」だって、そういう意味で「暴力的」たりうるし、ぼくなんかもむしろ、そういう「現場の人」の暴力こそが厄介だ、と思います。
宮本さんの文章の2ブロック目は、「人を黙らせるものは『法』でもある」、つまり「暴力は『法』でもある」、ここでこれの逆も真という立場を認めるとすれば(また、「人を黙らせるものは『法』でもある」という構文が、強調構文のそれとして、主対が転じられているのだとすれば)、「法も暴力である」となって、議論の前提としてはたしかにそういうことになっている。とはいえ、それ以降のつながりも含めて、つまり、この2ブロック目の最初の文を一塊として見た場合、何を言いたいのか、よく分からない。法が発生する以前、とりあえず鍵括弧付きで名指される「法」なるものがあって、それがドグマティックだ、ということが言いたいのだろうか。その場合も、そうした「法」自体がドグマティックなのか、それとも、そういう法以前の「法」のようなものはたしかに措定されうるが、でも、それにまつわる「『法』から法へ」という物語がドグマティックなのか、それも分かりがたい。
ゆえに、そうしたことどもの解説を乞うとともに、2ブロック目以降へのコメントは保留、とさせてもらう。
とはいえ、ベンヤミン自身、この神的暴力についてあんまりはっきりしたことを言わない、というか、はっきりとしたことは言えない/分からない、とまでさえ言っているので、分からなくて当然、のものではあります。それをぎりぎり分かりやすく表現し直したのがデリダの『法の力』である、と思うのですが、人によっては火に油を注いだだけのもの、と受け取るかもしれません。
ともあれ、今後は当然デリダの議論をも射程に入れつつ話は進むと思うので、よろしくお付き合いください。
「デリダの議論をも射程に入れつつ」進められる議論に期待してるからここでは余計なコメントはやめとく。
じゃあ、も一つ問題提起。
ブッシュ政権が今やってる中東での暴力の行使は「神的暴力」の行使なんだろうか?
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