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この前挙げた対比のほかに、ベンヤミンは神的暴力(および神話的暴力)について次のように言っている。
……暴力とはいえ、あれら目的のための合法の手段でも不法の手段でもありえず、そもそも手段としてではなく、むしろ何か別の仕方で目的にかかわるような暴力……
(ズーカンプ全集版p. 196、岩波文庫版p. 54、ちくま学芸文庫版p. 262。以下引用のページはこの順で示す。なお訳文は、基本的に岩波版の野村修訳を採用する)
神話的暴力はたんなる生命にたいする、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力である。
(p. 200, pp. 59-60, p. 271)
したがってその(神的暴力の)形態は……血の匂いのない、衝撃的な、罪を取り去る暴力の執行、という諸要因によって―究極的には、あらゆる法措定の不在によって―定義される。この限りで、この暴力をも破壊的と呼ぶことは正当だが、しかしそれは相対的にのみ、財貨・法・生活などにかんしてのみ、破壊的なのであって、絶対的には、生活者のこころにかんしては、けっして破壊的ではない。
(p. 200, p. 60, p. 272)
どうだろう、これでベンヤミンの謂うところの「神的暴力」なるものが顕らかになっただろうか。おおかた、これでもまだ、全然分からないよ、という感じではないだろうか、と予想する。それでは、いま引用した文章を、ひとつひとつ考えていってみよう。
ひとつめ。ここで神的暴力は、神話的なそれとはことなり、手段としてではなく目的に関わる、と言われる。まず、浮きあがる疑問は、ここで言われている「目的」とは何か、と言うことだ。
じつは、ここで「あれら目的」と簡略化して呼ばれてるものは、前の文章から受けつがれた「正しい目的」のことであり、そして、こうした「目的の正しさ」は、ベンヤミンによれば、「神」によって決されるもの、とされる(p. 196, p. 54, p. 263)。この「正しさ」は、それこそ「有無を言わさぬもの」であり(野村訳では「衝撃的」、おれの訳では「爆発的」としたschlagendは「有無を言わさぬ」とも訳される)、たとえばベンヤミンは「殺してはならない」という戒律を例に引いているが、それについて「なぜか?」を問うことは、禁じられている、というより、意味をなさないもの、とされる。つまり、「正しい目的」の「正しさ」は、公理として「真」とされるているのだ。
それでは、神的暴力は、こうした「目的」とどのような関係を切り結ぶのか? それは、そうした「目的」を達成するためのもの(手段)でもなければ、「目的」を達成しなかったことに対する罰を与えるものでもない。たぶん、それは、そうした「目的」と同時発生的、誤解を恐れずに言えば、「神的暴力=正しい目的」なのだ。この意味で、なるほどそれは「措定的」ではあるかもしれないが、「法措定」での措定が、何かある別の基準に照らしての措定であるのに対し、神的暴力による措定は、言ってみれば「バカボンのパパ的措定」である(「正しいものは正しいのだ!」)。
ひとつめの点だけで、ブログのいちエントリとしては十分な長さに達してしまったようだ。ふたつめの点は明日に持ちこし、としよう。
そのようなベンヤミンの例よりもむしろ、ぼくが「神的暴力」の例として思いうかべるのは、憲法制定権力のような、それ自身がそれ自身の正当性をブートストラップしつつ、他に対してまさに「目指されるべき目的」となるものを打ち立てる力、のようなものです。もちろん、これはベンヤミンの基準から言えば、法措定的でもあり法維持的でもあると見ることができますので、ベンヤミンの意図からは外れるかもしれません。ただ、ぎりぎりの近似として、一番身近(!)にあるものとしては、ぼくにはこういったものぐらいしか思いうかべられません。
『暴力批判論は、暴力の批判の哲学である。この歴史の「哲学」だというわけは、暴力の廃絶の理念のみが、そのときどきの暴力的な事実に対する批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にするからだ。[・・・中略] これら(神話的暴力)にたいして神的は暴力は、神聖な執行の印章であって、けっして手段ではないが、摂理の暴力ともいえるかもしれない。』
この、長いパラグラフの事ですか? そうでしょう。
誤解を恐れずにいえば「神的暴力」とは非暴力のことですから…、俺が身近な例で思い浮かべるのは「バガヴァッド・ギーター」で、王位継承の争いで近親者と戦うはめになったことを嘆き逡巡するドリタラーシトラに、クリシュナ(神)が忠告する場面。「あなたは殺す事も殺される事もできない、生まれたものには死は必定であるから。不可避の事柄について、あなたは嘆くべきではない。(戦士にとって)義務に基づく戦いに勝るものは他にない。戦え、あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果には無い。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。・・・。」
これです。
同様に、宮本さんが持ち出したバガヴァッド・ギータの「忠告」にしても、この「生」と言うものを、くだらないイデオロギーでシュガーコーティングして、「どうせ死んじゃうんだから、殺しちゃってもいいんだよ。それに、あなたの役目は殺すこと、でしょ? やっちゃえやっちゃえ!」と言っているようにしか思えない(そうではない読みがあるのなら、ぜひとも教えてほしい)。ほかの箇所では色々と含蓄のあることが述べられてるのかもしれないけど、殊この箇所に限って言えば、そして、これを「非暴力」の例として出すのであれば、ふざけるな、という言葉しか出ない。
あと、今回の流れで言えば、ベンヤミンの肩を持ちすぎてじゃっかん苦しいところがあるにせよ、宮本さんの言動にそれほどヘンテコリンなところはないように思われます。第一、宮本さんは「おれにはベンヤミンはこう言っているように思える」ということを言ってるのであって、「おれはこうしたい」と言ってるわけではないのですから(もっともその場合でも、「テクストに、自分の思うことだけを読みとる」ということをしでかしている可能性も否定できませんが)。
『暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくことだ、といってよいだろう。というのは、ほとんど不断に作用しているひとつの動因が、暴力としての含みをもつにいたるのは、それが倫理的な諸関係のなかへ介入するときであり、この諸関係の領域を表示するのは、法と正義という概念なのだから。まず法の概念についていえば、あらゆる法秩序の最も根底的で基本的な関係は、明らかに、目的と手段との関係である。』
ここで言われる「ほとんど不断に作用しているひとつの動因」とは、たそがれリーマンさんの言う「人に限らず存在するものはすべてニーチェの言うように持っている「力」を行使してお」るその「力」のことでしょう。
で、その「力」が「暴力としての含みをもつにいたるのは」
「目的と手段との関係」を「根底的で基本的な関係」とする「倫理的な諸関係のなかへ介入するとき」であるとベンヤミンは言うのですから、
「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果には無い。行為の結果を動機としてはいけない。」というクリシュナの忠告は『目的と手段との関係』からの離脱を、いうなれば『倫理的な諸関係』からの離脱を意味しているわけです。それがいかにして可能になるかは、ここで論じるわけにいきませんが。
「ギーター」は「マハーバーラタ」という長大な「神話」のなかで、驚異的に首尾一貫した一場面であり聖典とされてはいますが神話に違いありません。
神話とは、簡単に言えば、ある民族が共有する世界観の根源にあって、そこから無尽蔵に意味が汲み出せるような、いわば共有された夢のようなものであり、その論理的一貫性や歴史的現実性などをあれこれ検討するべきものではないのです。「聖書」や「古事記」や「ホロコースト神話」などがそうであるように。
ところで、そもそもメタファーとして表現されていて、何とでも解釈可能なものをどうのこうの言うこと自体にそもそも何の意味があるのか?って思いがもともとからして私の根底にあります。
神話を引っ張りだした途端、私は、眉に唾をつけちゃう癖があります。その点において、読書会で書いたようにユングを語る人がほとんどいなくなったことは喜ばしいことだと思っています。
宮本さん、「それがいかにして可能になるかはここで論じるわけにいきませんが」なんて、勿体ぶらずに是非論じてください。
時間がないので、続きは、また、週末にでも書かせていただきます。
神的暴力などという明らかに実質を持ちそうにもないものを持ち出して、ベンヤミンは何を言おうとしていたのかがここでは大事なのだと思いますが、いかがでしょうか。ただ、僕にはそのことが全く理解できそうにないのですが。
そのことはさておいても、宮本さんが提示したバガヴァット・ギータの一節の、「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果には無い。行為の結果を動機としてはいけない」という部分に関しては、なるほど、たしかにベンヤミンの議論とパラレルなものがあるかもしれない。だが、おれが問題にしているのは、そうした「部分」ではなく、提示されたテクスト全体を指して「非暴力」と判じる根拠はどこにあるのか、ということだ。この問いに、宮本さんはまったく答えていない(宮本さんは往々にして、こちらの問いにはまったく答えず、ピントのずれたことを得々と語って満足する傾向があるが、いい加減この悪癖は改めてはいかがか)。
また、宮本さんのような「神話」の捉え方は、たんなる怠惰さの現れで、「悪しき相対主義」とでも言ってもいいようなしろものだ。べつにおれは、何かが「神話」だからといって、それを悪し様に扱うようなことはしないけど、だからといって、「神話」を前にしての宮本さんのような神聖化=思考停止には陥りたくないものだ。
「ギーター」を持ち出したのは神話のなかでの、神の語り。であるからして、神的/神話的 という対比のよい例であるということ。
「神話」の機能について、ほとんどの現代人は過小評価しており、それが現代社会においてもはたらいている事をあえて見ようとしていないがゆえに、強調しているわけで「神聖化」などしていない。
それと「たんじゅんなテクスト読解の問題」なんだけど、ここでベンヤミンのいう「倫理的」というのは原文ではどうなってるんだろ?
「Sittelc…(えっとどうだっけ?)」かな?
『倫理』っていう訳語はしっくりこないんだけど、「社会」とかそういうんじゃだめなのかな?
「神話」については、現代人はそれを過小評価している、というよりも、まさにそういう「神話的状況」にずっぽりはまって生きているのではないか、という感想を持つけど、このことはおいおい、アドルノ=ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』も登場してから、だな。
で、「倫理」と訳されているのは、宮本さんが言うようにSittlichkeitで、これはヘーゲルなんかでは「人倫性」と訳されているけど、この言葉の元をたどると、むしろ「道徳」っていう訳語のほうが近いんだよね。だから、宮本さんの言ってることは当たってないことはないんだけど、じゃあ、「道徳」でいけばいいのか、つうと、それもね。
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