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先の「〈暴力〉について (2)」において結語的に、神的暴力というのは要は、それ以上ことの真偽、もしくは善悪を辿りえぬ、そんな「公理」を、「有無を言わさず」打ち建てるものだ、というようなことが言われた。しかしこれだけでは、じゃあそれは神話的暴力の「法措定」とほとんど変わらんじゃないか、というもっともな疑義を鎮めることができない(ベンヤミンは法措定的暴力を「運命Schicksal 」に結びつける。言うまでもなく「運命」にはいかなる合理性もなく、しかもそれは有無を言わせぬもので、一切の「なぜ?」を寄せつけぬものである。こうした点を考えあわせると、それは上で言われた「神的暴力」とほとんど変わるところがない。法措定的暴力と運命については、『暴力批判論』ズーアカンプ版p. 188、p. 196、岩波文庫版p. 42、p. 54、ちくま学芸文庫版p. 245、p. 263を参照。なお、以下にする引用においても、この順番でページを列挙する)。ゆえに、「〈暴力〉について (2)」で引いた2つめの引用文を検討する前に、この点についていましばらく考えてみよう。
まず、これはそもそも『暴力批判論』を取り上げる最初の時点で言っておくべきことだったのだが、日本語における「暴力」という語の意味と、日本語で「暴力」という語が対応させられているドイツ語の意味の違いを確認しておかなければならない。
『暴力批判論』はドイツ語原題ではZur Kritik der Gewalt というものである。Kritikが「批判」を指すことはすぐ分かると思うので(そして、この「批判」という語がたんなる「否定」を意味しないことも、つまり、何かを「批判」したすえにその何かを全面的に「肯定」することもあり得ることも、ある種の「常識」として諒解済み、と仮定する)、消去法的に、Gewaltが日本語訳題における「暴力」に対応することもすぐ分かるであろう。それでは、Gewaltの意味は、日本語の「暴力」とどれぐらいの距離があるのだろうか。手近にある独和辞典(三省堂コンサイス独和辞典、小学館プログレッシブ独和・和独辞典、博友社木村・相良独和辞典)で、このGewaltを調べてみると、いずれの辞書も第一の語義として「力・勢力・威力・権力」を挙げていることが分かる。つまり、このGewaltというは、日本語での「暴力」にあるような、ネガティヴ一辺倒な意味がこめられているわけではないのだ。
ここで、暴力を論じるおおかたのもの(たとえば、上野成利『暴力』、酒井隆史『暴力の哲学』など)にならって、このGewaltという語を、violenceとforceという英単語に二分しよう。言うまでもなくviolenceは日本語の「暴力」にほぼ対応するもので、「ほとんど制御不能で猛り狂い、ときに人やものに害をなす、そういう力」を意味する。一方forceは、動詞としての「人をして無理に、少なくとも100%自発的というのではなく、何かをさせる」という用法がすぐに思いうかぶように、ある種の強制力を意味する。容易に分かるとおり、こうした「強制力」こそが権力を特徴づける。ゆえに、このforceを「権力」と読みかえ、Gewaltの持つ主要な意を代表させてもよい。
さて、上のようにドイツ語のGewaltという語を、英語のviolenceとforceという語に分けて捉えると、神話的暴力の法措定的暴力と、神的暴力の措定的暴力(詳細はまたの機会にゆずるが、神的暴力が措定するのは、けっして「法」ではない)の違いにも光が当てられることになる。このことを説明するため、ベンヤミンが神話的暴力の法措定について語るところを引く。
……法措定における暴力の機能は、つぎの意味で二重なのだ。たしかに法措定は暴力を手段とし、法として設定されるものを目的として追求するのだが、しかしその目標が法として設定された瞬間に暴力を解雇するわけではなく、いまこそ厳密な意味で、しかも直接的に、暴力を―暴力から自由でも独立でもなく、必然的・内面的に暴力と結びついている目的を、権力の名のもとに法として設定することによって―法措定の暴力とする。
(pp. 197-198, p. 56, pp. 265-266。訳は岩波文庫版野村訳)
つまり、目的としての法を措定する暴力はviolenceであるが、ひとたびそうした法が措定されるや否や、その暴力はforceとなり、人をしてその法に従わせる権力として立ち現れる。これが神話的暴力が持つ法措定的側面の本質である。それでは、神的暴力はどうか? そもそも、それが措定するものは、いやほんとうは、この「措定」という言い方自体まずいのだろうが、ともあれ、それが打ち建てるものは法ではない、というところからして違う、ということは措いても、少なくともそれは、ある局面においてはviolence、またある局面においてはforceとして振る舞うことはない。どちらかと言えばそれは、violence一色である。しかし、violenceのvi-が「男」、つまりは「人」を意味し、そしてGewaltの-waltが「存在する」ことを意味するwalten由来であることに思いを致せば、これが「人間存在」をそもそも成立させるような、そんな力を含意する、そんなこともあるような気がする。
ベンヤミンがちゃんと言えなかった事を言ってやろうじゃないかという心意気に敬礼します。
私ももっとちゃんとしたことが言えればいいんですが、「ゲバルト」は過去の一時期には日本語として通用していたはずです。68'の生証人であるけいこさんなら何か証言してもらえるんじゃないでしょうか。
で、もちろん、「ゲバルト」がある一時期この国で使われていた、ということは、知識では知っていて、それは「実力行使」みたいな意味合いだったのかな、とも思うけど、でも、その場合でもやはり、violence色が濃すぎる用法だ(った)、と思う。
日本語でも、その区別があるので、当時の学生たちが使った「ゲバルト」は、両方の意味を含んだ新しい概念の導入をねらったのかもしれませんね。でも実際には「学生がふるう暴力」程度の意味にしか流布せず、まあ、実態がそうだったから仕方ないのかもしれませんが、なんとなく残念な気もします。
そんで、わたしは68年は、まだいたいけな少女でありました。
で、日本語での「ゲバルト」は、けいこさんの言うように、たんなる「ヴァイオレンス」とは違う意味合いも込めたかったのだ、という気がする一方、じつはただたんにファッション的なものだったんじゃないか、とも思ったり。
Walter 以後、これだけ経っても、これだけ言葉を尽くしてもなおはっきりとは表明され得ないような「神的暴力」などという概念が、ちまたに「流通」するなどという事のほうが考えにくい事態であるとも言える。よな。
さてさて、ネットで調べると、なんか、デリダが「神的暴力」にびびって、哲学者として恐れをなした(=なかなか、論理で蹴り飛ばすのが困難な怪物)なんて記事も見つけましたが、ベンヤミンもデリダもろくすっぽ読んでいない私には、真偽のほどは分かりません。
しかしながら、そもそもとして、神的暴力と、神話的暴力の区別って、ベンヤミンもデリダのように、そんなにこだわる必要があるのでしょうか?。というか、両者の線引きって、出来ないでしょう。あらゆる人が行う暴力は、神話的であり神的だと思います。
硫黄島の戦いなんて、非戦闘員の被害者ゼロ、レイプ略奪なしという、完全に国際法規に則った戦いであり、そういう意味で極めて神話的暴力といえると思いますが、内実は、上官の命令通りに動いて、日米双方の一兵卒がどんどん死んで行った凄惨極める戦いであり、神的暴力以外の何ものでもありません。
神的暴力の筆頭格にあげられるヒトラーですが、彼なんかも、神話的に法的措置を経てやっていることも多いでしょう。
すくなくとも、彼は政権を、合法的に奪取したはずです。
法という法は、それが存在するようになった理由なんて、全部あとづけといえば、あとづけでしょう。合理的に説明しきれる法律なんて何もないですよ。
枝葉末節の話になって恐縮ですが、道路交通法について。
車が来ていないのが明らかな状況で、どうして赤信号のとき歩行者は横断することを許してもらえないのか。?
先日、大胆にも、おまわりさんの前で、車がきていない状態で、赤信号を無視して渡ったら、ピッピッピーって、しつこく笛を吹かれましたよ。
さっさと逃げましたがね。(笑)
むしろ、論ずべきは、あらゆるものが持つ「力」を背景にした、その行使である「暴力」と、猿でも犬でも電柱でも電車でも杉でも檜でもない、特異な「ヒト」という「存在」の関係だと思います。
って、ろくに知らないことについて、エラソーに書いたんで、はやしさんから凄い絨毯爆撃を受けそーーー。
まあ、こういうのもええでしょ。大目に見てね、はやしさん。
あと、リーマン侍さんの道交法がらみのエピソードを聞いて思い出したのですが、アメリカでは「いかなる場合でも歩行者優先」との法規のほうが作用力が強く、たとえ赤信号を渡ろうしている、もしくは、赤信号で待っている場合も、車が道を譲ってくれることがしばしばで、パトカーもこの例外ではありません(車が来ていない場合については、何をか言わんや)。というわけで、リーマン侍さんの事例には反例が存在します。
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