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共同作業など、とくにめずらしいことでもない。逆に言えば、共同作業でないようなことのほうが、じっさいのこの社会ではめずらしいくらいだ。だが、ごく狭い「社会」においては、こうした「共同作業」がものめずらしく観ぜられることがある。
たとえば、共同作業として著述をする、というのは、それだけで「何か」をその成果物に関して忖度されたりする。アドルノ=ホルクハイマーや、そしてもちろんドゥルーズ=ガタリなどは、そうした「著述における共同作業」の顕著な一例、であろう。
ただ、上に挙げたアドルノ=ホルクハイマーにしても、そしてドゥルーズ=ガタリにしても、そもそも個別作業を主としていた人たちで、そういう共同作業が常態であったわけではない。「共同作業が常態」という人たちを思いうかべようとすると、案外思いうかばないことに気づく。
そういうなかで、ほとんどまったく「共同作業が常態」な人たちが、著述というジャンルにおいてではないが、いる。映画におけるストローブ=ユイレがそうだ(ストローブ=ユイレについて以前書いたものはこちら)。
この間本屋に行ったおり、映画本のコーナーでダニエル・ユイレが死んだことを知った。死んだのは昨年の10月とのことだから、そのときまで知らなかったというのは迂闊と言うほかないが、ともあれ、そのことを伝えるポップを見たときすぐに思ったことは、ストローブはこれから一人でどうするのだろう、ということだった。
ペドロ・コスタによる、ストローブ=ユイレについてのドキュメンタリを見た人ならご存知だと思うが、ストローブはかなりいい加減なやつに見える。糸の切れた凧のように編集室からふらっとすぐにいなくなってしまうし、編集室にいる場合でも、フィルムと格闘するユイレの横で、ストローブはその邪魔をしているようにしか見えない。
だが、そのじつ、ストローブはかなり生真面目で、そしてけっこううつっぽい人間であるような気が、なぜだか強くする。そういう人間が、公私にわたるパートナーを失ったときどういう状態に陥るか、人ごとながらけっこう心配になってしまう。まさか死ぬことはないだろうが、でも、ストローブ=ユイレとしての最後の映画Quei loro incontri のあと、もう映画を撮ることはない、というのは、十分あるような気がする。
それは何だかひどく惜しい気持ちがすると同時に、「そうでなくてはならぬ」という観客の身勝手な思いも招来させてしまう。ストローブ=ユイレはあくまで、「ストローブとユイレ」ではなく、あたかもそれで一人の人間であるかのようなストローブ=ユイレであり、それを無理に分離すれば、死んでしまう、そんな気がする。
そういうふうに思わせてしまうようなパートナーを得られたストローブという男は、思えばしあわせなやつ、と言えるかもしれない。
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