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(この記事は牟田口連夜さんのブログにおけるエントリ「 隊長が随分真摯で紳士で親身なので」コメント欄での牟田口連夜さんから私への質問に対する返事です)
質問に質問で返すのは気が引けるのですが、「昔は働かずに喰うなんて出来なかった」という文言の「昔」とはいつを想定していますか? そして、このことが言われる地域は? この文言の主体は?
私が「働かざるもの喰うべからず〜昔は働かずに喰うなんて出来なかった」という流れを読んで、真っ先に思い浮かべたのは、ギリシア・ローマ時代の奴隷制について、です。
ご存知のように「働かざるもの喰うべからず」というのは、新約聖書の「テサロニケ人への手紙」に出てくる、イエスの言葉です。何でイエスはこんなことを言ったのでしょうか。それはまさに、「働かないで喰っているやつら」、奴隷制の恩恵に与っている支配層や富裕者が存在したからです。
イエスはそれに対して、「そんなんズルいじゃん。それならみんなで働こうよ」と異を唱えたのです。ただ、ここで気を付けて欲しいのが、決してイエスは労働賛美とかそういうことでこれを言ったわけではない、ということです。だって、四福音書を読めば分かる通り、イエス自身は別段働きもせず、弟子と一緒に他人の家に上がりこんで飲み食いしながら、ダラダラ過ごしている、と言ってもいいぐらいなんですから。
このまま書き続けると、労働観を史的に展開する、ということをやり始めてしまいそうなので、「働かざるもの……」についてはここいらへんで切り上げますが、事実問題として、働かないで喰うことの出来た人なんてのは、ざらにいたわけです。それこそ、今だっているわけでしょ、働かないで喰っているニートが。
だから、結論としては、牟田口連夜さんは規範問題として、そして私は事実問題としてこのことを語っているわけで、そこからして噛み合っていない、というか、誤解があるように思います(私のブログを見てもらえれば分かるように、私は「働かない奴は喰うべきではない」というのが規範として有効かどうか、懐疑的、とまではいかなくとも、判断保留、という感じです)。
『「喰う」為に、日本がどれだけ血と汗を流して来たか』とのことですが、それは日本だけに限ったことではなく、ましてや過去形で語るようなことではないと思います。流した血と汗の多寡はともかくとして。
長文失礼しました。
とここまで書いたところで、早くもれんやさんより2通目のコメント到着。なんだってそんなに反応早いですね? お邪魔でなければ、あたしゃ構いませんが、それほど頻繁にコメントは付けられない、と思います。
では、後ほど、ということで。
あーなるほど。でも、すっごく忙しい最中にも、怒涛の如くコメントやらエントリやらしている方もいますよね。隊長とか。
TB頂いたれんやさんの2エントリについても、時間が空いたら少し考えてコメントします。考えて、何も出てこなかったら、そのときはしようがないですが……。
私も興味の赴く範囲でしか活動しておりませんのでそれ程お気になさらずとも結構ですよ。
といいますか度々お邪魔しまして申し訳ありません^^;。
社会が高度に産業化(資本主義化)し、人間を生産のための道具や部品と見なす資本主義的な権力は、生産の秩序から逸脱する人間を欠陥品として断罪します。役立たずな部品にはもはや居場所はなく、社会から目に見えない、あるいは直接的なプレッシャーを受けることになるのです。
『働かない』=『無為であること』は、とにかく資本主義社会の中ではマイナスの評価しか受けません。近代以前の社会では、王侯貴族、宗教関係者、乞食など、無為の存在はたくさんいたし、けっしてマイナスだけの存在であったわけではない。そのような浪費行為は労働したものの当然の権利であるはずなのですが、資本は獲得した富をすべて生産力の拡大に回してしまいます。その結果、生産力の拡大は地球環境を破壊するまでに至っています。
『無為』や『浪費』の価値と権利は今や私たちが全力で取り返さなければならないものだと思います。そしてそれは資本主義システムに対する全面的な反抗にならざるを得ないのだと思います。
学校教育は資本の論理に子供を馴化させる機能を担っているわけですが、登校拒否を私たちはそのようなシステムに対するギリギリの形での抵抗と見なしていました。実際、登校拒否をし、家に引きこもっていた青少年が、自らの病いを「システムに対する反抗」だと肯定的にとらえ直すことで、精神的に立ち直り新しい意識で社会と対面していった例を私も見ています。
これはニート問題にもそのまま当てはまるでしょう。したがって「ニートを肯定する」というはやしさんの立場はよく理解できます。(というか、シチュアシオニストやアウトノミアなどへの興味など、ずいぶん考えが共通しているのではないでしょうか? ちょっとビックリです。)というのも「ニートを肯定する」ということは産業化した社会の中で道具と化した私たちの生に人間らしさ(無為や浪費の価値)を取り戻す端緒になるはずだからです。(ベーシック・インカムというにはおもしろそうですね。参考になりました。)また顔を出します。
登校拒否とニートが、その根底で「ある価値観を押し付けるシステムへの反抗」というものを共有しているのではないか、とのご指摘、全くもって賛成です。成績や職能といった、本来であればその人の一部分を示すに過ぎない属性で、その人全体が判断されてしまい、ときにはそのことによってその人の全人格が否定されもする。それはとてもつらいことだし、理不尽なことです。そして、これもまた荒井さんが仰られていることですが、「何か、少なくともそれが存在することで誰かを傷つけるようなことがない何かが『ある』ということはいいことだ」というのはまあそうだとしても、その命題から翻って「その何かが「ない」ことは悪である」という命題が引き出され、そして「何かが『ある』」ということを資本主義システムが(ある意味では)至上の価値とする以上、「何かがなくったっていいじゃん」ということは、勢いそれに抗うということは、資本主義システムに抗う、ということであり、同時に、その抗いというものは、資本主義システムにどっぷり漬かっているわれわれにしてみれば、理解しがたい、どころか、「理解」という理知的なものに到達する前に、感覚的な部分で拒絶されてしまうものでもあります。
ドゥボール、ひいてはシチュアシオニストたちが社会に突きつけた匕首というのは、乱暴に言えば「『無為(sans-oeuvre、営みの不在)を認めよ」ということです。
ただし、これは自戒を込めて言うのですが、とかくこうしたことを考えていると極端に走り勝ちであり、ひどい場合には「何かが『ある』」こと(例えば、労働)を否定したりしてしまいます(アウトノミアの場合には、「労働の否定」ということは革命のための便法でしょうから、単純な「労働それ自体」の否定ではない、と私はおもいます)。そうではなく、両者をともに認めながら、かといってどちらかの極に針が振り切れることなく、「みんなが楽しく愉快に生きられる世界」を考えていきたい、考えるのみならずアクションにつなげていきたい、と思っています。
ベーシック・インカムについての小沢さんの本、非常に啓発的ですので是非一読を薦めます。
それでは、また遊びに来てください。私も荒井さんのページをちょくちょく見させてもらいます。
(誤)「何かがなくったっていいじゃん」ということは、勢いそれに抗うということは、資本主義システムに抗う、ということであり、
(正)「何かがなくったっていいじゃん」と言って「何かが『ある』」ことを規範的に主張する命題に抗うということは、勢い資本主義システムに抗う、ということであり、
隊長の厨房精神&攻撃的童貞死守、その他諸々は、まあ隊長には隊長の歴史や事情や環境やコンプレックスがあってそうなっておるのだ、と隊長自身コメントしてるとおりかな。。
モデリングありましたね。額が広くて顎は未発達で後頭部は垂直気味な、いわゆる「知能の高い人の頭部」って感じでキモチワルかったです(笑)
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