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「ユマニテ」2004年12月2日号に掲載された、David Zerbibによるネグリとハートのインタヴュー。

翻訳に使ったトランスクリプションはこれだけど、「なんじゃこりゃ」な出来。OCRに突っ込んで、訂正も何もなくアップ、って感じ。まあ、無いよりゃ全然マシなんだけど、もうちとどうにかなんなかったものか。



ユマニテ: 2000年に発行された『帝国』は、世界化された資本主義の現代的な形態を描いています。そして『マルチチュード』では、「帝国」に対抗する新しい力についてのあなたがたの分析を提出しています。あなたがたは、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を書き直そうとしたのですか?

ハート: 確かに、『帝国』も『マルチチュード』もマルクス的な書物です。『帝国』は、現実の搾取のシステムを理解しようとした書物ですがですが、それはちょうどマルクスが『資本論』で行ったことです。マニフェストというものは、革命的主体を提起するようなテクストです。この意味で、『マルチチュード』はマニフェストに近いものでしょう。

ネグリ: 私たちは単純に、階級間の関係と資本主義に関するマルクスの分析に基づいて、今この時代に適応できる政治経済批判をしたのです。

ユマニテ: この「マルクス主義を新たにする」という仕事は、特に「他なる世界を希求する」人々 altermondialistes に、熱狂的に迎えられる一方、「国家」「階級」「人民」にかんするあなたがたの問題提起は、支配的なリベラリスムに反対するこのやり方に疑義を呈する人々にとって、不安と疑いを喚起するものでもあります。こういった懐疑にはどう応えますか?

ハート: 私たちの分析に通低するある基本認識に関する不安を喚起することがらは、もう確固たる事実なのです。左派の中でも伝統的な人たちは、あなたが今しがた言われたようなことで私たちを非難します。でも、わたしたちはこの世界で現に起こっていることを分析しているに過ぎないのです。

ネグリ: 労働運動を、そのヨーロッパ的な見方と混同するべきではありません。そのヨーロッパ的な見方は、共産主義が私たちを国家的で組織化された運動に結びつける、という歴史に属しています。しかるに、今起こっている労働運動は、このような歴史を乗り越えてしまっている。たとえば米国では、このような伝統は存在しません。ですが、米国に労働運動がなかった、とは言えません。ラテンアメリカには、かような伝統が部分的に存在します。アラブでは……微妙なところですね。さて、私たちのようにヨーロッパ的な見方をしないということの要諦は、まず第一に、世界的に問題にもなり、かつ西洋の社会主義のヨーロッパ中心主義的な経験では対処できないような、搾取されている人々の問題があります。第二に、労働組合や党のダメさ、特に「労働階級」や「国家」といった「大概念」のダメさというのは、その解釈が往々にして右派的なものに傾斜してしまう、というダメさである、ということです。帝国の命運は、その思惑とは反対に「帝国」というものは左派のディスクールである、という事実にかかっているのです。というのも、以前とは全くうって変わった労働者階級が、「マルチチュード」という概念と混ざり合いながら現れているからです。これは、全ての正統派が直面しているパラドクスです。というのも、正統派は労働者階級と国家政策というもの一緒くたにして考えるので、こうした問題には答えようがないのです。私たちが言いたいのは、労働者階級というものはもはや基底的な駆動力ではない、ということです。というのも、労働者階級は、しばしば既存の労働者階級以上に搾取されている、生産力の集まりの一部でしかないのですから。

ユマニテ: その「搾取されている生産力」とは?

ネグリ: それは、情報革命に結びついた、非物質的労働に見出されるでしょう。つまり、サーヴィス業や知財・非物質財の生産に従事する人々のことです。農業労働者もそこに含まれるでしょうね。とにかく、社会の只中に見出される、実際の生産力が問題になるのです。

ハート: 情報のそれであれ、通信のそれであれ、技術革命は今日、重要な役割を演じています。それなのに、話を工業労働者という階級に限定するべきでしょうか? いや、それ以外の労働力について語るべきなのです。旧態然とした、「歴史の唯一の担い手」という把握の仕方に留まるべきではありません。ゆえに、私たちはあえて「マルチチュード」という新しい集合的主体を定義したのです。その主体は生産労働の集合に属し、社会階層を横断します。工場も、特に第三世界のそれも含めてね。

ユマニテ: 労働世界の変異から出発して、あなたがたは、その変異が齎したものを批判するのではなく、むしろ、その変異の下にあるポジティブなものを指摘しています。この変化には何が潜んでいるのでしょうか?

ハート: マルクスとともに、解決の鍵なしに問題が提起されることはない、と申し上げましょう。マルチチュードというものが想像できるということは、この革命の兆しはすでにそこにある、ということなのです。

ネグリ: 労働者階級の歴史において、少なくとも4つのモデルを挙げることができます。19世紀中ごろまで見られた、田舎から都会へと移動させられた労働者たちというモデル、イデオロギーや希望によって「生産者」としての資格を与えられた熟練工というモデル、そしてテイラーイズムに見られる大衆労働者というモデル。今日に至って、それらとは違うタイプの生産的社会機能、それらとは違うタイプの労働者が現れました。つまり、コンピュータの前に座る労働者、というものが。このことは生産者像の拡大を、そしてさらに生産手段の再私有化を前提としています。頭脳が重要な生産手段になると、生産手段と生産力の分離というものはもはや存在しません。そして、そのことがまさに革命的な可能性を秘めているのです。かような進化に対面して、資本が受身であるはずはありません。労働者階級と生産するマルチチュードのこの変形を土台として、資本は彼らに対する支配プロジェクトを再構築します。

ユマニテ: あなたたちは、その反対勢力よりも戦略適応に長けた、こうした自由資本主義の持つ驚くべき柔軟性を妨げようとしていますか?

ネグリ: 私たちは何よりもまず、労働者の組織は変化した、ということを再認識しています。そして、こうした状況において革命をぶち上げることは果たして何を意味するのか、ということを自問します。その驚くべき柔軟性を以ってしても、資本主義は今日、戦争と永遠の例外状態に嵌まり込んでしまっています。もし価値法則がもはや機能していないとすれば、もし金融化のメカニズムが危機に瀕しているとすれば、そしてそういうことは事実そうだと思われるのですが、集合的資本とマルチチュードが織り成す基礎的な関係の中で、資本家間の会戦の火蓋は切って落とされた、と言えるでしょう。

ユマニテ: あなたがたはヨーロッパ中心主義を批判し、労働運動の局所的な特異性を強調しています。このことは、グローバル化するイデオロギーのヴィジョンに差異を導入する、ということです。フェミニスムも同様に、こうした試みの一翼を担っていると思うのですが。

ネグリ: そう、フェミニスト的な問いというのは、私たちにあって全く手付かずになっている問題でしょう。ただ、『帝国』と『マルチチュード』で私たちは、労働運動の問題を解決しようとしたのではなく、考える端緒となるようなスキームを提案したかったのです。今私は「考える端緒」と言いましたが、これは、私たちが提起するのは一種の「エポケー」である、ということです。実情を調査し、たくさんの同志たちが現在の新しい状態を否定し続けていることを知った今、かつてナショナリティを巡って、レーニンとジノヴィエフの間で戦われた論争を蒸し返すつもりはありません。国民国家? 以前のような形ではもはや存在しないでしょう。というより、不可能なのです。たとえ中国においてもでもね。

ユマニテ: あなたがたの判断方法について言うと、あなたがたは「ねばならぬ」と書いています。啓蒙はフォード主義者が運営する工場よりもアクチュアリティを持つとお考えですか?

ハート: 考えているのは、「近代」というものの終わりに「その起源」という問題が繰り返されている、ということです。たとえば、戦争に関連して。近代は、ホッブスとデカルトとともに、主権性と戦争という問題から始まりました。さて、われわれの近代の危機は、グローバルなレヴェルでの内戦とでも言ったものを伴っています。しかし、フランス革命がデモクラシーの古い理念を取り戻し、それを導入することができなかったように、われわれもデモクラシーの近代国家的概念を取り戻し、それを世界レヴェルで提起するということはできません。民主的な世界国家を創造しようとすることは意味がないのです。それは、フランス革命的なるものが、国家都市を創造したい、と宣言するようなものでしょう。重要なのは、バブーフ的なことを繰り返すことでも、アテネ的なものを再現することでもなく、デモクラシーを再発明することなのです。それは、近代の起源を形式的に繰り返す、ということです。

ネグリ: 18世紀に回帰すること、それはまたフーコーが問題にしたことでもあります。権力とは何か? フーコーは、まるでデカルトのように、目隠しをしたまま進んでいったのです。フーコーは、解放の理論のみならず、自由化の理論をも再発明しました。フーコーもそうですが、晩年のアルチュセールも「主体性」と「欲望」について語り始めています。そして、アルチュセールは最後の最後まで自らのことを「コミュニスト」と称していました。彼が亡くなる半年前の対談で、私は質問をしました。それに対する答えはこうです、「ええ、私はコミュニストですよ。だって、そうでしょ? あなたの言ってることもコミュニスムじゃありませんか」。

ユマニテ: マルチチュードはコミュニストなのでしょうか?

ネグリ: ええ、そうですとも! しかし、マルクスがそれについて語り始めたときすでに、労働者階級はコミュニストだったのでしょうか? また、労働者階級は世界中の人々のことを代理表象していたのでしょうか? ここで言うマルチチュードとは、すでに労働者階級よりも量的に相当大きいものです。労働者階級はコミュニストでもあったかのですが、また別のものでもありました。ドイツでは1933年から1945年にかけて、労働者階級はコミュニストとは別のものでした。また、イタリアでは1943年の間、そしてフランスでも労働者階級がコミュニストでない期間があったのです。米国においては労働者階級がコミュニストであった例がありません。問題は、「コミュニストたらん」とする意思の問題ではなく、「コミュニストの可能性とは何か」を理解する、ということです。そして、私見では、マルチチュードというコミュニストの可能性というのは、マルクスがそれを理論化した時分の(今日での事情は言うまでもありません)、労働者階級というコミュニストの可能性と比べて、とんでもなく大きなものがあります。

ハート: この本の中では、コミュニスムについてはあまり語られてはいませんが、コミュニスムがテーマにしたことは大いに語られています。たとえば、労働が分裂してしまったことについての批判、私的所有についての批判、労働の新たな主体についての命題、というテーマです。コミュニスト的な用語法は使ってはいませんが、コミュニスト的な分析、コミュニスト的な命題の全ての要素が、ここには現れています。

ユマニテ: 労働者階級にとっての理論的・実践的な鍵の一つは、階級意識というものでした。階級意識を持つことによってある階級 classe は優れたもの class となったのです。マルチチュードについて、即自的に、かつ対自的に語ることはできるでしょうか?

ネグリ: それは重要な問題ですね。労働者階級について人が語るとき、次のような古臭いコミュニスト的な把握の仕方に基づいて語ったものです。つまり、労働者階級の物質的優位性が、政治的優位性に結びつく、という把握の仕方です。(階級)意識というものは、労働者階級の物質性とその政治的拡張を結びつけるものでした。そして、この意識は外側から齎されたものなのです。つまり、共産党や前衛たちがそいうふうに労働者階級を導いたのです。今日、このプロセスは疑いなく、自ら組織化されるでしょう。今私は「組織化される」と言いましたが、これは自発的なものではないのです。しかし、このプロセスには外部はなく、また、物質性から政治に橋をかけるような前衛もいないのです。

ユマニテ: そのような「自ら組織化される」という内発的な運動の例は何かありますか?

ハート: 2003年2月15日に起こった、イラク戦争に反対するデモはその一例でしょう。ただ、それは抽象的な自己組織化ではないのです。そうではなく、今までとは違った運動や、闘争の経験において築き上げられた絆の賜物でしょう。

ネグリ: 自己組織化というカリカチュアに陥ってはなりません。このアナーキスト的な理念を共有する膨大な文献があります。これらのものは社会主義前史の部分をなしますが、同時に、エコロジーという大きな運動の部分をもなすのです。しかし、自己組織化を巡る言説よりも、スペインのアスナール政権がたった2日でいかに崩壊したか、ということを考える方が興味深いことです。アスナールの扇情的で規律的な言説が嘘っぱちだった、ということが明るみに出た、まさにそのときに出現した「マドリードのコミューン」は一体なんなのか? この「非−真理」へ対抗する連合は、自己組織化の大いなる審判となりました。たとえば、スペインの人々が発信したSMSを通じて、奇妙な形でその自己組織化は成し遂げられました。また、5、6人のグループが通りに出て歩き始めたのですが、端まで来てみると、それは何万にもになっていたのです。

ユマニテ: アスナール政権の例は、そのようなことがあってすぐ選挙があっただけに、興味深いですね。さて、マルチチュードの制度や権力に対する関係、マルチチュードの政治的介入といった問題についてはいかがですか?

ネグリ: そこにアンチノミーというものはありません。私が見るところでは、マルチチュードが制度に介入するたび、マルチチュードは制度を作るのです。不可避的で、かつ有益な改革をどうして慎むことがありましょう。その裁きに自らの存在を結びつけるのではないにせよ、従うべきはこのプロセスなのです。そして、そこに別の道が開けてきます。エクソダスに至る道です。それは、諸制度が顔をつき合わせて合意に至らせないように仕向けます。世界的なレヴェルでのモビリティを拓くこと、もっと高い見返りのために、さらには普遍的に保証された収入のために闘うこと、コミュニケーションの水路と土地を再び自分の手に取り戻すこと、そうしたことこそが生き延びる道なのです……。しかし、このことは、危険を切り抜け続け、資本の網の目に囚われ続ける、ということを意味しません。資本の網の目はいつの日か瓦解するに違いありません。エクソダスは、改革を達成する現代的な遣り方を実現するためのものなのです。

ハート: そうした意味で、制度を再考し、それを再び作り上げなければなりません。そして、今とは違った社会を作り上げるため、こうしたエクソダスを組織する方法を探しながら、今あるものたちと協同するのです。

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>マルチチュードというものが想像できるということは、この革命の兆しはすでにそこにある、ということなのです。(ハート)

肝腎なのは「想像力」だよな。
何を思い付く事ができるか?

>マルクスとともに、解決の鍵なしに問題が提起されることはない、と申し上げましょう。(ハート)

「思考は現実化する。」作者不詳
「人間は実現不可能な事を思い付く事が出来ない。」宮本浩樹
宮本浩樹 2005/03/05(Sat)17:42:00 編集
宮本さんが引いてくれたような部分、こういうところがネグリとハートのいいところでもあり、批判を浴びちゃうところでもあるんだろうな。

何でかって言うと、物事のいい面しか見てないといえば見てないんだよね。でも、やつらはそこをオプティミスティックに突っ切る、と。「あぶなっかしいなあ」と思う一方、やっぱり「いけいけ!」って思うよね。

ただ、運動の組織論ってことで言うと、「自己組織化」ってのはやっぱり弱いんだよなあ……。長原豊も言ってるように、面接性の高いところでしか成り立たない、って感じもするしね。

「思考は現実化する」って、ナポレオン・ヒル? それとも、また別にオリジネイターがいたりするのかな?
はやし 2005/03/06(Sun)01:06:00 編集
>自己組織化というカリカチュアに陥ってはなりません。

ネグリがフォローしてますね。
「自己組織化」についてはマトゥラーナとバレーラの「知恵の樹」
S.カウフマンの「自己組織化と進化の論理」なんかが良くって、カオスから秩序が自発的に創出する仕組みを納得させてくれた記憶があるな、うん。
> ただ、運動の組織論
にそのまま持って来ちゃいかんっていう事だろな。

>ナポレオン・ヒル?
確かそんなヒトです、はい。
宮本浩樹 2005/03/06(Sun)17:48:00 編集
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