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ジジェクのネグリ=ハート批判について書こうと思い、そのために『ビフォア・セオリー』という本についてちょっとした調べものをしていたら、この本の公式ページで序文と本編の一部が読め、それがけっこうためになるもので、かつ、以前自分がそれなりに集中的に読んだ本たちのことを思い起こさせたので、それについて書く。
この『ビフォア・セオリー』は、副題に「現代思想の〈争点〉」とあるように、現代思想、とくに「ポストモダン」と呼ばれることがある思想潮流において問題にされてきた事どもを扱っているのだけれど、まず好ましく思うのは、ともすれば気分的に使われることの多い「ポストモダン」という言葉をについて手堅く、そもそもそれが対峙するところの「モダン」から説きおこしていることだ。
言うまでもなく「モダン」とは、「過去」と断絶した、絶対的に新しい「今」を表す。つまりこの言葉には、キリスト教的直線時間表象や、それの帰結としての進歩史観といった、優れて「西洋的」と言える概念が詰まっている。そして、もし「ポストモダン」をちゃんと捉えたいのであれば、これら諸概念についても押えておかねばなるまい。
前述のようにこの『ビフォア・セオリー』でも、これらについて触れられてはいる。触れられてはいるがしかし、この本の主題はやはり「ポストモダン」のほうにあるわけで、「モダン」がらみの諸々については必要最低限というに留まる。それでは、その「諸々」について主題的に、あるいはある程度まとまったかたちで書かれたものとしては何があるだろう?
まず「総論」として挙げたいのがハバーマス『近代の哲学的ディスクルス』だ。とくに、第一巻の最初の章は、たんに「今jetzt」を表すに過ぎなかったmodernという語が、「新しい時neue Zeit」を指示するに至った結構を描いて間然とするところがない。
そうした「新しい時」という表象を準備するに至ったキリスト教的直線時間概念と、それに先立つ円環的時間概念を含む「時間の社会史」を扱ったものとして真っ先に挙げるべきは真木悠介『時間の比較社会学』だ。同時に、この本でもたびたび参照されているプーレ『人間的時間の研究』も薦めたいが、品切れなうえ、残念ながら完訳ではない。
最後に、キリスト教的直線時間表象の帰結としての「進歩」概念への強烈な痛打としてアドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』を。ここでの彼らの言説は異様なほどペシミスティックではあるが、このペシミスムを踏まえたうえでなければ「次の一歩」など到底踏み出せまい。
以下引用
<a href="http
西ヨーロッパ思想史上におけるウェーバーの位置と、われわれがウェーバー社会学を学ぶことの意義について
以下に名をあげる思想家たちによって巨視的世界像ないし世界史像形成の努力がなされたことを注視し、その前提を批判的に吟味しなければならない。 −−略−−、われわれがマックスーウェーバーと出会う地点を明確に規定するためには、それらの世界像の前提となっている構成原理をあきらかにしておく必要があるのである。
さしあたってわれわれは、六つの構成原理を指摘することができよう。
(1)時間のカテゴリーの優越
支配あらゆる経験的素材が時間軸の上に位置づけられ、整序される。かくて、同時代の人間・社会・文化は、過去より来たり未来に向ってすすむ歴史の所産として、その一時点の断面として、把握される。空間のカテゴリーは第二義的なものにとどまり、空間上の差異は、それ自体としては尊重されず、時間上の差異に還元されてはじめて定着する。
(2)単線的発展段階の設定
歴史は、進化論的にであれ(メーン、コント、スぺンサー)弁証法的にであれ(レッシング、シラー、フィヒテ、へーゲル、マルクス)、単一の線上を、いくつかの段階を経て発展してゆくものと考えられる。
(3)発展の原動力・歴史の統一原理の設定
そのような歴史発展には単一の原動力が想定され、それが、(2)のような段階的継起を貫いて歴史を動かし、歴史に統一と秩序を与えてゆくと考えられる---コントの「偉大なる存在」、ヘーゲルの「絶対精神」、マルクスの「生産力」など。
(4)進歩と実現への信仰
その単線的発展-段階的継起は、それ自体、進歩として、人類の可能性のより大きなより豊かな実現の過程として、価値実現の増大過程として、肯定的にとらえられる。たとえ同時代を、「絶対的堕落の時代」(フィヒテ)として、あるいは「分裂の時代」(シラー)として、あるいはまた「疎外の時代」(マルクス)として、否定的にとらえるとしても、こうしたアンチテーゼの時代を経て、あるいはむしろ、こうした時代を経るからこそ、近い将来において人類のより高次の統一・発展ないし開花が約束されていると確信されている。
(5)絶対主義
しかもそのような歴史的進歩は、歴史の唯一の進行方向として、あらかじめ絶対に予定されたものとして、とらえられる。したがってそこでは、歴史家の歴史像が、像としてではなく、実在に内在する唯一の発展ないし発展傾向の表象的模写として意識される。言いかえれば、実在と概念の差、歴史の構成像としての性格が自覚されず、自己の歴史像がおよそ真なる唯一のものとして絶対化される。
(6)西ヨーロッパ中心主義
以上のような原理にもとづいてそれぞれ構成された諸世界像は、西ヨーロッパを中心とするパースペクティヴのもとに整序されている。すなわち、それらは「一般史」(カント)、「普遍史」(シラー)、人類史(テュルゴ、コンドルセ、サン・シモン、コント、ヘルダー)、「世界史」(フンボルト、ヘーゲル、ランケ)などと呼ばれながら、非西ヨーロッパ諸民族ないし文化圏の歴史をまったく考慮に入れないか、考慮に入れたとしても、もっとも低い発展段階に位置づけたり、あるいは、西ヨーロッパ史の前史ないし周辺的与件として西ヨーロッパに影響を及ぼしたかぎりで考慮したにすぎなかった。−−略−−
以上のような世界像の構成原理は、いったいどのように形成されてきたのであろうか。まず、(1)時間のカテゴリーが優越し、すべての経験的素材を時間線Lに位置づける努力がなされるためには、時間の経過が無意味なものではないということが、あらかじめ信じられていなければならない。ところがユダヤ=キリスト教侵入以前の西ヨーロッパ人は、そのような信念をもちあわせてはいなかった。
「ギリシア的な考えにあっては、時間が、始めと終りをもった上昇線としてではなく、円環として考えられているために、人間が時問にしばられていることが、奴隷状態として、呪いとして感得されざるをえない。---それゆえギリシア的な救済の努力は、この永遠の円環運動から解放されること、すなわち時間自体から解放されることに向けられ」た。
「プラトンのばあいも、アリストテレスのばあいも、時間は空間よりも価値少なきものとして、部分的には悪しきものとして評価されている」(オスカー・クルマン『キリストと時』)のであり、そのように
「時間そのものを建設的なものとしてみるよりは破壊的なものとしてみる」結果、
「ギリシアの世界では、歴史的経過という概念自体が成立しなかった」(ボーマン『ヘブライ人とギリシア人の思惟』)のである。
西ヨーロッパ世界において、時間が世界創造から終末にいたる上昇線として意識され、さきのような諸世界像の前提が成立したのは、ユダヤ=キリスト教の侵入と同時にであった。旧約の予言者は、イスフエル民族の栄光と苦難(世俗史上のでぎごと)を歴史の神ヤハウェの意志に照らして解釈し、来たるべき「ヤハウェの日」、「メシアの来臨」にかんする予言を通じて、終末論的待望をつよめ、「未来」という時間体験の次元の意義を決定的にたかめた。−−略−−
未来のその一時点が、現在の世と来たるべき世との転換点であり、救済線上の中心点である。これにたいして原始キリスト教においては、この線上の過去に、イエス・キリストの来臨と復活という中心点がおかれ、それ以前の線は、イエス・キリストにおける購罪への準備として、それ以後の時期は、この世の終りとキリストの再臨をともなう「新しき創造」にいたる中間時、すなわち、右の決定的なできごとによってすでにその実現が保証されてはいるが、いまだ「満ちない」、「神の国」の実現にいたる緊張の時として、意義づけられた。−−略 −−
この線上において神の救済計画が完遂される。キリストを仲保者として世界を創造した神は、人類の堕罪によっ呪いにひき入れられた世界を救済するために、人類のなかからまずイスラエルの民を選んで、代贖の使命を与える。しかしこの民は、全体としてはこの使命をはたそうとしないため、その身代りとして「のこりの者」を選び、さらにそれを「一人の人」に縮減する(第ニイザヤの「ヤハウェの僕」、ダニエルの「人の子」)。この「一人の人」が、ナザレのイエスとして歴史のただなかにあらわれ、その十字架上の死によって罪が贖われ、神と人とが宥和される。−−略−−
パウロの解釈によれば、代贖者のこの段階的な縮減・集中化の過程は、同時に他面では、律法による罪の意識の増大・深化の過程であり、その極点における信仰への飛躍を準備する過程である。そして、この決定的な救済のできごとが生起したのちには、救済の運動は、一人のキリストから、その代贖の死と復活を信ずる使徒たちへ、さらにはキリストの体たる教会を経て「神の国」における贖われた人類へと、拡大・膨脹の道をたどる。かくて、すベては、キリストを仲保者として、神から出で、神にいたるのである。−−略−−
救済史にかぎって言えば、ここですでに、神という人間を超える歴史の主体、その救済意志という歴史運動の原動カ、その救済計画という歴史運動の法則、その救済目標に照らしてみればそれにいたる段階であるところの歴史的時期、歴史的時期とつぎの歴史的時期との境目をなす決定的な転換点(「カイロス」)、罪(=サタンに譲り渡すこと→「疎外」)を迂回項としてけっきょくは始原にもどる運動というような、基本的カテゴリーが出そろっている。−−略 −−
五世紀のオロシウス、アウグスティヌスを経て十二世紀のヨアヒムにいたり、キリスト教の歴史神学は歴史哲学に世俗化する端緒をひらかれた。すなわち、ヨアヒムは、「ヨハネの黙示録」を世俗史に対応づけて解釈することによって世俗史を時期区分し、世界終末のまえに、地上に「聖霊の王国」(「千年王国」)が実現されると考え、その時を計算して予言さえしたのである。こうして、世俗史が宗教的に解釈されると同時に、救済史のカテゴリーが世俗史のなかにもちこまれるにいたった。−−略−−
われわれは、R・ブルトマンのつぎのような言葉をもって、この概観の結論にかえることができよう。
「ギリシア人は、歴史の意味を問わなかった。古代の哲学者たちは、歴史哲学を発展させなかった。歴史哲学は、キリスト教的思惟においてはじめて成長した。というのは、キリスト教徒たちは、世界と歴史の終りについて知っていると信じていたからである。近代になって、キリスト教的終末論は、ヘーゲルとマルクスによって世俗化された。へーゲルとマルクスは、それぞれの流儀で、自分が歴史の目標を知っていると信じ、この前提された目標の光の下で、歴史の進行を解釈したのである。」
この本は折原先生が「東大教官共闘」の頃(1969年)で約40年前の話なんだけど、「空間的差異を時間的差異に還元する」っていうのはひっくり返せばベルグソンの「時間の空間化」と通底する話。そこで日頃ニーチェがどうたらとか「西欧論理学では時制を取扱えない」とか言っている宮本さんとしては一言あってしかるべきと思うがどうだろう。
わたくし的には折原先生の論は当然批判/吟味の対象であって、まずヘーゲル、マルクスを救出せんと試みるのであるが(笑)、それ以前に「商品形態というのは観念的なイデーではない、絶対主義をいかに心得る!」と「唯一神」宇野弘蔵が雷鳴とともにウェーバーを叱りつけているわけで、『資本論』には資本の原始的蓄積や世界市場といった歴史性、社会性が商品、貨幣、資本の論理に翻訳されて折り畳まれている。スピノザ=アルチュセール的に言えば、西ヨーロッパ中心の世界像という「表象」は虚偽であるが、「それ自身の物質的存在においては常に真なるもの」なのである。
それにページのなかで当該個所を探すのも手間じゃん。
長すぎるコメントが迷惑なのなら考え直すけどさ。
確かに「一神教的直線的時間論/観」ってのは好みじゃないんだけど、バルタンさんがいかに批判し料理するか、拝見させてもらおうって思ってるんだ。
それでいい?
「空間的な差異」っていう表現はピンと来ないんですが、
「他のやり方」、変化と進歩っていう「病」に犯されない為のやり方を採用してきた社会。
未開社会とか無文字社会と呼ばれるような「空間」のことなら、それらの社会を時間軸上に位置づけて「遅れた社会」とするような「線形歴史観」じゃないやり方、彼等自身のやり方に即してそれを理解しようというのが、C.L.ストロースの方法だと思うんです。
時間/変化を社会に回収してしまうようなやり方、
知りたいです。僕も。
インカはレヴィがフィールドワークしたブラジルとも当然繋がっている、つまり空間的に同居してるわけ。「未開社会が弧絶している」ってのはそれこそ思い込みで、人間の移動能力ってのは驚異的だよ。ま、システム論として完結させるためには「開放系」じゃ都合が悪いっていう事情があるのは「理解」するけどね。
今だって同じで、去年ボリビアに行った話しは某所で書いたけど、双発のハイパーでアンデスをすれすれで越えたんだけど、とんでもない山の中にもちゃんと道がついている。あとランクルで無舗装の道路を延々と走ってる途中ネイティブの担ぎ屋?のオバちゃんとすれ違ったんだけど、その先行けども行けどもかれこれ2,3時間走っても家一軒ない、みんなで「あのオバちゃん、どっから来たんだ???」
北アメリカのネイティブだってマヤ、インカと連なる人たちなわけで、彼らがなぜ氏族社会にとどまって国家(アリ塚)をつくらなかったのか、その辺がアリンコと違うところかもしれないな
「縄の結び目」は文字に他ならないし、「共同体の成員に高度な意思統一が実現していれば…」それがどうやって実現してるのか、知りたいんです。
>彼らがなぜ・・・(アリ塚)をつくらなかったのか?
彼らの「神話」が、我々のそれとは違ってたから…
かも知れないでしょ?
で、宮本さんの言い方だと、あたかもレヴィは直線的歴史観じゃない別の歴史観をベースに、いわゆる「未開社会」と呼ばれることもある社会を理解しようとしている、って風だけど、これこそ「寝言言ってんじゃない」という感じで、レヴィが用いているフレームワークってのは歴史観もへったくれもなくって、ちょうど「西洋論理学」がそうであるのと全く同じ仕方で、そもそも無時間的なものなの。要するに、ある対象を時間軸から切り離し、「スナップショット」としてそれを扱う、と。だから、レヴィ自身も認めているように、彼の方法は「社会のダイナミズム」が扱えない、っていう批判も出てくるわけでしょ?
あと、「無文字社会は遅れた社会だ」だなんて、よっぽど人類学に冥い人以外は、誰もそんなこと思ってないよ。それは別に、歴史観が直線的だのなんだのということとは、全く関係ないこと。
それはそうと、「現在を説明するのは過去ではなく未来だ」って、ネグリの文言だったの? だとすれば、そのソースは?
第一に、バルタンさんはウェブ上以外からのソースを、こちらの便宜を考えて引用してくれているけど、宮本さんはウェブ上で誰もが見られるようなソースを「二度手間」で引用している(もちろん、オンライン読書会の不具合に伴う配慮に関しては了解してるよ。でも、一般的に言って宮本さんは、オンライン読書会以外のウェブ上にあるソースでも、リンク先URLを示すだけにとどまらず、長々と引用する傾向がある)。
第二に、バルタンさんはそれら引用を、あくまで「資料」としてなしているけど、宮本さんはその引用を「何らかの意見」の代わりとしてなしている節がある。もっとも、その引用が「意見の表明」としての体をなしていれば問題はないのだけど、宮本さんの場合、それがどういう意見の表明になっているか(それが「意見の表明」だとして)、きわめて分かりづらい。
「無文字社会は遅れた社会だ」とする考え方と、直線的時間概念の関わりについて言えば、「遅れた」という言明自体が直線的時間概念を前提にするものだから、「必然的帰結」とまでは言えないにせよ、これら両者の間に関係はもちろんある。ただ、おれが言いたかったのは、直線的に時間を捉えている人類学者だって「無文字社会は遅れた社会だ」とは思っていないだろう、ということ。
「現在を説明するのは……」のソースに関しては、分からないんじゃしゃーないな。でも、ソースがネグリであることは確かなんだよね?
バルタンさんの長々した引用を皮肉ろうと思ってさ、俺たち性格悪いんだ。
CLSが「別の歴史観をベースに」…なんて言ってない。
>時間/変化を社会に回収してしまうようなやり方
ってのは「歴史観」じゃないぜ。
俺が「無文字社会は遅れた社会だ」って言ってるって思い込んでる(た?)のはバルタンさんだから、言い訳せざるを得なかった。
でも「歴史観が直線的だのなんだのということと」本当に全く関係ないかな?
進歩史観が西洋中心主義と結びついてなおかつ「空間上の差異は、それ自体としては尊重されず、時間上の差異に還元されてはじめて定着する。」ような場合、その必然的帰結にならないか?
で、「現在を説明するのは過去ではなく未来だ」については多分、『マルチチュード』だと思う、定かじゃない…。
整理整頓が苦手なんだよな…。
はやしさんの尽力でwikiが動くようになったし、「遺恨試合」めいて来たことでもあるし引用についてはオンライン読書会/マルチチュード/掲示板で見解は示したつもりなので出来ればそちらの方で応答願いたい。
「必然的帰結」ってのは折原先生の論そのままという気がして良くわからないが、無文字社会に限らず宮本さんは一括りにする事で実は「守ろうとして壊している」だけじゃないの。この辺も構造主義やデリダのグラマトロジーからみで長くなるので『寝ながら読む構造主義』のリターンマッチとしてユスクキュルの話に繋げてやりたいと考えている。
あとはやしさん、『時間の比較社会学』はゲット、冒頭のような一種ペシミスティックな「つかみ」にはものすごく弱いっていうのもありますが、面白い!感謝。
それで、デリダを通過してユクスキュル、ですか。それ、面白そうな展開ですねえ。ぼくもできれば参加したいですが……なかなか。
あ、あと、関係ない、というか、「ググれよ」という話なんですが、「マルチポスト」ってどういうことですか?
「fj.*の歩き方」 <a href="http
要は複数のニュース・グループに投稿するとき「クロスポスト」(投稿したいグループ名を連記)するとサーバーにある記事の実体は一個で各グループには「リンク」?が貼られる、さらに「FollowUp-TO
何にせよ、「マルチポスト」はリソースの無駄遣いである上、レスも発散してしまってよろしくない、という理解でOKですか?
それはそうと、昔アスキーから出ていた「256倍」シリーズで、BSDの巻とLinuxの巻がそれぞれ黒と白で、「ここでも対立かよ」と思ったことを思い出しました。まあ、両者とも各々の本の中で「実はお互い仲いいんよ」みたいなことを書いていて、それがまた嘘くさいなあ、とも思ったり。
ちなみに原典(つっても、バリバールとマトゥロンが訳したフランス語版。でも、日本語訳ってこのフランス語版からの重訳なんだっけ?)で言うと、15ページから16ページにかけてのとこ、かな。
「構成的権力という概念には、過去はもはや現在を説明せず、その任を担うのは未来である、という考えがある」
あとで、このフレーズを含む段落を息抜きがてら訳そうかな、と思っているけど、予定は未定。
「このフレーズを含む段落」はたいして面白くないから訳さんでいいよ。
「生政治」っていうものが、「我々の欲望が事を決定するのだ!」っていうコトだとすれば、欲望ってのは「未来」に働きかける(投企される)ものなんだから…、それに対立する「生権力」の「いまある現状を維持管理、運営しなきゃ!」っていう過去/歴史に基づいた手法と決定的に対決しなきゃなんないのは理の当然。
この地球をぶん回してるのは俺たちの欲望だぜ!
違うか?
で、「欲望」というのはたしかに「未来」に関わるものではあるけど、ひるがえって、その「欲望」がきたりいづったところを考えると、やはり「過去」であるとしか思えない。いつものことだけど、宮本さんは何かの働きとその何か自体を混同している。
この何かってのはその働きそれ自体であって、そのなにか自体ってのは、いわば文章のアタマに便宜的に置かれる主語「It」みたいなもの、俺たちゃ主語なんて無くたって平気だぜ!
確かに人間は目的定立し過程の最後に現れる姿を予め表象する、しかし「人間は自らの歴史を作る、しかし思った通りではなく」(『ブリュメール十八日』)であって、カントではないが人間は神のごとき産出的な知性ではありえないからね。
前レスの繰り返しになるが宮本さんの言っているのは「過去」と「未来」をただひっくり返しただけ、「読書会」で引いた木田元の論を引き取れば私は「現在」とは「斯く能し得た」既在、「斯く能し得る」将来という「今、ここ」における自己差異化の分節的統合(アルチュセール)として「ある/なる」のであろうと思っている。そーゆー意味では過去も未来も共に「ありもしないもの」なのである。
誤解されると困るので追記するが私は過去の未来に対する優位、時間に対する空間の先行を立言しようとするのではない。「過去/未来」「時間/空間」等々の問題構成においてどちらかの先行、優位を立言する事自体、物の見事に「西欧形而上学」に回収されていることに宮本さんがあまりに無自覚だからだよ。
あと日本語というウラル・アルタイ語圏の膠着語における主語の問題とインド・アーリア語圏や中国語(孤立語)におけるそれを「東洋的な考え」などと「一括り」にするなど、日本的オキシデンタリズムという俗論の極み、笑止千万であると言っておきます。
なもんで、同じことをまたくだくだしく繰り返すのもあれなんで、「何か」と「何かの働き」についてもうちょっと細かく書いておこうかな。例によって、ここいらのことをちゃんと宮本さんは読み取れていないみたいだし。
まず具体的な欲望として、たとえば「車が欲しい!」というものを考えよう。ここでもちろん、「車が欲しい!」というのは、「未来のある時点において、自分が車を所有している、という事態を望む」ということだ。しかし、なぜ「車が欲しい!」という欲望が起こったか、というと、それは欲望を抱く時点でその欲望の内包、つまり、この場合で言うと「車」というものの何であるかを了解しているからに他ならない。それでは、どうしてそういう了解が出来るのか? これは、未来の効果、ではありえない。もちろん、その了解を支えるのは「過去」である。だから、ある欲望が投影(働き)されるのはたしかに「未来」ではあるけれども、その欲望の内包(何か)を構成するのは「過去」であり、バルタンさんも言うように、これはどっちがいいだのわるいだの、ということではなく、たんに「欲望とはそういうもの」というだけのこと。お分かり? ま、分かんないかもねえ。
せば、どうなるのだろう?
「望んだ未来にしたがって、過去を意志する。」
これは革命の方法だろう。
バルタンさんの言うのは「過去も未来もないけど現在はある。」っていうふうにしか聞こえない。
まあ、しばらく笑っといてもらおう。
で、はやしさん
欲望の例にえらく複合的なのを持ち出したもんだよな。
「車が欲しい。」……。
この例には前提が多すぎる。
私的所有権、貨幣による交換の体系、整備された道路、セルシオかマーチかプリウスか車種によっても違ってくるし…
「車が欲しい。」っていう現代の先進国の住民の想いは普遍化、一般化すればどういうことなのか?
空間においての自由な移動の可能性の追求、誰かに一目置かれたいというステイタスの追求、生活の利便性を追求する…など、さまざまな欲望の表現形である可能性。
こう考えていくと「その了解を支えるのは『過去』である。」ような、不要な条件は除外できるだろ?
未来と過去の話は置いとこう。
>「何か」と「何かの働き」について
「燃える火」の喩えで考えてみよう。
可燃物が一定以上の激しさで酸化する化学的過程、なんていう理屈は抜きで。
俺たち人間っていう現象は、燃える炎に他ならない。
あらゆる生き物も、石ころも、宇宙そのものも、「何か」が「働き」を為してるんじゃなくて、働きそのものとそれらの相互作用の関係の総体なんだとしたら。
そう考えれば、その「何か」/(主体)/(It)、なんて不要じゃないか?_
って言いたかったんだ。
この誤謬が、必然的に一神教的な考えを生むし直線的時間概念/表象もそれに付随してくるものだと思う。
>こと「欲望」について
「車が欲しい。」っていう喩えは前にも言ったように限定がきつすぎて一般化するには不適だ。
「自由に移動したい。」「他者から尊重されたい。」etc、の複合的な欲望の表象じゃないか?
「孫悟空のきんとうん(みたいなもの)が欲しい。」って言い換えてもいい。
たしかにこれでもまだ「過去」の表象には依存してるけど、かなり違うだろ?
「同じ欲望をもった人間は同じ人間だ。」
と言っていいと思うんだ。
で、全く過去の表象に関わらない「欲望」の具体例、として宮本さんが挙げたもののうち、「一切全て以外の何か、を欲する欲望」については、その「一切全て以外」という文言にすでに「過去」が忍び込んでいるし、「進化したい、という欲望」に関してもそれは同断(進化というのは常に「過去」に対する進化でしかない)。そもそも「進化」なんてものを宮本さんは持ち出す資格があるのか、ということで、どっちも却下、だね。
ヒトが生きるという現象。
馬から落ちて落馬するという現象。
プラトンはやしさんならこのどれも「何かとその働き」に分解できるんだろけど、俺にはできないんだ。
「燃えない火」「生きないヒト」「・・・」
どれも思い浮かべることさえできない。
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