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最近、いわゆる「現代思想」と呼ばれる書き物も分からなくなってきた。
以前はそれなりに「分かり」もし、あまつさえ楽しんで読んでいたものが、あらためて読み返してみると「何のことやら」だったり、「分かる」にしてもそれは、ごく単純なことを面妖に言い換えているだけなのに気づいて鼻白んだり、何にせよ楽しめない。
たとえば、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の劈頭。
それは至るところで作動している、あるときは絶え間なく、あるときは間歇的に。それは息をし、それは熱を発し、それは食べる。それは糞をひり、それはヤる。だが今しがた、それを一纏めに確定的なものとして「それ」として言ったことは何たる過ちか。至るところでそれは複数の機械である。それも、比喩的な意味ではなく。それは機械から成る機械であり、機械同士互いにカップリングされ結び付けられている。器官機械は源泉機械につながれている。一方は流れを作り出し、もう一方は流れを分断する。胸は乳を作り出す機械であり、口はそれにカップリングされる機械である。拒食症の口は、食べる機械か、肛門機械か、喋る機械か、息をする機械か(その場合、喘息の発作が起きる)、どの機械にしようか決めかねているのだ。このように、すべては雑多な掻き集めの結果であり、そのそれぞれがそれぞれの小さな機械を伴っている。器官機械にはエネルギー機械が繋がれ、そこではつねに流れと、そしてその流れの分断とがある。シュレーバーは尻に太陽光線を持っている。まさに太陽肛門。そして、それがちゃんと動くことは請け合い。シュレーバーは何事かを感じ、何事かを作り出し、そしてそれから理論をこさえる。何事かが自らを作り出す、機械の結果/効果として、比喩的にではなく。
全部で500ページぐらいある本の、最初の少しだけでああだこうだ言うのは全くもってフェアじゃないけど、でも「他に書き出しようはなかったのか?」と思ってしまう。たしかに、フロイトもシュレーバーも、そしてバタイユも読んでいれば、ここに書いてあることは(そのそれぞれのフレームワークに則れば)それほど分かりにくいことではない。むしろ「平易」と言ってもいい。ただ、フロイトもシュレーバーもバタイユも、「知らない」とまでは言わねども、それほどその内容まで把握していないという人の目に、この文章はどう映るのだろう? たとえば、原文ではça となっている「それ」とはフロイトの言う「エス」のことで、それは簡単に言うと「欲望の貯蔵庫」のようなものであると分からなければ、「欲望する機械」と言われてもそれこそ「何のことやら」なのではないか?
なるほど、そうしたことどもを知らない方が悪いと強弁することもできようし、ときとしておれもそうした「知らない方が悪い」という考えに与することもある。だが、それにしても、ここで言わんとされていることは、本当にそうした道具立てがなければ言い得ないことなのか?
もちろん、ある一つのことを言うにしても色々な言い方があり、この『アンチ・オイディプス』の書き出しにしても立派に一つの「言い方」ではあり、しかもそれなりに感心させられる書きっぷりであるとも思うのだけれど、同時に、何か「秘密の目配せ」めいたものも感じ取ってしまい、それがきもちわるい。
だから、タイトルでは「分からない」と言ったけど、もう少しつめて言えば、「『分かろう』とする気持ち」が薄くなったということであり、さらには「『分かってしまう自分』への嫌悪」を感じるようになってしまったということでもある。「嫌悪」まで感じることはないじゃないか、とも思うのだけれど、公にされている(ということはつまり、原理的には誰にでもアクセス可能なものとして差し出されている)ものに「な、わかるだろ?」という沈黙の語りかけがあり、さらには自分がそれに応えられてしまうことがやはり我慢ならない。
とはいえ、じゃあ、きれいさっぱりこういうものを読むのは止めるか、と言われると、返答に窮しちゃったりするんだけど。
悪意的に解釈すれば、そもそも平易に表現しようと思えばいくらでも表現しようがあるのに、わざわざ暗喩やらパスティーシュやらで難解に書き綴る時点で、、、コードを持つ人たちだけで理解し合って(したつもりになって)ニヤニヤして特権的愉悦に浸る事こそがこうした文章の中心的価値なのではないかと思われてしまう訳で。
厳密性を追求しているというよりは、自分たちの世界に酔って書き流している風にしか見えないですねえ。
ただ、わが身を翻ってみると、そういう「仲間内への目配せ的な書き物」を批判できる権利があるのか、という思いもする。もちろん、誰だって「どこか」からしか言葉を発することはできないわけで、「誰にでも通じる普遍言語」なんてものはありはしないのだけれど、そういう前提条件を考慮に入れても、おれの言葉はまだまだ「妥当に求めうるユニヴァーサリティ」には程遠いなあ、と嗟嘆。
「器官なき身体」って、当時はこれなんじゃ?の世界でしたが、時代は、AO、MPに追いついたのか、今となっては、特段違和感のないタームというか概念です。
って、ことで、はやしさん、大目に見てあげてはどうですか。
むしろ、このスタイルを未だに真似している人がいて、そういう人は、もう時代遅れというか、かなりダサイ。
しかし、今回のエントリー読ませてもらって、はやしさんは、あくまでも、ドゥルーズを厳密な哲学書として読んだ人なんだなと思いました。
私は、ええかげん にしか読んでないですね。(笑)
ただ、原作たそがれ清兵衛さんの言ってることは概ね正鵠を射ていて、当時の状況を勘案すると、「学問の解放」というか、「世俗化」が「作動」していたことは間違いなく、それにはいい面とわるい面がともにあると思うんですが、こと日本への輸入事情を考えると、あんまりいいエフェクトはなかったのではないか、と思えます(具体的に言うとちょっと差障りがあるんで詳らかにはしませんが)。
それにしても、原作たそがれ清兵衛さんがこの時期のDGを擁護する側に回るなんて、どういう風の吹き回しですか?
結局、フランス哲学の文学的なのは、哲学に厳密さを要求するという点で評価すれば、そりゃ、即却下以外に評価はありえないと思いますが、しかし、悪く言えば哲学の大衆化、良く言えば哲学の普及に役にたったのは事実だと思います。
しかし、哲学とは、そもそも、大衆のいない、象牙の塔の中のみで議論されるべきものなのでしょうか。ちょっと、レトリカルかもしれませんが、大衆の目に哲学がさらされ、それに泥酔した大衆を生んだ罪の一方で、また、哲学が大衆からの批判の矢面に立ったという功績は大きいと思います。
カント、ヘーゲル、マルクスをろくに読んでいない私には、確かに、哲学研究家としての立場からなら、それなりに読んだニーチェとドゥルーズについても、何も言う資格はありません。
だいたい、先輩格の哲学書を読んでいないと、その後輩の哲学書って理解できないというのが一般的認識だと思うのですが、「哲学」「形而上学」といった、堅苦しさを取りのぞいて「思考って何?」「自由な思考って何?」って、ちょっと問いの立て方を変えただけで、大衆に(ニーチェや)ドゥルーズの「哲学」は役に立つようになったと思います。
どうせ、哲学は、科学にテリトリーを押されっぱなしで、どうしようもないのですから、多少文学化してでも、「思考って何?」「自由な思考って何?」って、問いの立て方を変えてみるのもいいと思います。
少なくとも、(ニーチェや)ドゥルーズが、その辺のすり替えをやったおかげで、哲学は、50年や、100年は延命したんじゃないですか。
私は、(ニーチェや)ドゥルーズの官能的ともいえる文体、大好きですよ、本当のエロオヤジは、「フランス書院文庫」なんかでは、官能をなーーんも感じませんからね。(笑)
フランス哲学、特に、ドゥルーズが産み落としたものとは、「哲学」というもののテリトリーを変形して、科学が発達した時代にも、悪く言えば哲学の生き残りを図った、よく言えば、哲学の役割を(明確に?)定義しなおしたことだと思います。
確かに、AO MPから始まったドゥルーズの造語つくりには目に余るものを感じますよ。そこが、私がいだく違和感の大きな原因の一つであることは間違いないのですがね。(笑)
それでは、「哲学はずっと象牙の塔に籠っていればいいのだ」と考えているかというと、別にそんなことはなく、いわゆる「大衆」のなかにも趣味的に数学を楽しんでいる人がいるように、象牙の塔の外でもみんな哲学を楽しめばいいのです。別段「生き残りを賭ける」とか、そういう大仰なことは気にしなくてもいいじゃないですか。だいたい、「大衆」は「哲学」が潰え去ったところで、何の痛痒も感じませんよ。
あと、「哲学の生き残り」の戦略として、原作たそがれ清兵衛さんの言うような「野放図な問いの設定」が、果たしていいことかどうか、ちょっと分かりません。結果的に「哲学」の価値凋落を加速することになる場合もあるんじゃないか、とも思います。
じゃ、非フランスの本流みたいな、カント、ヘーゲル、マルクスみたいなところをみても、だいだいが、大量殺戮に協力しただけで、そんなに人に有益なものだったのかと、素人ながら思いますよ。
思いっきり「自明」と思い込んでいるこをと、疑ってかかる癖は、哲学書よんでりゃ、つきますが、今時、それ以上の効用ってあるんですかね。
だいだい、哲学って、「社会を良くする」のに、こんなに役に立たないものはないし。
(量子コンピュータと人工知能の融合・・・これは、絶対に役にたちますから、是非是非お願いします。!「俺は、役に立つもののために研究するんじゃないよ!」ってな野暮な突っ込みは無しね。w)
「別の仲良しサークル」についてですが、浅田、中沢、栗本・・・この辺りを見ていたらだれが見ても、そう感じますよね。また、日本の哲学の世界が、ほとんど輸入品の陳列をしているだけで、また、それも、「文学作品」の陳列に成り果てているのは、吉本、蓮実、柄谷という、いわゆる大御所が、そもそも文芸評論家だってところをみても、明明白白だと 思います。
でも、「別の仲良しサークル」と「フランス哲学」は、確かにそれなりの関連はあるものですが、本来は別物なのだし、日本の個人が、個人、個人で「フランス哲学」を直にあたって、それで、読解したらそれでいいのだと思います。
もっと、端的にいうと、浅田、中沢、栗本、吉本、蓮実、柄谷・・・は、無視して読まないでおく。どうせ、良くて2番煎じしか書いてないのだし、そうしたら、「別の仲良しサークル」に引っ張り込まれずに済みますからね。
てなことで、最近は、日本人の書いたフランス物に、一切興味なしの私でありました。
ドゥルーズが、私に残してくれた最大の功績は、「哲学は使っていくらのものである。哲学は、個人が個人が使うためにある」ってことを、教えてくれたことです。決して、ヘンな「仲良しサークル」に属することなく。アナーキーに。
それから、ドゥルーズは、やはり、ちょっと他のフランス哲学とは違うなと思います。この人ほど、個人にのみといっていいほど、関心を集中させた哲学者もめずらしいと 思います。
結局、私が、それなりに、評価に値すると思っているのは、ドゥルーズだけなのですよ。(笑)
(それも、前期のね。)
他のフランス哲学は、さておき、ドゥルーズが文学的なのがどこがいけないのか。もっと分かりやすく端的に書いたらよいのではないか? 確かにその通りだと思います。
しかし、差異と反復なんて、あれは、それなりに文学的であるとともに、厳密な哲学書だと思います。差異と反復、これは、ある程度文学性がないと、つまり、従来の哲学書の形式では、表現のしようがない内容だったのではないかと思います。まあ、文学を排除して書き切れたら、それにこしたことはないとは思いますが。文学的すぎで、「逆さま解釈」の余地まで残したニーチェの轍を踏まないように。
ブルバギの話でなぜか不思議と思い出したのが、スピノザの「エチカ」。
この本を見て、ヘーゲルが「こいつは気が狂っているに違いない」と言ったとか言わなかったとか。
内容はともかく、その「証明」という形式をさしてだったと思います。
「エチカ」なんですが、訳が悪いのか?、理解しづらくて読みきれていないので、偉そうなことは言えないのですが、あの形式って、哲学書として、アウトなんでしょうか?
あれが、セーフなら、「ある程度なら」「文学性」ってのも、哲学書においてもセーフな気がします。
勿論、「文学性」どうのこうの話をのけて、「1」で語れることを回りくどく「10」も書かないと語れないのは、書いている本人がアホである証明ですが(例として、私のカキコを見れば、だれが見ても、こいつは、アホであると分かってしまう)、まあ、そういう意味で、周りくどさを良しとしないのは、哲学に限らず、すべての記述について言えることだと思います。(勿論、あまり、端折すぎて読み手にわからないというのも、問題ありですがね。w)
回りくどくて、逆にわかりづらいフランス哲学。確かに、その通りだと思うのですが、じゃ、逆に、文学性を一切排除して、それでフランス哲学(特に、ドゥルーズ)の意味するものが崩壊しないかというと、そうでもないと思うのです。
そこが、数学物理のごにょごにょとは、少し異なると、思います。
まあ、数学物理のごにょごにょも、文学といえば、文学の世界なので、こっちの文学性は排除すべきだと思いますが。
さて、ここからは各論、というか、疑義を呈したいと思うのですが、まず、『エチカ』のような哲学書の書き方、つまり、ある公理系を設定して、そこからの演繹で理論体系を構築していくというやりかたは、ちゃんとそれが体をなしていればヨユーでありです(ただ、こと『エチカ』に限って言えば、あれは「擬似公理形式」であって、そういうものとして「ちゃんと体をなしている」とは言いがたいと思います)。しかしなぜ、そういう「公理的手法による哲学書」を認めるのなら「文学的哲学書」をも認めねばならないのか、さっぱり合点がいきません。公理的手法が認められるのはあくまで、一般的にそれが謬見を排除するのに役立ち、思考の襞をそれなりに漏れなくなぞれるからです。もちろん、こういう意味で「文学的」な書き方も、そうした効能を発揮する手立てとなれば何の文句はないのですが、私見ではむしろ、そうした方向とは逆の働きを「文学的」な書き方はしてしまっているように思えます。「公理的な書き方を認めるのなら、文学的な書き方をも認めろ」というのは、それこそ「悪しきポモ」に見られるような「テクスト一元論」の発露なのではないでしょうか。
つぎに、「文学性を一切排除して、それでフランス哲学(特に、ドゥルーズ)の意味するものが崩壊しないかというと、そうでもないと思う」という論点ですが、ぼくは「崩壊しない」と思います。ただ、ここいら辺は「文学性」ということで何を意味しているか、ということに依然すること大なので、まずは原作たそがれ清兵衛さんの言う「文学性」を伺ってからにしたい、と思います。ちなみに、ぼくが「文学性」というとき、そこから受ける語感の最狭義のそれを想定しています。と、こういう言い方も分かりにくいですが……。
はやしさんの訳の「ベルクソンの哲学」を読んで思いました。(・・・見たことない人に注釈です。訳者よりはるかにはやしさんのほうが訳が上手いです。)これだけ、厳密に読みきれているんだ、凄いなあと。私は「自分の感覚的な世界」ですら、もし「文学書性」を排除したらドゥルーズの著書がどうなるか、想像のかけらすらもつきません。そもそもが、ちゃんと読めてないのですから、それも、仕方のないことだと自分であきらめています。そもそも、「文学性」の問題自体論じる資格がないと思っています。
まあ、それはともかくとして、たしかに原作たそがれ清兵衛さんはドゥルーズの各著作を、「文学書」としてはともかく「思想書」として、少なくとも「哲学書」としてではなく読んできた、とはよく言ってますよね。ここでまた、よくよく考えると、「じゃあ、『哲学書』と『思想書』はどう違うのよ?」ってことにもなりますが、それもおいておけば、とりあえず「なるほど」とは思います。もっとも、原作たそがれ清兵衛さんの言に反して、ぼくだってそれほどドゥルーズの著作を厳密に読み込んでいる訳ではありません。というか、何であれ、あんまり厳密に読み込んだ本自体なかったりするんですが。まあ、裏側から言えば、それほど厳密な読解を要するような本はない、ってことかな。んなことないか。
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