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ここんとこの流れから言って、ご本尊を読み返すことになるのは必当然的というものだろう。
思い返せば、おれがマルクスの、それも『資本論』を曲がりなりにも「読んだ」と言えるのは、かなり昔のことだ。しかも、その「読んだ」というのも、それ自体を読みたくて読んだ、というよりも、他に読みたいものがあって、その中でマルクスが重要な参照項として現れているから、という理由からだった。だから、今もってなお、きちんとマルクスを読んだことなどないと言える。
そういうわけで、繰り返しになるが、ここのところのおれのアナリティカル・マルクシズムへの興味関心におっかぶさるかたちで、またしても「それそのものとして読む」ということにはならないかもしれないが、「テクストそのものを、その全体を、四巻丸ごと、一行一行読む」ということを、それほど気負わずに、でもそれなりの覚悟をもって為したいと思う。
それで、「じゃあ、どのエディションで読むよ?」という話になるのだけれど、とりあえず日本語版は除外。だって、あまりにも百花繚乱過ぎて、その選択だけで疲れちゃいそう。それに、おれの場合、各翻訳を読み比べ、とかしちゃいそうだし。だから、基本的にこの英語訳を軸に、原版ドイツ語およびフランス語訳を横目でちらちら、という運行になると思う(それはそうと、英語訳がおいてあるwww.marxist.orgのクロスリンガルテクストアーカイヴはかなりものすごい。アラビア語版とかも公開してるんだ……)。
というわけで、マルクス読みではかなりの研鑽を積んでいると思しき人もこのブログ回りにはいらっしゃるわけで、よろしくご指導のほど賜りたいと思う所存で御座居候。
してみれば、マルクスの方法にならう為には、マルクスが批判の対象とした資本主義的生産や資本主義社会の総体が変化した限りにおいて、彼の理論から離れなければならないという事になる。端的にいえば、マルクスの志を継ぎ、その歩みに習おうとするなら、現実にマルクスを超えて歩まなければならないという事だ。そしてまた、マルクスの方法を基礎にして、私たちが現在置かれた状況に適した新しい理論装置を開発しなければならない。私たちに必要なのは、1857年から今日までの変化を考慮し、マルクスの方法を更新する事の出来る、あらたな「序説」を書くことである。だが不思議なことに ― これから明らかにしていくとおり ― 、どんなにマルクスを超えてその先を歩きはじめたと思っても、そこには既にマルクスが待ち構えていたのではないかという思いが私たちの頭から離れないのだ。
【補説1】方法 ― 非物質的生産をどうとらえるか p234より
って、はやしさん、これって、まさか 宮本さんのこと?????
これ、笑えるなあ、宮本さんが、そう解釈したなら。
だから、宮本さんは、お笑い系なの。
全く自覚がないみたいでけど。
そんで、ネグリは別にいいんだけど、
>「『無意識』を扱う技法ってものが、我々の世界を、世界を扱うそのやり方と可能性を拡げてくれた」って宮本さん言ってるけど、ちょっと具体的な事例を挙げてみてよ。
この答え、はやしさんも、私も先に聞きたいのですけどね。
お待ちしてますよ。
無意識、そしてフロイトについては、宮本さんが何を言おうと、ぼくの考えを覆すに足る何かが言われるとは到底考えられないので、ぼくはもう、このことはどーだっていいです。そもそも、宮本さんはフロイト、および彼が言った「無意識」についてあまり詳しくない、というか、全然知らないのではないか、とぼくは思っています。
ただ、はやしさんやたそがれさんの仰る「総合失調症は国や時代を問わず一定の割合で現れる」というのはその通りというかゲノムに刻まれた情報であるというのを承前としても、出来事としてある人が発病したり発病しなかったりする、それは何故かというのは残ると思います。これは個人史的な思い入れ強いですが。
ゲノムから見た人間と病気
<a href="http
まぁ、そこをフロイト派の生き残りをかけた最後の聖地にしようというわけじゃありません(笑)が、科学的に解明され[るべき/うる]のかについてはホントのところ判りません。正直言うとすこし否定的ですけど、はやしさんはどう考えられているか聞いてみたくて出てきました。(聞くまでもない?)
無理くりエントリに引っ掛けると日本における『資本論』受容において資本論第1巻冒頭の商品が単純商品か資本制生産過程における商品かという河上肇、櫛田民蔵以来の萎え萎えな論争があるんですが、(エンゲルスの「心ない加筆」が原因という説もあります)要は論理的なものと歴史的なものとの関係、ヘーゲルでいけば円環と螺旋、前者が歴史的なものをどう括りこんでいくのかじゃないかと思います。(宇野弘蔵は端的に「不可能!却下!」ですから「三段階論」になるんですが)アナロギカルに言えばフロイトやラカンでとっぱじめに引っかかるのが彼らの言ってる「主体」とか「自我」です、個人的には。フロイト自身はマルクス大嫌いだし社会的、歴史的な文脈での解釈は拒否して来た様に思えるんですが、(ライヒみたいのは即「破門!」だし)宮本さんが書いている『モーゼと一神教』で大ブレークしちゃったんでホントのとこはよく判らないんですが。
宮本さん?(じゃなかったら...ごめんなさいじゃないな、やっぱり)かな。何のコメントもなく「どうだ、まいったか」みたいにコピペされてもどーいう文脈かさっぱり判りません。ネグリが言ってることはご無理ごもっともですが、「理論は現実を正しく反映したものでないといかーん」って話なら出典はすぐでませんが、おんなじ事は同志スターリンも言ってますって話も含めて「読書会」に移動しませんか。
今、ここらのコメント欄を眺めてて、たそがれはやしバルタンさんのどなたにまずレスすべきか、なんて考えてたとこです。
「読書会」への移動。文句ありません。
ってかずっと待ってたですよ、うん。
どんな椅子に座ると「痔」になるか、確かに、そりゃ、硬い椅子に決まっていますが、同じ硬い椅子に座っても、痔になる人もいれば、ならない人もいます。
ある人が「痔」になった理由を考えると、弁証法的な発想では、人のお尻 と 人のお尻にやさしくない硬い椅子 ってのが、がっちゃんこして、「痔」になるってところなのでしょうが、これこそ、後講釈の最たるもの。
ある人が「痔」になることだって、社会的ストレスも影響しているはず。
ハチントン舞踏病、これなんか、恐ろしくて、どういうゲノムのパタンを持っていたら発症するかが、もう特定されていて、それで、そのパタンを持っていて、ある年齢を向かえると 確か100%発症します。(ちょっと記憶があやふやですが。)
周りにどういう人や社会があるかは、発症するしないに確かに多少は影響するかもしれません。
それの影響とは、「痔」には、硬い椅子にいつも座っている人がなりやすいといっているのと何ら変わりありません。ほとんど、偶然のことに意味や理由を見出してします。
これは、人のもつ思考の弱さであり、「神」を生み出し、崇める発想と何ら変わりない。
社会と 個人の発症の関係を論じたがる人は、どんな社会で、器質的問題がある人が発症する/しない ではなく、
どんな人や社会があっても、発症しない器質をもつ人がいる という事実にこそ着目すべきでしょう。
非常に面白いのは、なぜ精神科の病気だけ「社会」がどうのと言われて、内科や外科の病気はほとんどそう言われないのか。
これは、もう、すでに、差別的発想でものを見ているわけです。私が、はやしさんから、よく注意を受ける男性/女性 の雑な使い方なんて、これに比べれば、まだかわいいものです。
明らかに、精神科/精神科以外 って発想は、まさに、病気の質として、精神科を、精神科以外の上のランクに位置づけているわけです。
「痔」が、椅子と密接に関係あるのに、どうして、「精神病」と椅子と関係づけて論じようとしないのか私には不思議です。
実際、椅子の硬さや座り方で、精神は安らぎも緊張もします。
逆に、「精神科」の患者と、犯罪者の関係は論じられても、「痔」の患者と、犯罪者の関係は論じられないのか極めて不思議です。
理由をずばり言うと、「精神」を「肉体」の上のレベルととらえる、観念論的発想が根ざしているからなんです。なんら普通の病気と変わりない「吉」患者には迷惑極まりないものです。
私は、もし、すべての人が、「痔」と社会を真摯に論ずるなら、「精神病」と社会を論じるなとはいいません。
それの態度は、「痔」と「精神病」を同じ、人が患う「病気」という土俵を設定しているからです。
フロイトは、支持されるべくして支持されています。
精神>肉体 ととらえる 観念論者によって。
むしろ、論じるべきは、精神病は器質的問題が原因であるから、どんどん、その発症するゲノムが解析されてくると、発症する前から、発症する確率が高い、あるいは、確実に発症すると分かるわけですから、これこそ、差別の根源になりかねない。
どうせ「社会と精神病」を論じるなら、「ゲノムの解析と差別をどうするか」というテーマでお願いしたいものです。
ね、宮本さん。
……と、まあ、ご本尊、およびその末裔(とくにラカン)は、それなりに老獪と言うか、これはラカンに顕著なのですが、こちらの突っ込みどころを先回りして防御壁を作ってあったりする。それは、「知的遊戯」としてはすこぶる面白いものです(しかも性質の悪いことに、ラカンにはecrivantとしての才が相当ある)。ただ、やはり、彼らがもっぱらにしていた/いるものは「医療実践」なのですから、あくまであれやこれやの評価は、そうした実践の相において下されるべきでしょう。ゆえに、「フロイトとその仲間たち」へのぼくの評価は斯様なものとなるわけです。
さてそれで、「ゲノムと病気」ですが、現にこうして「解明」され、そしてそのことが役立つ可能性も秘めている以上、もっと先に進む「べき」だし、じじつ進むだろう、と思います。ただそうは言っても、「ゲノムと病気」というフェノタイプとジェノタイプの対応は、それほど固定的ではなかったりするので、「必ず」ということは言えないでしょう(大体において、「必ず」ということを主張できるということは、「科学」の名のもとではそれほどありません)。
マルクスがらみのことについては、逆にこちらが不案内なので教えを請わなければなりませんが、論理的/純理論的/原理的なものと歴史的なものの関係というのは、多分に排反的です。そして、何かに「歴史的なもの」をからめて語るとき、それは「理論的」ではなく「規範的」なものとして現れるように思います。マルクスで言えば、理論部分が『資本論』の分析、規範部分が唯物史観、といった感じかな、とは思うのですが、これらの間の照応関係というのが、ぼくにはよく分かりません。何となく、「正統派マルクシスト」たちは、原理的なことから唯物史観が導き出され……みたいな感じのことを言っている印象がありますが……どうなんでしょう?
あと、ちょっと付け足しっぽくなりますが、フロイトやラカンの「主体」や「自我」が、何とどのようにアナロジカルな関係に立っているのか、分かりませんでした。
当然、私の立場は、ゲノムの解析、どんどんやれーー!です。
精神病に限らず、この分野から、画期的新薬が出てくる可能性は非常に高い。
>どうせ「社会と精神病」を論じるなら、「ゲノムの解析と差別をどうするか」というテーマでお願いしたいものです。
の意は
どうせ「社会と精神病」みたいなくだらない思弁的思考をするなら、「ゲノムの解析と差別をどうするか」というまだしも、具体性があるテーマでやったほうがいいよ
てことです。
科学の功罪のとらえ方については、iosif(仮)さんや、はやしさんと私は考えを一にしていると思います。
で、ぼくも「ゲノム解析と差別」って問題はけっこう考えはするんですが……難しいですね、「あちらを立てればこちらが立たず」という感じで。
ただ人間はその見も蓋もない出来事を解釈格子を通して病気に[なる/ならない]を運が[良い/悪い]と受容するわけで、そしてその「運」というやつはしばしば「おこない」と結びつく。カラタニさん的に言えば『意味という病』にとりつかれているからでしょう、トロツキーが書いていましたが航空力学を熟知したパイロットも操縦席で十字を切る事をやめない、斯く言う私も日常では意味もなく「ラッキー!」とか言ってるわけでして。
私事で恐縮ですが、オトヤンが癌が再発していよいよとなったとき、オカヤンは「何も悪いこともしないで真面目に働いてきたのに」と嘆くわけです。私は情というのが結構薄い人間だと思っているんですが、さすがに「真面目、不真面目は病気と関係ないのでは?」と突っ込めない。それに比べ当時高校生?だった妹が「病院に来る途中、お父さんと同じ年恰好の酔っ払いのホームレスがいた。あんな下らない人間がのうのうと生きていて、なぜお父さんが死ななければいけないのか」と言って泣くわけです。ちょっとというか驚愕しました、身内が言うのもなんだけど妹は極普通というか気の弱いほうだと思います。
ですからそーいうところにつけ込む「宗教まがい」や細木なんちゃらとかいうクソババアが絶えないわけで、それに比べたらフロイトなんか金持ちしか相手にしてないし、インテリのおもちゃですから可愛いものじゃないか...ってすいません。
真面目に行くと既に精神医学界のフロイト派って壊滅というか「死んだ犬」だと思います、なだいなだ、木村敏、渡辺哲夫...岸田センセは臨床医どころか「何屋」だか判らんので問題外。木村敏はゲシュタルト心理学やビンズワンガー経由でハイデガーに行っちゃったし、『モーゼと一神教』の訳者渡辺哲夫は「20世紀の精神病理学は完全に失敗した」と言ってまし。まぁ、これはお耳汚しな凄く下司な話ですけどフロイト派精神分析って「代理宗教」的なところがあってご本尊も確信犯的なところがある様な気がします。
と、すると単にフロイトをやっつけただけでは根が枯れない、事実未だに少年事件で「心の闇」とかわけわからん事をのたまう精神科医がいるわけですし。カラタニ=カント的に言えば「啓蒙で宗教は消せない」「宗教批判は現実批判へと向かわなければならない」んじゃないかと思ってます。
「ゲノムと差別」っていうのは非常に切迫した問題で、妊娠の極初期の段階でその子がどういう疾患(障碍)をもち何歳くらいで発病するかわかってしまう、「ご両親の意志次第」ってのは聞こえは良いですが、夫婦を取り巻く社会的環境は全部捨象されてしまう。
文脈は違いますが、京都の塾で女の子が講師に殺された事件で、塾の講師なんか大体契約なんですが更新時に総合失調症での通院歴の有無や診断書の確認を求めるという動きが出てきてます。現に通院中の人で「もしわかったらパニックになる」って黙って辞表をだしたり、「保健証を使うと学校にばれる」って自費で通院している小学校の先生もいるようです。
「科学の功罪」って話はスレ読んでいないのでなんですが、問題構成自体が違っている様な気がします。別に科学が価値中立だという話じゃなくて、何もかも科学で[やらせようとする/やろうとする]というのがそもそも極めて非科学的で、科学者だって「ホントはこういう懸念があるけど、それを言っちゃうと予算がつかない、つぶされちゃう」って実に政治的に動いているわけであんまり科学的じゃない。私はむしろ徹底的に科学的にやったほうが良いと思います。そーいう意味でスーザン・ソンタグの『隠喩としての病い』ではありませんが「病気に対処するには−−最も健康に病気になるには−−隠喩がらみの病気観を一掃すること」に異存はありません。
「論理的なものと歴史的なものが相反する。」っていうのは石飛さんの主張である「西洋論理学は時間をあつかえない。」を思いださせる…。
で、統合失調じゃなかったかな?(V)oo(V)さん。
今夜は戻ります。
「科学の功罪」に関しては、それが為された当該のやり取りにおいてぼくは大体バルタンさんと同じ立ち位置であり、「何だってそんなこと、現場の科学者がいちいち責任を負わにゃならんの? もち、それなりに考えるべきこと、ってのは同意するけどさ」という感じです。そして、たぶん「言わずもがな」なことでしょうが、現場の科学者は基本的に(この「基本的に」という言い方の「ずるさ」は重々承知しています)「いっちゃえやっちゃえ!」で構わない、というか、そうあるべきだ、と思います。
で、も一つ指摘しておくと、おれが「排反的」と言っているのは、論理的なものと歴史的なもの、だよ。論理と時間、では決してない。ま、この、「排反的」って言い方も、ちょっと問題あり、なんだけどね。
思い出しながら書いてますのでかなり怪しいですが、宇野の言葉を借りると理論(体系)が完結するという事はそれ自体を否定するものを含まない、つまりその生成、消滅は歴史として論理の外部になる、当たり前ですが一回限りの現象では理論にならないわけで、外の力に支えられる事無く自律的に過程を反復するいわば終わりと始めが重なった円環構造になっていなければならない、つまり「『資本論』=原理論で証明できるのは恐慌の可能性までであって、そこから戦争とか革命の必然性は説けないんだ」ということだと思います。
個人的には所謂唯物史観はあんまり信じていないのですが、「生産力と生産関係」といっても「商品経済が社会を全面的に貫徹(包摂)する」歴史段階において初めて言える話で、それ以前の経済外的強制(例えば浪費癖の王妃の為に「殿御乱心」で税金倍とか)が強く作用する社会では論理的に成立するのは極めて困難じゃないでしょうか。「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」のであってその逆はない、唯物史観が万古不変の真理だとするとカウツキーの様にエンゲルスの『自然弁証法』を戯画化して「アメーバーが人間になり最後は共産主義」っていうトンデモない卑属な「科学主義」になりかねないと思います。宇野的に言えば唯物史観自体が歴史的規定性を刻印されたイデオロギーである、ということは論理的に証明不能だという事で「実践」にその真偽を委ねるしかない、やっぱりポパーが「ムキー」になるのはさもありなんと思います。
あと解釈格子の件ですが、ご指摘の様に「人間」というのは言いすぎで「往々にして〜する事がある」ぐらいの意に訂正します。
さらに余談ですがシャリ=アティについては柄谷がどこかで書いていましたが、ペルシャ共産党はロシア共産党より成立が早い様なので『資本論』のペルシャ語版というのはアリだと思います。
それで、理論と歴史、というか、そのからみに関しては、ちゃんと論じ始めるとなるとかったるいことになっちゃいそうなんで、さらっとコメントすると、「完成した理論」なんてものがそもそもイデアルなんですよね。確かに、理論と言うものは、「完成」という閾値を極限とする漸近曲線を描くのかもしれませんが、それはあくまで「極値」であって、その極値自体を取ることはないと思います……って、何かヘンに歯切れ悪く、かつまたミョーに思弁的な物言いになっちゃいますが、ま、そゆことです。何にせよ、「必然」は何についてであれ説けないでしょうね。
ぼくは、唯物史観に限らず「史観」一般を信じていないのですが、まあ、この手のものには(マルクスやその精神的末裔たちにははなはだ申し訳ないですが)ゾルレン的なものがどうしても入り込み、どう転んでも「科学」にはなり得ないでしょう。「かくあるべし」はある種の中断点、デリダ風に言えば、「決定できぬことの決定」、つまり「決断」のモメントを不可避的に有してしまうのです。
ペルシア語の『資本論』もオツなんですが、タイ語の『共産党宣言』もまた……このアーカイヴを駆使して貧弱な言語能力を涵養できないか、と邪なことを考えていますが……って、レスになってないですね。すいません。
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江●淳、この人は右の権現の筆頭格で、「感性的文章」で、バカをアジらせると右に出る人はいなかった。
この人が死んだら、NHKの昼のトップニュース、しかも、葬儀には当時の小渕首相はじめ自民党のセンセイ方がぞろぞろご参列。
(血縁的に 小沢征●や、ま●こ妃殿●にも極めて近い親戚。まさに、日本にエスタブリッシュメントの中心に位置した人。
ちなみに、小沢征●の甥である、オザケンが、昔々TVで、「僕のお爺さんは、●翼の親玉で・・・」って言って、ダウンタウンが横でこけていたのは面白かったです。)
戦後左翼は「全く自覚がない、十分観念的な自称唯物論者」で、右の権現達は、そこを理解している「確信犯的な観念論者」です。
勝負は、当然、敵を理解しているものの勝ち、自分を理解していないものの負けです。
差別を論じる人は、精神>肉体って 観念論的発想はやめよう。
やめなければ、権力に奉仕するだけです。
ついでに、文章においてファジーで相手に分かりにくいをもって良しとするという発想には、「感性的なものを良し」としてしまう発想の臭いを感じてしまいます。
なにか、ちょっとだけ、江●淳の発想に通じるものを感じます。
ネグリとハートを読めば、ネグリとハート/ドゥルーズのコントラストを抽出することにより、ずっとはやしさんに私が言ってきた中期後期のドゥルーズに対する嫌疑が解けるかもと思ってきました。時間があれば、読んでみたいと思います。
>差別を論じる人は、精神>肉体って 観念論的発想はやめよう。
でなくて
>差別を論じる人は、精神>肉体って 観念論的発想は「忘れよう」。
です。
イデアールなもの、と言ってしまうと身も蓋もないというか「事実」というのは事実についてのステートメントの連言でしかないわけで。
話かわりますが宇野は自分で「社会主義者でも左翼でもない、リベラリストであるかも怪しい」って言ってますが、ただただ「『資本論』が読みてー」という理由だけで1920年代ドイツに自費留学している、まぁ、かなり奇矯な人です。(奥さんはドイツ系の人なので里帰りってのもありますが)当然「ルカッチ」やコルシェはリアルタイムで読んでいるけど、リッケルトやご本尊の『純理』を当時の一般教養以上に読み込んだ人です。(ヘーゲルに関してはマルクス経由だと思います。)
今でこそ「まぁ、そうだね」ってレベルの話でも、当時の日本の『資本論』受容は河上肇からして「経済的進化論」みたいな科学主義か「革命的実践なくして理論なし」みたいにイデアールなものとゾルレンを直結する政治的ロマン主義ですから(今でもそうか?)バックグラウンドが悪すぎ。宇野は「現場観察から理論が生まれるとは到底思えません」とか頑強に抵抗する、その言説が一瞬の光芒を放つわけです、ってほとんど思い入れですけど。
たそがれさん。
で、けいこディレクターが二人の対談を録音(よれたオヤジ達の動画はもう撮りたくないらしい…。)してフラッシュムービー(スライドショー?)に仕上げてもいいみたいな事を言ってたけど、どう?
やっぱり曽根崎署?、阪急東通りでもお初天神あたりでもよくない?
また、原作たそがれ清兵衛さんの中後期ドゥルーズに関する「嫌疑を解く」ために、ハート&ネグリを読む、というのはあまりおすすめできません。それなら、愚直にドゥルーズ(&ガタリ)の書き物を読み返したほうがいいと思います。
江藤淳にしても60年安保の時「若い日本の会」で大江健三郎と一緒の壇上で「安保反対」って言ってたわけですし、要はナベツネを筆頭にみんな元左翼です、だから、たそがれさんのおっしゃる「敵を知り尽くす」と言う意味では最強というか、おのれの身を振返れば良いわけですから。
日本における「右」のルーツはすがっちの言う自由民権運動の挫折というポスト・フェストウムから国権派が生れる、玄洋社(黒龍会)の頭山満、『ドクラマグラ』の夢野久作の父杉山茂丸って事になると思います。で、玄洋社=純正右翼の血を引く元武闘派右翼の鈴木邦男が言っているんですが、左翼は自分が間違ったと思ったら田舎に帰って一市民として静かに暮せば良い、しかし自分の「錯誤」を過剰に取り戻そうとして、頼みもしないのにご意見番、ご指南役としてしゃしゃり出るから困ったもんだ、という話です(笑)
本居宣長は...宣長と論争した上田秋成は大阪の懐徳堂という民間の学問所の同人(格)で、同人には富永仲基とか山片幡桃とかがいるんですが彼らは諸外国の文物を通じて世界ー>地球ー>宇宙って概念をすでに掴んでいる、いわゆる啓蒙主義です。宣長はロマン派的な啓蒙批判というかデリダ的な音声中心主義じゃないか...うーん自分で言ってても無理がある話なんでツッコミご容赦。
それで思い出したのですが小林秀雄は「右」か「左」か、どっちでも良いような気がしますけど。
<a href="http
ほんと、統合失調症と●●は、相性が悪いみたいだから、気をつけたほうがいいですよ。
まあ、包丁でブスって刺して、曽根崎警察の取調室の中でなんてなろうものなら洒落になりませんからね。(笑)
まあ、梅田花月の舞台にでも立たれるのなら、楽屋に花束くらいもっていきますよ。
はやしさん、保守思想は、結構系統的にも、論理面でも得体が知れないってところが恐ろしいというか、まあ、左翼思想のように、系列立てて論じにくいところが恐ろしいと思います。
まあ論客では、福田恒存が筆頭か?
ルーツを探れば、勿論、西田幾太郎、柳田国男とか、もっと 遡ると本居宣長とか、まあ、こんなこと当たり前で、はやしさんは勿論ご存知でしょう。釈迦に説法でしたか。w
勿論、戦後保守思想を支えた人の名前の列挙はできますが、それは、はやしさんのご指摘のように、戦前のルーツにあたる大御所と違い、どれもこれも感性的で論理的でない。
論理的でなく、また、系統だてて論じることが不可能ゆえに、ゾンビ的といえると思います。
ところで、はやしさん、難しい話をするより、一度
1−cosθ×cosθ は、さて、何でしょうか って、この手の質問をしてみたらどうですか?
ゾンビみたいな人には、結構そういうストレートな作戦が、功を奏すると思いますよ。
さて、ものすごく荒っぽく言ってしまえば、ぼくの理解している「右」「左」というのは、政治的アスペクトから見るとある「伝統」(たとえば、天皇制、家父長制、など)を、経済的なアスペクトから見ると市場を、それぞれどれくらい尊重するかによってスイッチングできるのかな、と思いますが、面白いことに、左右両陣営では政治的な側面・経済的な側面が、その形式に関してみるとちょうど逆の関係になっていることです。
ただ、ぼくが本当に分からないのは、あくまで形式的な面に着目した場合ですが、政治的な部分に関する限り、右も左もほとんど選ぶところがないのではないか、という点です。というのも、話を日本に限り、かつ「左=マルクシスム」「右=天皇制支持」という恒等式をとりあえず認めた上でのことですが(ここもほんとは問題含み、というか、疑問に思っているところであり、日本に話を限るにしても斯様な擬恒等式が成り立つものかどうか)、どちらも似たようなものではないですか。もちろん、それぞれが言うところの内実まで突っ込んで、「個人(労働者)の自由と権利」みたいなところに話を持ってくと、それはそれで左右の別が出来るのかもしれませんが、じゃあその場合の経済的側面での不整合はどうなるんだよ、という気もします。要は、いずれにせよ論理的に見ればアドホックであり、むしろいわゆる「右」と呼ばれる陣営の方が下手に「論理性」など主張していないがゆえに、逆説的に「論理的にも」整合しているのではないか、と思われるわけです。それに、北一輝なんて、ありゃ何なんだよ、とも思いますし(ま、これは特例か)。
宣長などの国学の流れは、まず第一によく知らないし(宣長自身のもので、まがりなりにも読んだことがあると言えるのは『たまかつま』や『鈴屋問答録』ぐらいのものであり、『古事記伝』は持ってはいますが、持っているだけ、です)、第二に知っているにしても子安さんの本を通してのものぐらいなのでバイアスかかりまくり、なので、コメントはできません。ただ、そういう流れの中において、形式/内容の両方から、どういう成分が「縦糸」として抽出されるのか、ちょっと気になるところではあります。
ほいで、1-cos^2 hitaって、おれが誰に聞くんですか?
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