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一昨日買った小泉義之『生殖の哲学』の「はじめに」に、おれがハート&ネグリに常々感じていた「ぬるさ」を糾合している文章を見つけた(本屋で立ち読みしたときには飛ばして読んでしまっていたのだ)。ここで言われるハート&ネグリ批判に全的に賛同というわけではないのだけれども、その概ねは首肯できるものである。ちょっと長くなるが、そのハート&ネグリ批判の部分を引いてみよう。
ハートとネグリは、帝国の権力を生-権力と捉えてはいる。生-権力とは、フーコーの『知への意志』によれば、生を奪い取る権力ではなく、生を産出する権力である。「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を運営・管理し、増大させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整を及ぼそうと企てる権力」である。そして、権力は力であり、力は権力である。だから、生命の力は生-権力になり、生-権力は生命の力になりうる。ところが、二人のいう生-権力は、行動主体の身体にだけ作用する権力、市民生活を支配する権力、フーコーのいう規律=訓練権力にすぎない。だから、二人の視野からは、すっぽりと肉体の次元が脱落する。
ハートとネグリは幾度となくリプロダクションなる用語を使う。ところが、それは商品生産や市民生活の再生産を意味するだけである。だから、二人の視野からは、すっぽりと生殖のことが脱落する。
ハートとネグリは、帝国に対抗する反帝国の担い手を描写する際に、バイオ関連の用語を繰り返し使う。「創造的進化」「変身」「交雑」「変異」などである。ところが、それらは単なる比喩でしかない。旧来の方針を、バイオ関連の用語で味付けするにすぎない。だから、二人の視野からは、すっぽりと生殖をめぐる闘争が脱落する。
おれがとくに、ハート&ネグリの言説について問題に思うのは、ここで引いたものの第三パラグラフで言われているところで、つまり、彼らはバイオ関連の用語を、ファッショナブルなものとしてレトリカルに「消費」しているだけ、というふうに見えてしまうのだ。もちろん、レトリック全般がダメだ、とは言うまい。そうではなく、ハート&ネグリの場合、本当に重要で、そして彼らの文脈上でも真摯に論を展開すべきものを、用語を引っ張ってきただけでそれについて何か言ったような感じを演出している、そういうところが問題なのだ。
とにかく、ハート&ネグリの書き物では、今言った生殖がらみバイオがらみのことにかぎらず、それが依拠していると思しきガタリ&ドゥルーズのコンセプトが「凡庸化」され「去勢」されているように思われる。それが、おれが感じるハート&ネグリの「ぬるさ」であり、それは下手をすればポピュリズムに結びつくものである、とも思うのだ。
「帝国に対抗する反帝国の担い手を描写」したことは一度も無い。これは小泉氏の勘違いだろう。
「反帝国」ってのは「帝国」に規定される受動的なありかたを想起させ、マルチチュードの能動的主体的なありかたとは相容れない。
生殖をめぐる闘争が必要なら俺たちでやろう。
それで、「生殖をめぐる闘争」ってのは、たぶん、おれと宮本さんでは考えてるものが違うだろうな。ま、これは言わずもがな、か。
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