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とりあえず「もっぱらな試験勉強」としての、専一的なCSがらみの読書から解放され、ここは一つ、全然CSとは関係のない、それどころか大きく自然科学とも関係のないものを読もう、と思って購ったフーコーのL'herméneutique du sujet (翻訳『主体の解釈学』)を、「読まずに語る」メソッドで語ってみる。



まず、表紙に眼をやる。そこには当然、著者名とタイトルが並んで書かれ、その下に、一回り小さな文字でCours au Collège de France, 1981-1982 との副題がある。裏表紙には内容について、ある一定量の記述があるが、いきなりそれを読むのはぐっと我慢して、あくまで表紙の情報だけから妄想を逞しくしよう。

『主体の解釈学L'herméneutique du sujet 』……まずもって、このタイトルからして芳醇な妄想を育んでくれる。とりあえずすぐ思うのは、「のde (du = de + le )」という語の働きについてだ。

日本語にはとりあえず「の」と専一的に訳されがちなde という前置詞は、行為の方向を表すと同時に、その行為主体も表すことがある(たとえば「母の愛l'amour de la mère 」と言えば、「母愛する(こと)」とも取れるし、「母愛する(こと)」とも取れる、という具合に)。然るに、「主体の解釈学」と言った場合、「主体を解釈(学)する」とも、「主体が解釈(学)する」とも取れる。

だが、これはほとんど「の」について思いを馳せるのと同時に想起されることなのだが、「解釈学herméneutique 」というものが本源的に持つ循環的性質、いわゆる「解釈学的循環」を考えれば、「主体の解釈学」と言われた場合、解釈するのもされるのも、両方とも「主体」ということは、まあ当たり前のことだ。

ただ、フーコーがこのような「真っ当な」路線で講義を突っ走る、とは到底思えない。そこで、今度注目すべきは副題にある「1981-1982」という、講義が行われた年号である。

言うまでもなく、この時期は著作で言うと『性の歴史』執筆時と重なる。ざっくりと想起すれば、『性の歴史』でフーコーが為した(為したかった)ことは、「自己」というものがいかに「近代的自我」というものに絡め取られ、それが「自己鍛錬」だの「自己規律」だのといった「内的権力」に仕立て上げられていくか、ということを、「近代以前」のギリシア=ローマ期から記述することだった。

そう考えると、「主体」を解釈する位置としては、単純に「二重化された主体」では不適格、というか、これではフーコーが退けようとしたものを逆に導入することになってしまう……ということは、それを解釈する位置として、「(近代的)主体の外dehors du sujet 」が要求されるのか? 外の思考……。



ということで、この時点での読書の方針としては、「解釈する主体」と「解釈される主体」の関係ということ、およびこの時期のフーコーの仕事との係わり合い、をまず念頭に置くべきだな、となるわけです。

気力と時間があれば、つづく、かも。

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オイラも読まずに参戦しましょう。10代後半から20代前半までの多感な時期にはインパクトのある表題なんだけど…。スジェ(=オイラ)が主体なのか主題なのか主語なのか?で哲学的分析の方法は全然違うよね。

分析哲学だと当然、主語なので出版業者としては面白くない。主体だから面白い(販売部数が伸びる!)。でも主体という日本語は、肉体(ボディー)を含んだ心身全体を指すニュアンスがある。だから、よほど豪腕な分析者以外は手がつけられない。とゆ〜か、つけたとしても三流の解釈学あるいは、ダメダメ文芸評論になる。

オイラが専門の科学哲学者ポパーの場合は、脳学者エクルズと組んで物理主義(=唯物論)的に「自我と脳」を分析することで、主体問題に切り込む。

ポパーの場合、クワインと大きく違うのは、クワインが分析の前提として物理的世界を仮定して、言語分析に集中するのに対して、ポパーは科学哲学者として物理世界の分析にしか興味を示さない点でしょうね。

ポパーには<唯物論の自己超越>というテーマがあり、心身問題もこの方向で分析される、フーコーの解釈学との比較研究なんか面白いかもしれん。
藤崎達哉 2005/11/18(Fri)06:30:00 編集
そうそう、まずsujetの段階で、この語は「主体」なのか「主語」なのか「主題」なのか「主観」なのか、はたまた「隷従」なのか、っていう立ち止まりがあって然るべきですよね。でもおれは、「フーコー」という著者名と、「講義が行われた日時」という外的要因から推測される諸々を併せて、そこんとこはネグっちゃいました。

ただ、ちょっと「読まずに語る」っていうラインから外れて、この本の中でフーコーの語るところに沿って言えば、あんまり「心脳問題」とか、そっち系には絡めてないですね(当たり前か)。「主体」と名指される「基体」が、各アルシーヴの中でどう「解釈」されてきたのか、という、まあお馴染みの「フーコー節」なわけで、ここで「基体」としたhypokeimenonは畢竟sujetのことですから、それをネグってheremeneutiqueとはちょっとヌルいかな、という気もします。

で、ぼくもポパー=エクルズと同様、「主体」というものにアプローチしようとすれば「脳」から切り込んでいく、と思うんですが、翻って、「脳」という「機能としての主体」というよりも、もっぱら「肉としての主体」を「分析的」に扱うとどうなるのかな?って興味もありますね。

「心脳」っていう区切り方だと、まあけっこうあったりすると思うんですけど、「もっぱら肉」だと、ちょっとずれるかも知れませんがレイコフの『肉中の哲学』ぐらいしかぱっと思いつかんなあ、と。

あと、ポパーとエクルズの『自我と脳』、かなり相当気になる本ではあるのですが、今でも読む価値があるのかどうか、ちょっと決めかねています(うっわ、失礼な話だ!)。どんなもんでしょ?
はやし 2005/11/18(Fri)14:52:00 編集
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