[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
わたし、を気にかける、とはどういうことだろうか?
他人を差し置き、自分の利益をもっぱらにするようなエゴイスム? それとも、わたし、というのは単なる「プレースホルダ」であり、そこに代入されるのは「わたし」でも「あなた」でも「あの人」でもよく、自らが自らを顧慮することが、同時にユニヴァーサルな行いとなるよう、行動せよ、というカント的戒律?
先般から「読まずに語って」いる、フーコーの講義録『主体の解釈学』の裏表紙の内容紹介に、こうある。
「汝自身を知れ」というよく知られたものよりも、「自己への配慮」という考えのほうが、哲学的実践を構成/規定している。
ああ、やはりこの主題系なのか、とこれを読んだ瞬間得心がいったりするのだが、それはそれとして、とにかく、「汝自身を知れ」よりも「自己への配慮」なのだ。
だが、よくよく考えると、対照されている「汝自身を知れ」というのも、実際何を言っているのだかよく分からないような気がする。ただ、この冒頭でいったような諸側面は、「自己への配慮」というものによりも、この「汝自身を知れ」にふかく関わっていることどものような気もする。どうだろう。
一般的に言って、というのは当時それが発されたコンテクストやら何やらを捨象して、今一般に流通解釈されているこの言明の意味をとれば、ということだが、「汝自身を知れ」という言明の裏にあるのは、「知る」ということの基底たる「わたし」、というものだろう。
何であれ、「知る」ということを行う主体は「わたし」なのだから、まずもってその「わたし」に関する「知る」がなければ、それ以降も立ち行かない……。
そうすると、では、とふりだしに戻る。そのような「汝自身を知れ」に対照され、ある意味先行するものとして措定される「自己への配慮」とは、何なのか。
ここで、こう考える。人には「知る」よりももっと大切なことがあるだろう、そう、「生きること」だ。となると、「汝自身を知れ」に先立ち、それを支える(かもしれない)「自己への配慮」は、この「生きること」について言われることで、極言すればそれは、「生への配慮」なのではないか、と思えてくる。
これは、何だかごく当たり前のことで、フーコーに言われるまでもなく、というか、少なくともこのようにつらつら書くようなことではないかもしれない。
だけれども、時として、われわれは「生きてある」というごく当たり前の条件をきれいに忘れ、そして、そうした「生きてある」ことへの大小さまざまな脅威にも無頓着であったりする。
フーコーのモチヴェーションとして、そういうこともあったに違いない。
そう思って読み進めることにする。
その上で、「け」さん言われるとおり、「生への配慮」を「健康への配慮」と受け取って、何がまずいんでしょうか? もちろん、「生への配慮」が「自己への配慮」とすきまなく重なるとは露も思いませんが、「生への配慮」は「自己への配慮」の基底条件としてあらざるを得ないし、だからこそフーコーは「生政治」みたいなことを言い出すわけです。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
音
雑
虫
技術
『スペクタクルの社会』を読む
ドゥルーズ講義録
電波
趣味の数学
趣味のゲーデル
『プリンキピア・マテマティカ』を読む
自己紹介もどき
ブログペット俳句
芸術一般
言語ヲタ
お客様
GRE CS
留学
Boing Boing
映画
ちょっといい話
かなりダメな話
魂の叫び
哲学と数学
論文
引用
「いい」とも「ダメ」とも言いがたい話
悲喜こもごも
証明論
ポエム
書物への呪詛
言わずもがななことではあるけれどときに忘れてしまうこと
何か無駄なことをしよう
日々
趣味の勉強
夢
ブログの記事
翻訳
勉強
不眠
文房具
ライフハック
育児
thayashi#ucalgary.ca
(#を@に置換してください)
このブログで紹介したことのある本をランダム表示。
このブログで紹介したことのある音をランダム表示。