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勉強の息抜きに、サイエンス社のHPを見てたら、次号の数理科学の予告編(って言うのかな?)のところに田崎晴明さんの名前を見出し、そこから検索で田崎さんのページに飛んで、とてもじゃないけど「息抜き」では済まされないほどの時間を過ごしてしまった……。
なもんで、「毒食わば皿まで」と言うか何と言うか、田崎さんの「日々の雑感的なもの」を読みながら思った、諸々の由無しことを書き綴ろうと思う。
物理は特権的に面白い
如上の主張の是非はともかく、物理に限らず「面白さ」と「研究」というものについて考えさせられる。
例によって「おれおれ」話になっちゃうんで恐縮なんですが、今はまだまだやること/やりたいことのとばくちに立っているから、その対象について無責任に面白がっていられているけど、そうしたことが「プロ」としての「仕事」となったとき、その「面白さ」を自分の中で維持できるか、というと、ちょっと覚束ない、というか、「どうなんだろ?」という気持ちになってしまう。
一般に「研究」というものは、ある「特殊事態」の時期を除けば、そのほとんどが、ある種「無味乾燥」とも言える地道な仕事に費やされる。そこには、大枠のフレームワークを考えているときのような派手さや訴求力というものは、ない。
「地道な仕事」は面白くない、とは言うまい。むしろ、少なくともおれにとっては、そういう「地道な仕事」にこそ打ち震えてしまうような面白さがある。ただ、そういう「面白さ」を、ちゃんと大きな枠組みの中に保持しつつ、外に向かって発信することができるかどうか、というところで立ち止まってしまうし、下手をすれば、件の文章で田崎さんが言っているように、大本の面白さも忘れ、本当に「仕事」として「重箱の隅」を突付くことに終始してしまうかもしれない。
って、まあ、こんなことを心配する前に、そのもっと手前で心配することがあるだろう、という感じなんですが。
数学者の直観
先頃から通っている、留学専門予備校のようなところで、同じ授業を取っている人が「文系ってのはアイディア勝負だ」と言っていて、これは翻って言えば「理系はそうではない」ということが念頭にあり、じゃあ理系としてどんなもんをイメージしているのか、と推測すると、「ある公理系があって、それら公理に許された推論規則を有限回適用して、定理を得ていく」という、きわめて演繹的なものを思い描いているのだろうと言う立場から軽くリプライしておいたんだけど、世間一般的に言って、理系、とくに数理科学的な色彩が強いジャンルは「演繹科学」とのイメージが強いのだろうか。
無論、こういう「通俗的イメージ」は往々にして実像とずれていることが多く、この「理系は演繹的」というやつも例外ではないのだけれど、たとえば、何らかの定理を得る場合、ある公理系にやみくもに推論規則を適用していたら得られた、というのは、ごく稀なのではないだろうか。もちろん、そういう「力ずく」的な定理獲得法もあるだろうし、そういう手法も一概に否定はしないけれど、もっと普通には、最初「ぱっ」と定理が閃いて、その正しさを検証するために、あれやこれやする、という風に、それこそ「アイディア勝負」なのではないだろうか。
件の「文系はアイディア勝負」という発言は、要はその学問にある「(見かけ上の)敷居の低さ」と「数理的形式化への馴染まなさ」を言ってるだけなのかもしれないが、その裏に「理系は『閃き』という『冴え』がなくても、機械的な仕事をしていれば何とかなる学問」というインプリケーションも読み取れてしまい、どうにも居心地が悪い。そして、その「居心地の悪さ」は、どうやら「機械的な仕事をしていれば何とかなる」ということが、ある一面で本当に罷り通ってしまっているからではないか、とも思う。
とはいえ、何にせよ、(基本的におれは「文系/理系」という区分自体を無意味なものと思うにせよ)、田崎さんが書く飯高さんの描写を読んで、「そうそう、そうなんだよ」と強く思わざるを得ないのだった。
文章の書き方
詳しくはよく分からないのでいい加減な感想だけれども、日本で「文章」と言うと、何やら「名人芸」風なものが思い浮かべられ、そういう「名人芸」であるところの「書き方」を教えるなんざムリムリ、という受け取りが存外多いのではないだろうか。
そりゃ、誰にでも「世界を凍りつかせるような」詩や、「寝食を忘れて読み耽らせるような」小説が書けるわけではない、というのはあえて言うまでもなく論を俟たないことだと思うけど、それよりもずっと手前の、「自分の言いたいことを理路整然と、ある一定の説得力を持たせて、分かりやすく述べる文章」というのは、間違いなくその書き方が教授可能な類のものだ。
だが、多くの人と同様、おれ自身、そういう「考えを伝える文章」の書き方を習った覚えはない。だいたい、学校の授業で書かされたものは、その多くが「作文」と称する「自分の思いを伝える」と言った類の課題であった。さりとて、そういう「思いを伝える文章」に関しては、その「書き方」を習ったか、というと、そういうわけでもない。じゃあ、あの「作文」の時間は何だったんだろう……というもっともな疑問はとりあえず棚上げしよう。
翻って、自分が主体的に「考えを伝える文章」の書き方を学んだ、と言えるのは、大学に入ってから、とかではなかっただろうか。もちろん、それまでに色々「理屈っぽい」文章は読んでいたわけで、脳内におぼろげながら「考えを伝える文章テンプレ」みたいなものはあったわけだが、それを明示的に取り出してどうこうということは絶えてなかったので、そういう「テンプレ」を眼前に並べて見せてくれるのはなかなか面白いことだった。ただ、そういう学びの過程で読んだ本の中で、一番印象に残った、というか、読み込んだのは、あんまりそういう「テンプレ」的なことは書いてない『論文作法』だったりするのだが。
蛇足ながら、「考えを伝える文章の書き方」本として、今では『論文の教室』という激烈な良書がありますので、「今ひとつおれの考えって伝わってないよなあ」と思い悩む紳士淑女の皆さん方に置かれましては、一度目を通されてみてはいかがでしょうか。
『ベイズ統計と統計物理』
こう紹介されてるのを読んで、改めて面白そうな本だなあ、と思ったので、家のあちこちを探したのだが見つからない……(この岩波講座物理の世界は定期購読していたのだ。つか、「していた」と過去形ではなく、今でも「定期」扱いになっており、都内某所の書店でおれ用にキープされているのであろうが……すまん)。
この運用システムの設計ってのは、実は、ちょうど文系理系のちょうど中間的能力を必要とするのですが、はやしさんなら、年率100%以上の運用成績のシステムの設計なんて1日もあれば出来ますから、一度小遣い稼ぎにどうですか?(・・・本気でやれば、本当にすぐに出来ると思うけど、魔がさしてもやっちゃだめよ。たとえ、それが逃避的息抜きであっても。(笑))
で、相場の「数理形式化」ですけど、素人目にも「指数函数の爆発」が起こることは目に見えているので、あくまで「補佐的役割」を担う程度なんじゃないですかね、運用できても。ただ、機械には人間にありがちな「迷い」というものが(今のところ)ないんで、そういう意味ではいいかも知れません。
で、そういうシステムのこと、気になるは気になりますけど、設計しようとかは思わないですねえ。それより、そういうシステムって、それ自体の出来がどうこうよりも、「それを売りつける」っていう営業力の方が大事なのかも、と思ったり。
ニューラルネットなんて力わざを使わなくとも、人のアイデアで、1行で書けるシンプルな式で、すべての先物市場で通用するシステムはつくれます。しかし、これでも、実は将来の保障となると非常に怪しい。突き詰めて考えれば考えるほど、怪しい側面が見えてくる。
それで、結局、システム運用は放棄しました。
結局システムを構築しても、それを、実践のレベル(=本当の使い物になる)まで上げられるかどうかは、結局、実践する人の心理の壁を克服できるかにかかっています。
本当に、まあ通用するシステムというのは、一応存在しますし、また構築可能なのですが、「人の心理の壁」を越えられるシステムの構築は、非常に困難です。
システム運用には、どんなに綺麗な形で数理形式化できても、必ず、「後講釈ではないか」という疑惑が残り、その「後講釈疑惑」を越えて人に自信を与えてくれる、つまり「人の心理の壁」を越えられるシステムってのは、まず、作れない。
実は、キリスト教文化圏の連中は、システム運用狂が極めて多いです。
日本では、最近でこそ増えましたが、それでも少ないですね。
システム運用がラクチンだと思うと言っただけで、「私は、相場の素人です」って言っているようなものなのですが、アメリカのプロの相場師は、苦しいのが分かっていてもシステム運用をしたがる、したがる。
あの姿を見て、アメリカの相場師が、無神論者になったつもりで、神の座にシステムをすえてマゾヒステックに隷属し信仰しているのではないかと、キリスト教嫌いの私はどうしても思ってしまいます。
「数理形式化」というのは、コンピュータの世界の必然ですが、そこで、生み出されたものが、人の心理に合わない という世界を、僕は一応経験済みのつもりです。
「数理形式化」の世界を決して否定しないし、むしろ、僕なんて、世間的にみればその信奉者側ではないかと思うのですが、数理形式化が人を幸せにするのには、結構大変な努力がいる気がしています。
それと、なるほど、原作たそがれ清兵衛さんが言うような、コンピュータをして「これに頼っていれば平気!」と人をして思わさしむることを阻む「心理の壁」というのもあるのですね。おれは、たとえば何らかの金融商品を、「もうちと持ってればもっと上がるかも知れない……」というような「甘い予断」を断ち切るものとして、「冷酷無比」な機械はその任にうってつけ、との思いがあったのですが、それもこれも、そういう機械を「信用する」という「壁」を越えないと、どうしようもありませんものね。
で、「数理形式化」に限らず一般に、何らかの人為的なやりかたで、狙い撃ち的に「人を幸せにする」のは、何であれ簡単なことじゃないですよ。それが、自分のことであれ、他人のことであれ。
で、テクニカルってのは要はただの傾向分析だから、「過去はこういう動きだった、だから次はこうなるに違いない」という傾向のみに着目した根拠の薄い推論でしかなくて、それでも「市場には歪みがあり、それがオーバーシュートして収斂するプロセスを繰り返す」、という事をバックボーンとして押さえつつやれば、信頼できるのか出来ないのかよくわからない程度の微妙な精度のシステムは出来るんじゃろうね、と素人考えに思います。(かくいう私も引き篭もりデイトレーダー時代にエクセルで作りました) でも基本がファンダメンタル無視だろうし光通信の暴落みたいなのは察知不可能だろうなと。それで、波形の収束とブレに拘りすぎたシステムが出来て、一方的な動きには非対応なので万一のリスクが限りなく大きいかな、と想像できますね。
相場と心理面に関しては、そういや「不安心理等を欠いた精神異常者ほど、高い運用成績を残す」みたいな記事をどこかで読んだ記憶がありますね。記憶が曖昧ですが、感覚的にうなずける話です。
資金運用に際して、人がシステム運用に頼りたくなる気持ちはわかるけど、それって相場師としては敗北宣言に近いし、そうなったら潔く引退すべきだよね、とか暴言を吐いて寝ます。将来的にはBSPLの読めるシステムが出来るとよいですね。ではでは。
そもそも文章の書き方と一口に言っても、言葉のリズムや流れをベースに書く文章と、論理をベースに書く文章では文章自体が保持すべき価値(心地よさ/厳密性)が違うので、それらを一緒くたに論じるのはマズくもあり、しかし一方では共通する部分もあって(問題→その背景→主張、とか構造部分)、悩ましいのだけど、ひとつ思い出す例としては、森鴎外の小説だったかな、
(小間使いに、瓶に水を持ってくるように頼んで)
水が来た。
という文章があったのですが、論理をベースに書く文章ではまず絶対に「水が来た」とは書けないわけです。「小間使いが瓶に水を汲んで持ってきた」とか「小間使いが水の入った瓶を持ってきた」とかになる。どうやっても「水」が主語にはならない。水が自律的に寄って来たりはしない。でも鴎外は「水が来た」と表現するし、無駄のない鮮やかな表現として賞賛もされる。
ということで、なんか日記帳に書き付けるようなまとまりのない書き込みですが書き込みボタン押して寝ます。ではでは。
僕は、長期投資だけは決して否定はしてはいませんので、その辺りだけはご理解いただきたいと思います。というか、もうその辺はご理解頂いていると思いますが。
では、なぜ私が長期投資をしないのか? それは、私の抱えている特異な固有の問題を片付けるのが相場を張る目的であり、目的から見て、長期投資特有の総資金の大きなドローダウンが大きくなることだけは絶対に許されないからです。本当は、今やっているポジショントレードでも、資金のドローダウンが強烈な精神的苦痛を伴います。
とは言え、専業相場師になっても、資金のドローダウンをより小さくするためにポジションの短期化をするつもりはありません。これ以上、アコギなことはしたくありませんから。
これから、短期投機がどんどん不利になるのは間違いありません。ネット証券が個人にただ同然の価格で提供するテクニカル指標の画面なんか、あれは、5年前だったら、証券会社のディーラーが見ていた画面ですよ。
テクニカルの知識が普及すれば、テクニカル分析が無効化するのは当たり前です。
そんなことすら分からずにいる連中は本当にアホです。
そういう連中は、少なくとも、自分が誇っている「勝ちパタン」や「システム」をランダム化が進んでいる米国株市場(特に、SP500先物)でテストしてみたらいい。
それをしたら、偉そうにしている自分の将来の無残な姿は、はっきり見えるはずです。勿論、中には、そのテストをクリアできる非常に優秀な方も結構いらっしゃるとは思いますが。
はやしさん、ニューラルネットで作るシステムというのは、ちょうど、フーリエ展開みたいに超長い式を、それも誰が見ても嘘丸出しの式を適当に作って、ニューラルネットの計算速度を利用して、各定数項を特定しに行っているだけなんです。本当に、後講釈を究極までしたようなものです。どんな連続関数もフーリエ展開できるのと同じくらい当たり前のことをしているだけのことです。というか、連続関数をフーリエ展開するより、果かに下等なものであります。
運用成を知るページと言われると・・・・、
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まあ、こんなのを見つけはしましたが、・・・・・・沈黙は金。
ただ、アメリカでは、計算式を開示せずとも、他人の資金のシステム運用を担当したり、システムを販売する際に、過去のデータをテストした成績を開示するのを法律で義務づけていますので、英語のページをめくれば、結構、そういうのに沢山行き当たるかもしれませんね。
で、「ちょっと精神的におかしいやつの方が投資に向いてる」って、X51にも取り上げられてたな。おれ、何かボインボインで読んだような気がする(が、これは勘違いかも)。
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論証における論点の「抜け」や「漏れ」の問題は、論文の構成においてはなかなか悩ましい問題で、これはまあ「文章」の問題というよりも、もっと手前と言うか、知的活動の根幹に関わる問題だと思うけど、ほんと、習ったことないですよねえ、実践的なかたちでは。ただ、翻って、じゃあそういうことをどう教えるか、って考えると、これもまた頭の痛い問題で、どうしてかって言うと、個々具体的な論題によって、それぞれ「勘所」も違うだろうし、その扱い方の「作法」も違うだろうから、それらを一纏めにして扱えるような「魔法の杖」はないんじゃなかろうか、と思うからなんだけど、それはさて措くとして、大きく射程を取れば、やっぱり数学的な訓練を、現行中高で行われているような「数字いじり」じゃなくって、もっと証明問題に重点を置いてやることは、けっこういいんじゃないか、と思う。
それで、鴎外の「水が来た」で思い出したこと。
たとえば、英語で「夜になるとふくろうがやって来る」っていう文章は、日本人はWhen it gets dark, owls come.ってしがちだけど、これをネイティヴはNight brings owls.とやる、っていうのをどっかで読んで、何かけっこう感心した覚えがあるんだけど、それを考えると、「水が来た」ってのも、必ずしも論理的文章に乗らなくはないかな、と思ったりする。むしろ、「水が来た」で問題になるのは、多分、「来た」と過去形になってるところかな……とか、まあ、ほんと色々難しい。
つか、めむひさん、試験頑張ってください。
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特に、上のほうのやつなんて、ニューラルネットのみならず、じぇ、ジェネティックアルゴリズムすか!? いや、まあ、GAは適応系には持ってこい、だけど、そもそも相場ってのは適応系なんですかね?
つか、ここいらのことは藤崎さんの方が詳しそうじゃ。
投資の自動化、やっぱりダメか。いや、別にそういうことをしようという気はひとっかけらもないんだけど、おれ案外「自動化フリーク」なんで、出来れば楽チンだろうに、と要らぬお節介で思っちゃったりするんですよ。でも、翻って考えれば、そういう「自らの力で」みたいなところがオモロイのかな?
いやいや、推論の漏れとか抜けって、これけっこう万人に言えることだと思いますよ。おれ、電車の中で人の会話とかをディープに盗み聞きするのが趣味なんですけど、ひっくり返っちゃうような粗雑な推論とか平気でかましてて、会話の受け手もヨユーでそれを受け入れちゃってたりだとか……まあ、そういう「日常会話」においては、ストリクトな推論なんて別に要らないし、逆に、そういう作法で話してたりすると煙たがられたり、ということもあるんだけど、そういう「ストリクトな推論」が求められる場面でもけっこう「どうなのよ、それ?」っつーこともままあり……。
Night Brings owls...うん、美しいよね、この文章。
たそがれさんへ
>「相場やる奴はアホばかり」
うん。あほやと思います。もっと時間は有意義に使えと思うです。
>大きなドローダウンが大きくなることだけは絶対に許されない
私もそうですね。リスクの高い博打になりますが、仕方がないです。
短期投資は、私の場合は株ですが、需給読みと材料待ちに特化してました。テクニカルは無視。
はやしさんへ
>「相場のシステム運用なんざムリムリ」っていう理由は、相場における判断は定量的なデータもさることながら、定性的なそれをも勘考して行われなければならないから…人間は多量のデータを定性的な基準で間引くことによりマネージャブルなサイズまで落として処理できるけど、計算機にはそれが出来ないから、ということかな?
そうですそうです。具体的には、粉飾を見抜いたり、会計基準・計上基準の違いによる数字の過大や過小を見抜いたり、バランスシートに乗らない資産・負債を考慮したりして、真実の数字を洗い出す必要性があるからです。また成長性については、数字のみでなく、経営者の人柄や志向が結果に大きく影響するので、そうしたものも加味する必要があるからです。
数字そのものを絶対的に信頼でき、どの会社とも同じように比較できるのなら、コンピューターでもある程度は可能と思います。
で「そこそこのもん」ですけど、どうですかねぇ。。私のエクセルマクロはダメでした。でもエクセルマクロの判断に私の判断を加味した場合の勝率はぼちぼち。そんな感じでした。
ああ、そういえば、「そこそこのもん」以上が確実に作れる分野があった。倒産株専門のシステムなら、容易に確実性の高いものが出来ます。理由は、倒産株の価格は需給のみで決まりますが、倒産株は事前にある程度の需給が読めるからです。加えて言えば、寄り付き時の出来高を抑えればその後数分間の動きも読めます。
>知的活動の根幹に関わる問題だと思うけど
痛いwやられたw そう私はそれがダメなのさ…
>Night brings owls.
いいですね。美しい。
はやしさん、僕は、あくまでも、取引高の多い先物市場では、そこそこ安定したシステムの構築は可能であると思います。ざっくりですが、株価指数先物(日経平均先物+東証株価指数先物)2銘柄の取引高は、東証1部全銘柄の取引高に匹敵するくらいあります。で、225銘柄とか、1600銘柄ぐらいをバスケットで指数化してあるので、個別株の好材料、悪材料は、まったくといっていいほど影響しません。あと、日本で、できるのは、債券先物市場なんですが、これなんて、政府が、とんでもない量の国債を発行しているせいで、今や、世界一の規模の先物銘柄になっていると思います。(多分)
ただ、難点は、日経平均先物の場合、1枚1300万、債権先物の場合、1枚13500万もすることなんです。(勿論、そんなに お金をつまなくても、取引可能ですが、また、それゆえに、先物はおそろしい面があります。)
アメリカ市場の先物は、もっと小単位でできるはずです。しかし、はやり、アメリカ市場はランダム化が進んでいるということで、やりにくいとは思います。
日本の商品先物市場は、やっとネット経由の売買だけ、手数料が自由化されたので、テストしてみる余地はあると思うのですが、結構、突発的材料がこわいというめむひさん流にいうなら、明らかに指数先物より材料に左右される市場(それも、東京市場がしまっている時間の海外で出てしまうことが多い)なので、本当にシステム運用に適しているのか何ともいえません。
売買の執行をしても、システムが算出した値段と約定する値段が違うこともあるわけですが(この差をスリップページといいます)、スリップページがないなら、為替は、本当に高収益の安定したシステムを構築しやすい市場だと思います。
相場観やテクニカル指標で、相場を張った場合、パフォーマンスが悪くなってきたら、休むというのがだいたい正解なのですが、システムの場合、パフォーマンスが悪くなってきたときこそが、もっとも休んではいけない時点、つまり目前に大きな収益機会がきていることが往々にして多いわけです。そこが、一番苦しいのですね。もっとも、ピンチと感じられるときに相場に向わなくてはいけないというのが、精神的にきついのです。また、システムって疑いだすときりがないし、実際、その疑いを振り切ってまで、システム運用を進めて、それで、その疑いが的中して、精神的苦痛をこらえて運用を続けて一文無しになるということは実際にありますし。そこが、システムの本当の地獄みたいなところですね。
まあ、相場の勝ち負けなんて、訳の分からないものに、どうやって、適切かつええかげんに、ながーく付き合えるかどうかが勝負を決めるものであるわけですが、知的で感情も豊かという、もっとも人間味あふれるような人には、もっとも不向きな世界であるのは間違いないと思います。
そんなこととは、別に、知的遊びとして、システムを構築するというのは、結構楽しかったりもします。相場する気がない、はやしさんになら、結構最高のお遊びになる気がします。 でも、何回も言いますが、作っても、本当に運用したら駄目ですよ。はやしさんの他の才能が著しく低下する恐れがありますから。
で、実験そのもの、については、「看板」(スタンフォード&カーネギーメロン)に惑わされて論証抜きに「ほんとなんじゃないか」って思っちゃいそうになりますけど、何にせよ、ちゃんとした論文が出たら、それで判断すべきことですよね。
それはさておき、かなり大本の話からずれちゃうこととは思うんですが、感情、つまり、何かを悲しいと思ったり、怒りを覚えたり、ってこと、これ不思議ですよねえ。おれ、けっこう何回か言ったことがあるように、感情の起伏ってのがあんまなくって、ベイトソンの言う「プラトー状態」というか、かなりアッパーなところで安定している感じなんですよ。だから、普通の人が何かを思い悩んでいたり、ということの結構が、よく分からなかったりする。そういう意味でも、ちょっと理論的というか、脳科学的にどういうことになってるのか、調べてみたいと思います。
"Emotional Brain" (Joseph LeDoux)
それと一緒に、同じLeDouxの、シナプス結合が「私」として立ち現れる様子を描いた(のか?)"Synaptic Self"も注文。むしろ、こっちの方が面白そうかも。
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実験のサンプリング方法とその結果から導かれる、結論の書き方がちょっと気になりますね。
結論はより正確には
>最強の投資家は「精神異常者」
でなくて、
>最強の投資家は「感情表現に影響する脳の特定部野に障害がある精神異常者」
ですね。
確かに、「感情表現に影響する脳の特定部野に障害がある精神異常者」は「精神異常者」ですが、「精神異常者」のすべてが「感情表現に影響する脳の特定部野に障害がある精神異常者」というわけではないので、結構誤解を招きやすい結論の書き方だと思います。
さて、それはさておき
>慎重かつ、より潜在的に賢明な決定が成されるためには、自然な感情的反応が抑制されなければならない
というような能力が、システム開発能力より、テクニカル分析の理解力より、また、財務分析能力や、経営者の資質を見分ける能力より、相場師に求められるのは間違いありません。
しかし、普通の人間が、これをやると、ある能力が低下したり、破綻したりする危険は結構あると思います。
世間ではびこる、相場師は楽をして金を儲けているというイメージはほとんどの場合嘘で、得たお金と引き換えに自分の感情の自由は勿論、その知的能力さえも引き換えにしている、悪く言えば「悪魔に魂を売り渡してお金を得ている」って感じだと思います。
で、荒井さん、上のリンクですが記事はどうでもいいのですが、折角はやしさんが貼ってくださったので、クリックして開けて下のほうのリンクをまたクリックしてください。愛さんのブログはともかく、なんか、荒井さん好みの、ウィルスソフトがないと思いっきりやばそうなところの入り口が沢山ありますからね。(笑)
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