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この間、原作たそがれ清兵衛さんとあったとき、主に音楽のことを扱うカテゴリの区分が「音楽」ではなく「音」となっていることが興味深い、というようなことを言われた。
そのときは、「音楽」という区切りにしてしまうと、それ以外の「音」、つまり道を歩いているときに聞こえてくる音とか、夜中に水道管を流れる水の音だとか、そういう「非−楽音」が零れ落ちてしまうから、というようなことを言ったのだが、実を言うとちょっとこの答えはミスリード、というか、若干「ええかっこしい」な部分がある。
もちろん、如上のような考えをおれが持っていることは嘘ではないし、そういう意図もこの「音カテゴリ」を作るときにあったことは間違いないんだけど、もっと即時的な理由としては、そもそもブログを作ったときのカテゴリは3つしかなく、それらを「本/音/雑」というように、一文字で揃えたかった、というものだったのだ。第一、何だかんだ言って、この「音カテゴリ」ではもっぱら「楽音」のことについてしか語ってないしね。
というわけで、ちょっとした反省も込めて、「楽音と非−楽音」ということについて、ちょっとしたおしゃべりをしようと思う。
まず思うことは、そもそも「楽音」と「非−楽音」を区別する規準が、それら「楽音」と呼ばれるものに内在的なかたちで存在するのか、ということだ。つまり、それらの音は、たまたま「楽曲」と呼ばれる構造物の中で用いられるがゆえに、遡及的に「楽音」と呼ばれるに過ぎないのではないか? そうなると、問いは「そもそも『楽曲』とは何か?」ということになるのだが……それには歴史的に、「音楽の成立」というところまで立ち返って考える必要があり、今はちょっと扱うにでかすぎる問いなので、パス。
まあ、素朴に考えれば、「楽音」とは「楽器」によって出される音のこと、だ(今はとりあえず、「楽器とは何か」ということは不問に付しておこう)。だが、とまたぞろ「問い」が現れ出でるわけだが、果たして「楽曲」とは「楽器」でしか、つまり、ここでの文脈で言えばピアノやら何やらといった「伝統的楽器」でしか作りえないものなのか?
そんなことを考えたやつが、前世紀中頃にいて、それがミュージック・コンクレットという流れになるわけだが、このムーヴメントの首領者の一人と考えられるピエール・シェフェールは後年、「ドレミの外に音楽はない」と、自らの試みを全否定するような発言をしており、あらためて「伝統的楽器」の出す「楽音」の拘束力や束縛力の強さを思い知らされる。つまり、何であれ「西洋的音楽」という文脈では、その基底的構造に捕われ、そこから逆規定的に「伝統的楽音」が呼び出されてしまいかねないのだ。
「音楽」を「楽音」から解放しようとしたミュージック・コンクレットですら、この「西洋音楽の基底構造」から逃れられなかったのだから、真に「楽音/非−楽音」ということを考えようとすれば、やはりこの基底構造に関わらざるを得ない……。だが、そのアプローチの仕方として、構造を無視、あるいは破壊するという行き方はうまくいかないことは眼に見えている。
そもそも、人間というのはパターンなきところにパターンを、つまり、構造を見出そうとしてしまう生物である。いくらこちらで「構造を壊した!」と強弁しても、その受容者からしてみれば、そこにはまだまだしっかりと「構造がある」のだ。
だから、真正面から「楽音」ならざる「音」を扱うのは、相当難しいことなのです。
・・・・・・って、別にこんなことを書こうとしたわけではないのだけどな。ま、いいや。
次回はこの流れで、ノイズについてでも書こうと思います。
まず、家内も12音階の限界はそろそろ見えてきたかなといっております。
それで、家内ははやしさんと、大きなくくりで一応同じ電子楽器をいじっているものとして、
その12音階を打破は可能なのか?
行き詰っているとはいうものの、それなりの大きな伽藍が出来ているので、それをわざわざつぶす必要が本当にあるのか?
潰すのに、西洋以外の音楽にその活路を見出すのは、無意味だろう
とか言っていた記憶があります。
そこで、西洋楽器では出ない「音」自体のレベルまで、掘ってみてそれで、一度音楽の基底の部分を人の知らぬ間に、こっそり入れ替えてしまって、なんか、上の12音階の伽藍の体系はそのままそれなりに残っているじゃん というのが、密かなはやしさんの企みではないかと。
メロディーやハーモニーでなく、「音」の部分追求で、西洋音楽の体系を揺るがしてみるしか、西洋音楽は揺るぎもしないだろうとか、言っていたような、いないような。
ただ、伽藍が大きくなるのは、楽器の「音」の進化にささえられてきた側面は否定できず、家内の推論しているはやしさんの戦略は、本当に成功するのだろうかとも。
記憶があやふやですいません。
所詮、私の音楽の 能力は、「雑談版」に書いた程度のものです。
(でも、カラオケは、上手いよ。おっさんだからね!)
その上で、原作たそがれ清兵衛さんの奥さんの言われていることは、大筋で、つまり、西洋音楽を壊すにせよ、そこから逃れるにせよ、それ以外の体系、たとえば雅楽だとかに頼るのは、意味がない、というのには、賛成です。
もし、西洋音楽を壊すなり、そこから逃げるなりをしたかったら、新たな体系を作り出す以外に道はない、と思います。
ただ、最初にも言ったように、西洋音楽に対して別段「アンチ」ではないのですが、本来「西洋」も「東洋」もない純粋な「音」ということに関しても、それを聴取する時点で西洋的な構造に則って分節化されてしまっている、という気はしますので、そうした「音」を「西洋音楽の専横」から解放したいなあ、とは思います。
そのためにも、闇雲にnonを唱えるだけでは到底ダメで、たとえば音律の成立過程というような、西洋音楽における「音」の扱いの歴史的変遷や、純粋に音響工学的な「音」の取り扱いなど、「歴史的/非-歴史的」両面のアプローチから攻めていかないと、どうにもならない。
最後に、「西洋音楽」という伽藍の巨大化に「(楽器の)音の進化」というものが寄与することがある反面も、そうした「音」、もっと端的に言えば「楽器」というものが伽藍を制限する、という面もあります。原作たそがれ清兵衛さんの奥さんが仰りたいのは、仮に「新たな音」というものを構築したにせよ、それもまた「西洋音楽」という伽藍に組み入れられてしまうのではないか、ということでしょうが、そういう意味では伽藍から逃れる手立てはない、とぼくも思います。事後的には何であれ、「西洋音楽」という名の下、組み込み可能なのですから。
だから、別段「西洋音楽」の外に出たいとか、そういうことではなく、シェフェールなんかの試み、つまり、「ドレミの外に出る」ということを、もっと推し進めよう、というのがモチーフであります。
というわけで、そこからして、すでに「伽藍の一角」での話ではあるわけです。
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