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以下に読まれるのは、フランコ・ベラルディFrabco Berardi(通称ビフォ)の「今日アウトノミアは何を意味するか? Che significa oggi autonomia? 」のフランス語訳全4節中第1節の訳である(残る3節も追ってアップ)。原文イタリア語版初出は分からないが、フランス語訳がオンラインに置かれた日付は2004年1月19日となっている。また同じサイトには、これのは英訳も置かれているが、副題(仏語版では「再結合される資本と認識者たる労働者 Le capital recombinant et le cognitariat 」、英語版だと「主体化、社会組成、労働の拒否」という副題が各々付いている)、小見出しの不在、パラグラフの区切り方、といったこと以外、さしたる異同はないようである(「ようである」なんてアイマイな言い方をしてるのは、メンドイんで読み比べたりということはしてないからなのだ)。イタリア語原版はここ。他にもドイツ語版、スペイン語版が存在する。

著者のビフォについて、詳しいことは知らない。ここでは「アウトノミアのスポークスマン」と言われていたりする。書籍も調べてみたが、現在入手できるものは見つからなかった。

このテクストの主題たる「アウトノミア」については、もちろん以下の文章を読んでもらえればいいのだが、前もって教科書風に手短に言っておけば、1960年代イタリアに興った、党主導ではない労働者運動で、「労働の拒否」というスローガンを掲げていることからも推察されるように、色んな意味で過激な運動であり、「赤い旅団」という「テロリスト」グループもこのアウトノミア運動から派生している(この「赤い旅団」が起こしたアルド・モーロ首相の誘拐・暗殺に関与したとの濡れ衣で、ネグリが投獄されたことはつとに有名であろう)。



今日アウトノミアは何を意味するか?


主体、ではなく、主体化

私はここで、「アウトノミア」と名付けられた運動の歴史を描くのではなく、「労働の拒否」や「階級の組成」といったいくつかの概念を考察することで、アウトノミア運動の歴史的特異性を解明したいと思う。ジャーナリストたちはしばしば、1960年代イタリアに現れたこの政治的・哲学的運動を表すのに「オペライズモ operaismo 」(労働者主義)という言葉を用いているが、私はこの「オペライズモ」という言葉は全く好きになれない。というのも、この言葉は、社会的現実の持つ複雑さを、現代の社会的ダイナミズムにおける「工業的労働者の中心的役割」という単純な事実に還元してしまうからだ。

アウトノミアという哲学的・政治的運動の起源はおそらく、マリオ・トロンティ、ロマーノ・アルクァティ、ラニエロ・パンツィエリ、トニ・ネグリといったものたちの著作に見出される。そして、彼らの中心的テーマは、ヘーゲル的な主体把握から自由になることだった。ヘーゲルから継承された「歴史的主体」の代わりに、「主体化」というプロセスについて語らなければならない。この主体化というものは、主体が形作る「概念的場」を前提とする。「主体から主体化へ」というこの概念の転換は、フランスのポスト構造主義者たちによって推進された「哲学の風景」の転換に深く根ざしている。この転換の結果として、われわれは「自己同一性」にではなく「生成というプロセス」に意を傾けなければならず、また同時に、「社会階級」という概念も存在論的概念としてではなく、大きさと方向を持ったベクトル的概念として捉えられなければならない、ということになる。アウトノミアの考えでは、社会階級という概念は、文化やセクシャリティや労働の拒否といった「社会的欲望」の備給として再定義される。1960年代から70年代にかけて『クラス・オペライア』や『ポテーレ・オペライオ』といった雑誌に寄稿していた哲学者たちは、この「欲望の社会的備給」について語らなかった。彼らはもっとレーニン主義的な語り口で語ったのだ。しかし、その哲学的挙措は、「労働者の主体的同一性」を中心に置くことから「主体化というプロセス」という脱中心化へ移行することを伴って、哲学的風景に重大な転換をもたらした。フェリックス・ガタリ(彼は1977年頃「オペライスム operaïsme 」を見出したが、翻ってアウトノミアの思想家たちも彼のことをその頃まで知らなかった)は、主体についてではなく「主体化というプロセス」について語るべきだ、と主張してやまなかった。この「主体化というプロセス」という土台の上、われわれはまた「労働の拒否」という概念の語るところについて、よりよく理解することができるのだ。「労働の拒否」とは、たんに「労働者は搾取されることを好まない」という自明のことを意味しているのではなく、それ以上のことを語っているのだ。それが語るのは、資本の再構築、技術変化、そして社会制度の全般的転換というものは、まさに「搾取されてあるもの」の日々の営み、つまり「剰余価値の生産」、「資本価値の増大」、それらの帰結としての「生の価値の減少」を拒否することが作り出すものである、ということである。

私が「オペライズモ」という概念を快く思わないのは、それが「労働者」(「オペライズモ」とはイタリア語で「労働者」を意味するoperaiから派生している)というごく狭い社会階級しか指し示さないからであり、それよりも「組成主義 compositionnisme 」という概念を用いた方がいい。「オペライスム」の思想家たちにも広く使われていた「社会の組成」、もしくは「階級の組成」という概念は、社会の歴史とよりも、何よりもまず化学と関係するものなのだ。

私が好むこの「組成」という語によれば、「社会」が作り出される場とは、ヘーゲル由来の凝り固まった、石ころだらけの歴史的テリトリーではなく、文化、セクシャリティ、病い、欲望が互いにぶつかり語り合い、恒常的にその風景を変化させ続けるような化学的環境なのだ。また、この「組成」という概念を用いることで、1970年代にイタリアで起こったことをよりよく理解することができるし、「アウトノミア」が意味することもよりよく理解することができる。「組成」とは、「主体の形成」でもなければ、人間存在を社会的運命に同一化させることでもない。そうではなく、それは、社会関係、性的同一化/非同一化の絶え間ない変化であり、労働の拒否のことなのだ。労働の拒否は、欲望の社会的備給の複雑さによってこそ作り出される。そうしたことを勘案すると、経済力によって布告された規律的規制にのみ社会的生は依存するのではなく、生ける社会の自己組成というプロセスを形作る、非局在性、位置ずらし、置き換え、そして内的解体といったものにも依存しているのだ。逃走、欠乏、疎外、そしてサボタージュは、資本家が支配するシステムにおける逃走線である。アウトノミア、それは、資本主義的時間性からの、社会的時間の独立のことなのだ。そして労働の拒否とは、たんに「もっと寝てたいから働きたくないや」程度のことを意味するにすぎない。しかし、このような「もっと楽したい!」といった感情はまた、知的なもの、テクノロジー、そして進歩といったものの源泉でもある。アウトノミアは、規律的規範と相互作用し、その規範から独立しようとする、社会的身体の自己規制なのだ。

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