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マルクスが『資本論』第2版あとがきにおいてヘーゲルの弁証法を「ヘーゲルにあっては、弁証法が逆立ちしてしまっている」と批判し、それを「直くしなければならない」と言ったのは有名な話である。しかし、そのようなマルクスの評言をはたして額面通りに受けとってよいものかどうか。

マルクスはヘーゲルの弁証法を「現実を観念Ideeの外的発現äußere Erscheinung」として捉えているとして批判する。そして自身のそれを「観念的なものIdeelleは、人間精神のうちに反映された現実にすぎない」ものとして捉えるとし、それに対比させる。

たしかに、ヘーゲルの書きものはそのいずれをとっても最終的に、話の「オチ」が観念的なところにいきがちなのは、否定できない。だがいっぽう、『法権利の哲学』のつぎのような文言を見ると、マルクス言うところの「観念の外的発現」というヘーゲル弁証法の特徴は、ひとひねり加えて解釈される必要があるように思える。

すべての人はどうあがこうが、「時代の子」たるをまぬがれえません。哲学とてその例外ではなく、その思考のうちに時代の刻印が押されています。哲学がそのいとなみの行なわれる現代世界を超越できると考えることは、人が時空を超えてロードス島でジャンプできると考えるのとおなじくらいばかげたことです。(Werke. Band 7, S. 27.)

このような「現実」認識を持つ人間が、はたしてマルクスの言うような「現実」把握をするものだろうか。どうも、そのようには思えない。

考えうべきひとつの「弁証法解釈」のひとつの可能性は、「ヘーゲル弁証法は、カント的ツイスト、つまり、『世界を見る側の視座によって世界の見え方が規定される』という前提を持つ」というものである。つまり、「思考のうちの刻印によって世界の見え方が規定される」ということが「観念の外的発現」というマルクスの批判を招致したのではないか、ということだ。

となると、ヘーゲル弁証法を端的に「観念論」として片づけることはできまい。と同時に、「認識の時代拘束性」ということをもって、「相対主義者ヘーゲル」という像を打立てることにも、躊躇がある。

けっきょく、ヘーゲル弁証法をちゃんと理解し、それに正当な評価を下すには、斯様な「伝言ゲーム」からは「一抜け」し、その書きものをきちんと読むしかない。


マルクス『資本論』の引用は、MEW第23巻を利用した。文中の『資本論』からの引用はすべてその27ページからである。

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