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全体の構成を考えずに、書きはじめたら「一切を向うまかせ」にする「悪癖」の結果として、「内容と形式」と題されたエントリが、当初書こうと思っていたこととまったくちがった風合いのものになってしまったことは当該エントリコメント欄のレスで述べたとおりだが、今回(こそ)は、当初「内容と形式」と題されたエントリで書こうと思っていたことを、書く。
いまは亡きブロックブログ時代のころからここを見てくれている人はつとに気づいていることと思うが、このブログが忍者ブログに移ってから、一見して分かるぐらいに文字の大きさが小さくなった。このことの因の半分は、中坊俊平太が忌みきらう「フォントサイズのピクセル指定」のゆえであるのだが、あえてそれを修正せずにほうってあるのは、そうした「文字の小ささ」というのが、なにがしか「内容」に影響を与えるのではあるまいかと思い、そのことを身をもって確かめてみよう、という魂胆があるから、である。
ごく直感的、かつ素朴なイメジで言うと、大きい文字で書いたほうが、内容もゆったりとしたものになり、いきおいそれほど理屈っぽくないものになるような気がする。ひるがえって、小さな文字で書くと、全体に神経質な感じがし、それと相即的に、内容的にも細かいところをちくちくとほじくりかえすような、そんなものになるように思う。だから、いままでファジーなものを書きちらしてきたせめてもの「償い」に、「形式」を固定してそこに「内容」を従わせよう、というわけだ。
はたしてこれが、こちらの思惑どおりにそうなるかどうか、よく分からない。何より、じっさいに執筆を行なっているのは、それなりの大きさにフォントサイズが設定されたテキストエディタであるのだから、その最終成果物のフォントサイズがどうあれ、あまり変わりはない、という気もする。だが、じわじわと、まるで呪殺のように、この「現れ」が効いてくる可能性も、まだ否めない。
というわけで、ブログを引越して以来、「文字ちっちぇえよ!」と思っている方も多からんとは思いますが、閲覧者のみなさまにあられましては、何とぞご理解ご協力のほどを。
以前のブログは、サイドバーからHTMLが出力される設定をコントロールできず、ゆえに、本文のセクションが読みこまれるまで時間がかかることがあり、けっこう自分でもいらつく瞬間があったのですが、ここはちゃんと本文セクションからHTML変換されるようにできるので、その点だけでもひじょうに満足しています。
内容と形式がある程度結び合っていることは事実だとは思うのですが、やはり見るときに字が小さいと疲れるし、目の負担も大きいのではないかと思います。かといっていちいち字を大きくするとなると、それはそれで面倒くさいところがある(僕は実際、ブラウザ側で大きく表示させてますが)。そして何より、字の大きさなんかがそれほどまで内容に関係あるかな、とも思います。情報がパンパンに詰め込まれてるような印象は受けるかもしれないのですが、所詮それまでという気もしますし。
HTMLの理念云々に関しては押し付けるほどのものではないだろうなというのは僕も思うのですが(知り合いのブログなんかを弄ってあげる機会は多いのですが、実利のないところにまでは口は出さないようにはしてます)、フォント関係に関してだけはちょっと譲れないところがあります。それこそ中坊さんの言う程度には僕も反感をもってます。読みづらいというのは理念でもなんでもなく現実目の前の問題ですしね。
発信者側の権利と読む側の権利、WEBでは発信者の方が強かろうけれども、フォント関係に関しては、読む側の権利を主張してもいい分野だと思っています。
それに、なんだかんだいって字が大きいほうが、内容が若干専門的であれ、とりあえあず読んでみようかと思える気もしますから、そのメリットの方が遥かに大きいと思うのですが
さて、それでは、ウェブ上の情報発信において、フォントのもろもろについてはその享受者のほうが発言権がつよいか、ということについて。これは「然」でもあり「否」でもある、と思う。「否」であるいうのは、フォントがらみのことにせよ何にせよ、ある情報の享受者がその発信者に言えるのは、(訴訟マターになるようなことを除けば)「こうこうこうしたらいいんじゃないかな」という「提言」程度で「汝為すべし」という「命令」はできないから。いっぽう「然」であるのは、「情報」というものの一般属性として、それがある「公共圏」に放たれたと同時に、その「権利者」が何と言おうと、ある「無法地帯」に置かれることになるから。つまり、いくらある情報の作成者が「これは何としてもこの形式で見てほしい」と思い、そして、それ(情報の固定的形態における受信)を成就させようとしても、そうした「軛」をすり抜ける方途は、それこそいくらでもある。
「内容と形式」のからみについて言えば、これは多分に個人差があることだと思うけど、まず、じっさいに、ある所与の形式で提示されたものは、それとはべつのある形式で提示されたものとは、たとえその「内容」が同じであるにせよ、その「受けとり」にちがいがあることは、論を俟たないことに思われる。そのうえで、じゃあある「形式」に則れば、そのことだけで「内容」が伴うのか、と言うと、これはもちろんそんなことはない。おれの言いたいのは、そのような随伴が(ある意味「不可避」な帰結として)あるということではなく、あくまで、そうした外部的な「形式」を設定することは、「書き手」のがわの「チューニング」に与ることが少なからぬゆえ、ひるがえって、その書かれるべき「内容」の水路づけ程度の用はなす、ということ。だから、「何かを書く」といういとなみはつねにその最終形態を見すえることが込みでなされるので、その「途中経過」においていかなる環境下で執筆をしようと、この戦略はそれなりに成り立つ(もちろん、最終的には、あらゆる側面においてこちらの意のままになることはない、ということは、大前提として念頭におく必要がある。つまり、その最終成果物は、最低限のenvironmentally-independenceを確保していなければならない)。
さいごに、「なんだかんだいって字が大きいほうが、内容が若干専門的であれ、とりあえあず読んでみようかと思える気もします」という論点については、少なくともおれはまったくそうは思わない。おれはぎゃくに、「分かりやすさ」を銘打った「大きな字」の書きものというのは、おうおうにして本質的なところでの「分かりやすさ」を斟酌しないような、そんなものであることが多いように思うので、警戒してしまう(何かいっぱんに「分かりにくい」と思われがちなことをあたうかぎり「分かりやすく」伝えようとする場合、その「形式」ということで言えば、「小分け」にすることのほうが有効、だと思う)。もっとも、これはおれが「形式と内容」の呼応に関してべーやんより「反射的」であるがゆえの感慨かもしれないけど、ともあれ、「字が大っきいからとりあえず読んでみるか」と思ったことはおれの場合ただの一度もない(逆の場合、つまり、「字がちっちゃいから読んでみるか」と思ったことは、何度もある)ので、そう言われてもしょうじき「そうかなあ」と思ってしまう。
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