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これ観たい。

しかし同時に、こういうタレコミも見つけてしまい、じゃっかん暗い気持ちになったりもする。

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なんとなくこれ見てて思い出したのですが、犬が死んで涙を促すような物語を見ると、涙が出て感動というよりはその実際の演技してる犬がどうなってしまったのかが気になってしまって、とても感傷的にはなれない、といったことを言ってましたね。多分、保坂なら別に映画じゃなくて小説やアニメみたいな、現実では誰も死ななくたって否定するでしょうけれど。
ただそれとはちょっと関係なく、例えば犬が死んで泣くとか大切な人が死んで泣くって話が、何で人気あるのかなって妙に気になることは、相当にあります。現実の大事な人間が死んだら、とてもとても嬉しいとは思わないはずですが、物語ならなんで喜べるのか。もちろん、物語にしろ「喜ぶ」ってほど単純な感情じゃないでしょうけど、金を払ってでもそういう感情に価値があると何で人は(自分も含めて)思うのだろうか?と。
長谷部 2008/02/01(Fri)18:21:00 編集
おれの場合、そもそも「お涙頂戴もの」というか、「人が死ぬのを見て感動」みたいなのはひじょうに苦手なので(ちなみに、意味もなく人がばんばん死にまくるようなのは、大笑いしながら見ちゃったりします。あ、これもある意味、「人が死ぬのを見て感動」か)、そういうものについて(内在的とも言える視点から)何かを言うことはできないんですが、一般論として、じっさいに自分の身に降りかかったら、とてもではないけど「感動」なんてレヴェルでは受けとめられないことも、なにゆえにフィクション、というか、「人ごと」だと「感動」として受けとられ、あまつさえそういうものを金を払ってまで享受しようと思うのか、ってのは、これ、きわめて冷酷かつシニカルに見ると、けっきょく人間ってのは人の不幸が好きなんだな、と思ってしまうのだけど(ある事件の凄惨さ度合いと、ワイドショーの視聴率というのは、相関にあると思う)、ぎちぎちともっと理論的に考えようとすると、やっぱりむずかしい、というか、よく分からん、ですね。

べーやんも知ってのとおり、ここいらの機微はアリストテレス以来、「カタルシス」なぞという、これまた分かるような分からんような装置を用いて説明されたりされるんですが、そうした分析はそもそも有効なのか? かりに有効だとして、アリストテレスの時代の「悲劇」と、そしてわれわれが生きるいまの時代の相当物を同等に扱う権利上の妥当性はあるのか? もしあるとしたら、そうした受入れ状況の布置による変容はいかなる具合なのか? いろいろと疑問は尽きません。

つわけで、ここいらについての考究はまかせた!
はやし 2008/02/01(Fri)20:37:00 編集
最初の文章、よくよんだら意味不明になってました。保坂和志がそういってたってことを言おうとして、文章に挿入しわすれてました。まぁ二行目に唐突にでてくるから「いいわすれたんかな」とわかるかもしれませんが。

僕の場合は自分があまりにもそういうものを無自覚に受け止めてしまってきたってのがあるので、このことを疑いはじめてものを読むようになったって感があります。

それで「他人の不幸は蜜の味だから」というのはまだちょっと僕には納得できない、感情移入は形式的かもしれないし一時的とはいっても、登場人物に対して親密な感情を持つことだと思うものですから、ただ見ず知らずの人間が死んで抱く感情とは違うと思うのです。はやしさんが意味もなく人がバンバン死んでくのを見て笑うのは、やっぱり感情移入とかそういった感情とは別で、はやしさんが作者の意図を見てるからだと思うんです。で、お涙頂戴ものってよくいわれるように、「ほら悲しいでしょう、泣けよ」って意図が見えてしまうと急にしらけるっていうように、作者の意図をなるべく感じさせないつくりにしなくてはいけない。

ただ、現実の出来事と、「狙い」がある物語で起こる出来事はどう違うのかってのもあるので、話が混濁し、何を言おうとしてるのか自分でもわからなくなります。あー。こんなこと言わなくても、わかってる人はわかってるで済むレベルの気もするのですけどね。
長谷部 2008/02/03(Sun)16:49:00 編集
「おれがそういうこと言ったんかな? 覚えてないな。でも、言いそうなことではあるな」と思ってしまっていたのだけど、なるほど、さいしょの文章も保坂和志が言ったこと、なのね。諒解諒解。

で、「他人の不幸は蜜の味」について、だけど、これは前のコメントではおれ、けっこう乱暴に論を進めていて、何となれば、フィクティヴな場とそうではない場をきちんと分けてないんだよね。だから、そういうフィクティヴな場での「不幸」と、そうではない場での「不幸」の受容状況を峻別したうえで、でも、その受容の仕方にはおのおのに(というのは、フィクティヴな場合のそれと、そうではない場合のそれとに)固有な様態はあれど、どこかでつながった「他人の不幸」に対する向きあい方があるのではないか、というのが、おれの作業仮説。また、もしこう言ってよければ、フィクティヴな場での不幸受容を、そうではない場での不幸受容と引き比べて、どういう点が似ていて、どういう点が似ていないのか、そこを見きわめ、そして、フィクティヴな場での不幸受容に真に固有なものは何か、と問うことができる、とも思う。

でで、「感情移入」というべーやんの論点を引き受けて言えば、たしかにまったく感情移入がなければ「お涙頂戴」もへったくれもないだろうけど、完全な感情移入がなされた場合、それはそれで「フィクティヴな場での不幸」という機能は失墜する、つまり、端的に耐えがたい、あってはならない、できれば避けたい、そういうものになってしまうと思う(たとえそれが、事後的に「うそ」であると「理知的」に納得する場合であれ。ただ、このことに関しては、ある一定の留保が必要)。すると、感情移入というものは「フィクティヴな場での不幸に感動する」ということの、必要条件ではあっても十分条件ではない。まだ何かが足りない。

だから、それがフィクティヴな場で起こるものであれ、そうでない場で起こるものであれ、「他人の不幸」というものは、ある人にとっては有意にaffectiveなものでありえるが、もし、「他人の不幸」が描かれた同じ物語を、一方はノンフィクションとして、一方はフィクションとして提示すれば、とうぜん受け手の反応もちがうことが予測され、ではそれはなぜか、と言うと、やはり、フィクティヴな場では多くの場合、そうした不幸が「うそ」であることが諒解済みだから、と考えられる。

と、われながら繰り言の多い、無内容なことを語ってしまったけど、要は、その引き金が「他人の不幸」であれ何であれ、「なぜ人は感動するのか」というのは、やっぱりむずかしい問題だな、と思う。
はやし 2008/02/03(Sun)22:37:00 編集
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