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カントというのは、キャッチフレーズ的にまとめてしまえばひじょうに分かりやすいというか、それを認めるか否かはべつとすれば、その主張自体は分からないでもないのだが、いざそのテキストそのものに向きあうと、とたんに分からなくなる。

もちろん、ごく表層的な理路をたどり、そして、そういう「キャッチフレーズ的にまとめられた主張」を道標とするような地図を作成することはできる。だけれども、そうした道標と道標をつなぐ道をじっさいに歩いてみると、あるところは濃い霧がかかり、あるところは鬱蒼と木々が生い茂り、まわりの景色がよく見えない。つまり、なぜある言明Aからそれとはべつの言明Bに移行できるのか、それが分からない。

『道徳の形而上学のための基礎』を例にとって言えば、この著作は、「理性の自立」や「自由」や、そして「定言命法」といったおなじみの語彙によって「当たらずとも遠からず」といったふうにまとめうる(?)が、そうした「道標」以外のところを往こうとすると、なかなか困難な道行きとなる。

たとえば、『道徳の形而上学のための基礎』の第1章でカントは、すべての「よい行ない」というものの基礎に「よい意志 der gute Wille」というものをおく。というのも、その「よい意志」がなければ、そもそも何であれ「行ない」は「よい」ものとして立ち現れないから。そして、そういう「よい意志」は無条件で、つまりそれ自体an sichとして「よいもの」とされる。さて、ここでなされた議論は、はたして妥当なものだろうか?

まずカントは、「よい行ない」はその基礎に「よい意志」があるから「よい」と言う。ここまではいいとしよう。しかし、その「よい意志」自体の「よさ」は無条件的なので、その「よさ」はけっきょく、ひるがえってそれが宿る(とされる)「行ない」の「よさ」から推し量るしかない。だがこれは、循環してはいないだろうか?

もちろん、カントはここでそういう「基底的」な議論を繰広げたいわけではなく、そういう「よい意志」を、「一般的に認められうる、そして現に認められているもの」、つまりは「公理」として導入している、ということも分かる。しかし、カントの生きた時代は「よい意志」を「一般的に認められうる、そして現に認められているもの」として受入れられたかもしれないが、いまとなってはそれはなかなかむずかしい。

そんなこんなで、カントは分からない。

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