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哲学のそれに限らず、理論的な書きものを読むうえで大事なのは、ごくごく当たり前のことだけれども、「分かったふりをしないこと」だと思う。

ただ、これはまさに「言うは易し」ということで、何となれば、べつだん「ふり」ではなく、ほんとうに(主観的には)「分かった」と思うことでも、そのじつ「まったく分かっていなかった」ということが頻々にあるから。これはむしろ、こころのどこかで「おれは分かっていないな」と思いつつ、でも、対外的に「分かったふり」をしてしまうより、よほど警戒すべきことである。

だから、理論的な書きものの読書は、もっぱら亀の歩みで、一文一文、いや、一単語一単語をゆるがせにせず、ここで使われているこの術語はいったいどういう意味なのか、この文とそれにつづく文のつながりはどうなっているのか、ということを、たえず点検しながら進めることになる。

ただたんに、うわべの字面だけを追い、「何となく」の理解をすることは、どういう書きものであれ、それほどむずかしいことではない。だが、そういう「何となく」をこえて、「ここに書かれていることは完全に理解した」という境位にいたるのは、どういう書きものであれ、ひどくむずかしい。

そう考えると、「ここに書かれていることは完全に理解した」と言える書きものなど、ただのひとつもないような気がしてくる。

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テクストは作者から解き放たれて、読者の前で新たな意味を帯びる。私もそう思う。極論を言えば、フーコーではないが、「誰が書こうがかまわないであろう」を思い出します。本当に難しいですよ。私がはやしさんやあらけんさんとやり合ったのも、何かこのあたりの問題かなあとも思っています。乱筆乱文誤字脱字勘弁。
英司 2008/01/11(Fri)14:13:00 編集
「テクストは作者から解き放たれて、読者の前で新たな意味を帯びる」、これは「可能性」としてはまったくそのとおりなんですが、現実問題、「新たな意味」を帯びるべきテクスト群について、バルトやフーコーが「読者」を甘やかしてしまった結果、まったくお話にならないような凡庸で陳腐な読みが瀰漫することになってしまったこと(それこそ、大西巨人が「作者の側」について「俗情との結託」と言って批判したものが、読者の側で再生産されている構図)も否定できない事実としてあると思います。

そもそも、バルトやフーコーが言った「テクストを『作者』の圧政から解放すること」というのは、きわめて時代拘束的な提言であり、よく誤解されて解釈されているような「読者の野方図な読みの顕揚」とはまったく一線を劃すものです。もちろん、何をどのように読もうが、基本的にはそれこそ「読者の勝手」ではあるのですが、殊ある程度パブリックな場において、何かある書きものについてそれなりに内容のあることを言おうとすれば、一定水準での「基本了解」が前提されざるを得ないことも、また自明だと思います。

ぼく個人の見解としては、そういう「基本了解」を踏まえたうえでのみ「自由な読み」というものも十全な意味を持ちうる、と考えます。そうした了解なき、たんに自堕落な「自由な読み」なるものは、ネット上でよく言われるクリシェを用いて言えば、「チラシの裏にでも書いていろ」といった体のものではないでしょうか。
はやし 2008/01/12(Sat)07:01:00 編集
「殊ある程度パブリックな場において、何かある書きものについてそれなりに内容のあることを言おうとすれば、一定水準での「基本了解」が前提されざるを得ないことも、また自明だ」ということに関しては、確かにそうでしょう。

ここで問題になるのが「ある程度パブリックな場」というものは一体どこにあって、さらに、一定水準での「基本了解」の前提を決めるのは一体誰なのか、またはどんなプロセスなのか、ここを名指しするのは確かにその個々具体的な場で変化する(つまりは政治的にならざるを得ない)ことも考慮に入れなければならないと思うんですよね。

「基本了解」は確かにあると言いたいし、ある程度はあるといえると思うのですが、それが一体具体的に名指しできないところが今ここの問題なんだと思います。

言葉は相手に伝わっているのかという大問題がここにあらわれてくるんだと思います。爆発炎上した過去の抹殺したい事件の首謀者たる私にとってはこの基本了解がずれていたのかも知れません。今もずれているかも知れません。

乱筆乱文お許しください。
英司 2008/01/12(Sat)16:32:00 編集
「ある程度パブリックな場」というのは、その措定はけっこうかんたんで、自分以外の誰かと関わる場、と言っていいと思います。そのうえで、そういう場における「基本了解」なるものも、その生成という相で考えるのなら、それは何かア・プリオリに定まっているものではなく、そうした自分以外の誰かとのやりとりのなかで定まるもの、言い換えれば、そうしたやりとりを通して析出するもの、と言えます。

ただ、そうした「基本了解」がある程度固まった「パブリックな場」に飛び込む事例のほうが、form the scratchでそうした了解を築きながらやりとりをするよりも多いはずで、その場合はあとからやりとりに参加したものがそうした基本了解を察知する任を担わざるを得ない。その場合でももちろん、そこに伏在する基本了解に異を唱えるということもありえることですが、その場合でも、前提としてそこにある基本了解をそれとして認知する、ということが必要になるはずです。

また、「言葉が相手に伝わっているのか」ということに関して、ぼくはひでさんほどペシミスティックではなく、たいていの場合、それなりに過不足なく伝わっている、と思っています。そこで何らかの行き違いが起こったにしても、それはまあ、誤差の範囲、というものです。もっとも、「哲学的問題」として、たとえばクワインの翻訳の不可能性の問題などを持ち出して「言葉が相手に伝わっているのか」ということを「大問題化」することもできるのでしょうが、ほとんどの場合、そうした問題化は適切なものではない、つまり、場違いに問いを発している、さらには、意を尽くして相手に言葉を伝えようとし、また、相手の言うことを理解しようとするということをせずに済ませようとするエクスキューズとして用いられている場合が多いよう見受けられる、と思います。

まとめれば、「ある程度パブリックな場」というのは、自分以外の誰かと関わる場であって、そこでの基本了解は、自分と自分以外の誰か(複数でも可)が何かについて抱いている了解事項の最大公約数とでもいったもので、つまり、そこでの関わりに参与するものとそこで語られる事柄の函数になっており、そして、これはそれほど見抜くのに困難というほどのものではない、ということです。

つまり、陰画的にさらにまとめて言えば、このひでさんとぼくのやりとりにおいて、「基本了解」についての基本了解は、その外延性の相に即して言えば、(まだ)ない、ということで、こういう事態もそれほどめずらかなものではないことも、言うまでもないことでしょう。だからこそ、多くの人は何らかのことをしゃべりつづけるのです。
はやし 2008/01/13(Sun)01:55:00 編集
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