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「7+5=12」のような数学的判断は総合的でかつア・プリオリである、とカントは言う。言うまでもなく、『純粋理性批判』第2版序論でのことである。
「総合的でかつア・プリオリ」というのは、判断を下すべき命題の言葉の意味、つまりそこに現れる言葉の定義をいくらいじくっても判断を下せず(逆に、命題の意味だけを考えれば事足りるような判断は「分析的」と呼ばれる。たとえば、「誰それは独身である」という命題から「誰それは結婚していない」という判断が下せる場合など)、かつ(一般感覚からすれば、「にもかかわらず」という接続詞のほうが適当かもしれない)そうした判断が経験とは関わりなく下せる、ということを言う(逆に、経験に依存せずには下せないような判断は「ア・ポステリオリ」と呼ばれる)。つまり、数学的命題、たとえば「7+5=12」のようなそれは、「7」や「+」や「5」の意味をいくらひねくりまわしても「12」という判断は出てこないが、にもかかわらず、「7+5=12」という判断は真であり、かつ、その判断は経験に依拠せずに下せる、とカントは言うのである。
まず、「7+5=12」という数学的判断について、そのア・プリオリ性、つまり、そうした判断が経験とは関わりなく下せるか、ということを考えてみよう。たしかに、この「7+5=12」という判断は経験とは関わりなく下せる、つまり、「7+5=12」が正しいことを確かめるために、あれこれの経験を持ち出さなくてもいい(ここで注意しなければならないのは、その確認手段の習得や遂行といった「経験」の相は考えられていない、ということだ。あくまで「7+5=12」という命題の正しさには、あれこれの経験は関わってこない、ということを意識されたい)。「7+5」はいかなる状況下でも(これは、「あれこれの経験に関わらず」ということを言いかえたにすぎない)「12」であるのだ。
では、「7+5=12」という数学的判断の総合性についてはどうか? たしかに、「7」や「+」や「5」の意味を個別にいじくっていても、「12」ということは出てきそうもないように思われる。だが、「7+5」という表現の意味は、そのようにそこに現れる意味を個別に考えればいいというものではなく、あくまで「7+5」というひとかたまりの表現の意味として捉えられなければならないのではないか? すると、この「7+5」という表現の意味は、「+」の「ある項とある項を足し合わせる」という意味と「7」と「5」の意味を合わせ考えたもの、ということになり、ここから「12」が分析的に、つまり、「7+5」という表現に現れる個々の項の定義により導出される。つまり、この「7+5=12」という判断は分析的である、と思われるのだ。
現代的に、つまり、算術というものをペアノ公理系に還元して考えれば、「a+b」を「succ^a(succ^b(0))」と定義したうえで、「7+5」は「succ^7(succ^5(0))」、つまり「succ^12(0)」であり、「12」のペアノ公理系での表現「succ^12(0)」とまったく同一であり、つまり、「7+5=12」は分析的判断にほかならない。ここで、定義式そのものに「7」や「5」や「12」というメタ表現が入っているが、これらは「succ(succ(succ(succ(succ(succ(succ(0)))))))」などのsloppyな表現とする。
だが、カントは上のような分析に対して、つぎのように言うかもしれない。たしかに、「7+5」という表現は、それらをひとかたまりとして捉えるべきで、それを構成する一つひとつの要素を個別に考えるべきではない。ただ、その場合でも、「7+5」の意味はあくまで「7に5を足し合わせる」ということ、そしてそのことのみであって、そうした「足し合わせの結果」である「12」はまったく「7+5」に含まれていないのだ、と。しかし、もし「7+5」が、「7に5を足し合わせる」という「行為」あるいは「指示」を意味するのであって、そうした足し合わせの「結果」を意味しないのであれば、そもそも「7+5=12」は「偽」ではないのか?
ここで、フレーゲの「意義Bedeutung」と「意味Sinn」の区別を持ち出してみる。すると、たしかに「7+5」と「12」が表す「意義」は異なる。それは、「7+5」と「8+4」の「計算結果」は同じ(つまり、両者とも「12」)だが、それぞれの演算は異なる、と言うに等しい。しかし、それらの「意義」が異なることは、たんにそれらの「表現様態」が異なるということだけであって、それらの「意味」、つまりは「計算結果」には何の影響もない。フレーゲ的に謂う「意義」が異なることは、ある判断が「総合的」であることをバックアップするか? フレーゲの挙げる「宵の明星」と「明けの明星」の例を想起すると、「意味」は同じだが「意義」は異なるということは、「新たな発見」を意味し、つまりはそうした判断が総合的であることを支持するようでもあり、これはなかなかカントにとって心強い後ろ盾、ではある。しかし、カントその人じしんは、フレーゲ的な区別を念頭において考えを進めているわけではない。ゆえに、カント的フレームワークではなおもって、「7+5=12」が総合的判断であることに疑念が残ることとなる。
「7+5=12」は総合的判断であるか? これは、思うほどかんたんな問いではない。なぜなら、この問いは、じつは、「数学的存在とは何か?」という問いと深いところで関わってくるからだ。だから、とりあえずは、ある存在論を仮定すれば、「7+5=12」のような数学的命題は総合的であることも「ありうる」。しかし、それはあくまで「ある存在論を仮定すれば」という話であって、そうした存在論的仮定の吟味なしには判断の下せるような事柄ではない。カントは、そうした存在論的仮定については一顧だにしていない。だから、カントの「数学的判断は総合的である」との言明は、端的な間違えではないにしても、「足りない議論」ということになる。これが、カントの「7+5=12」に関する、とりあえずの結論である。
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