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感謝祭休暇中特別企画の1つとして、Paul Hegartyのノイズ論Noise/Music: A History の末尾に列挙されている音盤を、少しずつ紹介していこうと思う。
まず、このNoise/Music の著者Paul Hegartyについてかんたんに説明しておくと、このブログでもいままで何度かリファしたことのあるノイズ論でも知られる当代きってのノイズ論者であるが、じっさいの専攻はバタイユとボードリヤールとのことで(これらについての単著もあり)、現在はアイルランドの大学で哲学と視覚文化論を講じている。
そのHegartyの、ノイズに関するものとしては初の単行本となるこのNoise/Music は、そのタイトルが示唆するように、「(ノイズではないものとして捉えられたところの)音楽」と「(音楽ではないものとして捉えられたところの)ノイズ」というもののインタラクションが通奏低音になっており、互いに排斥し合いつつも、どこかで補い合っているという、そうしたアンビヴァレンツな様相がよく書かれてある。もちろん、ふつうの意味でのノイズに関する情報も満載で、あまり小むずかしいことを考えずとも、ノイズを愛する人ならだれでもたのしめるものとなっている。ただ、それなりに最近のハーシュシーンについてはちょっと手薄で、たとえばその紙面に名前が見出されてしかるべき人たちの名前(たとえば、マクロニンファなど)がほとんど見出されない。これらに関しては、今後の研究が期待される。
さて、本題のディスコグラフィーは、本文でふれられた音盤がざっと180枚ほど列挙されており、本文と合わせて参考になることは言うまでもない。ただ、今日紹介する分を見てもらっても分かるとおり、すべてがいわゆる「ノイズ」というわけではなく、むしろ、それと対立すると一般的には考えられる「音楽」との交感が顕著な音盤がおもに挙げられている。また、あるアーティストの音盤を紹介するにも、「歴史的重要性を鑑みるとどう考えてもそのディスクではないだろう」というものが挙げられてもいたりするが、それはこちらのほうで適宜補っていきたい。
Absolutely Freak Out Acid Mothers Temple & The Melting Paraiso U.F.O. (Static Resonance, 2001) |
想い出波止場の活動でも知られる津山篤が中心になって結成された(と書いたあと、ちゃんと調べてみたら、リーダーは河端一氏のようだ。河端さん、失礼しました)、スーパーフリークアウトユニットの2001年発表の2枚組。AMTの音盤はどれを聴いてもニヤリとさせられる仕掛けが満載で、肩肘張らずにリラックスしてたのしめる。と同時に、あんがいヤヤコシイというか、うならされるようなこともやっていたりするから、油断ならない。このアルバムに限らず、ジャケやアルバムタイトルなどにも、思わずツッコミを入れたくなるような仕込み(しかも、あまりひねりのない豪速球なやつ)がなされており、それも毎度たのしませてくれる(俺が個人的に好きなのはこれとかこれとか)。
Noise/Music のなかでAMTがふれられるのは、ジャパノイズにおけるヴォリューム(音量)概念についてのセクションで、これ自体、日本人の空間表象と比較して論考がなされていたりしてじつに興味ぶかいんだけど、AMTに関して言えば、音量云々という話よりも、「日本のノイズはきわめてrock-oriented」ということに関連してその名前が挙げられていました。ちなみにHegartyは、日本のノイズはrock-orientedにしてもふしぎにパンクからの影響がないとも言っていて、そう言われりゃそうだな、と思った。欧米のノイズは、多かれ少なかれ、パンクの流れは汲んでるもんね。
Vibing Up the Senile Man Alternative TV (Get BAck, 2002) |
このアルバムは、Noise/Music のなかのineptness(不器用さ、場違いさ)についての章のなかで挙げられていて、Hegartyはこのアルバムを、のちのインダストリアルミュージック(もちろん、TG的な意味でのそれ、ね。ほんと、この概念について雑な人が多すぎる)に連なるものとして位置づけています。まあ、たしかに、ノイズってのは、多くの音楽に見られるヴィルトゥオジティ志向みたいなことに対するアンチテーゼって側面もなきにしも、かもな(だからこそ、少なくとも欧米ではパンクとノイズの親和性が高い)。それにしても、ひさかたこのアルバムを聴きかえしましたけど、じつに瑞々しい音がつまっているアルバム、だな。
Transspray Alva Noto (Rater-Noton, 2004) |
たしかに、Alva Notoのこのアルバムは、ラスタノトンからのTrans3部作(いずれも必聴盤)のなかでは、いちばん「ノイズ度」が高い。Hegartyはこのアルバムで顕著に聴かれるようなグリッチサウンドについて、伝統的な意味では音楽を「分断するもの」としつつ、それが「楽音」として再回収されるさまを述べている(そうしたグリッチサウンドは、いまではもはやポップミュージックにも、「それ風なもの」として回収されていることは、明らかだと思う)。また、HegartyはAlva Notoの名前を、カットアップサウンド、ひいてはそうしたサウンドが持つ「不確定性」というアスペクトを論じる部分で引き合いに出していたりするけど、これはちょっとミスリーディングじゃないかなあ。
AMMMusic AMM (ReR, 1989) |
これは以前にもフリーミュージックについてのエントリで紹介した。Hegartyも当然そうした文脈でAMMについて語っている。ただ、AMMに関して、じつはいちばんノイズとのつながりが大きいのではないかと思われるキース・ロウのプリペアドギターについてそれほど言及がない。ともあれ、AMMが扱われるフリーミュージックについての章では、「音楽における弁証法」というテーマがかなり前面に出ており、なかなか厄介なことになっている。
Quadrotaion Aube (Self Abuse, 1996) |
Sensorial Inducement Aube (Alien8, 1999) |
ざんねんながら、オウブのこれらの作は聴いたことがないのだが(メルツバウにはるぐらいのリリースがあるので、とてもではないがフォローしきれていない)、おれが聴いたことがある範囲では、ひじょうに静謐な音像からはじまり、徐々にバーストしていくイメージ。Noise/Music のなかでは、ノイズの物質性/身体性といった文脈で語られていますが、これはたしかに、納得できる(たとえば、「もの」としての作品という側面からここで挙げられたマテリアルに関して言えば、Quadrotation はヴァイナル4枚組でそれぞれちがうカラーヴァイナル、Sensorial... はヴァイナルの内側から外側に向けて針が動くようにプレスされている。ちなみに、Spacemen3のDreamweapon も、ヴァイナルはそのような仕様になっていた)。
Bells Albert Ayler (ESP-Disk, 1965) |
これはNoise/Music のなかでは当然フリーミュージックに関する章でふれられているわけだが、ともあれ、フリーミュージックのなかでもいわゆる「フリージャズ」と呼ばれる音楽は(人によっては「フリージャズ」に「フリーミュージック」一般が包摂されるのだ、と言いそうだが)、完全に「フリー」なわけではなく、ところどころトラディショナルな音像も出来し、その折衷加減がいい意味でもわるい意味でも、びみょうだ。ともあれ、このフリージャズのセクションは、「フリージャズは、バタイユの言う意味での至高(なるもの)である」とのステートメントも飛びだしたりして、フリージャズに詳しい人はここいらをどう思うか、ぜひ聴いてみたい。
Improvisation Derek Bailey (Cramps, 1975) |
これは、デレク・ベイリーについてものしたエントリで紹介済み。べーやんはかつて(いつも引き合いに出してすまんね)このアルバムにふれて「素人の物まね演奏を入れられてても『やぁやぁ、さすがはデレクベイリー』などといってしまいそう」と言ったけど、今回それなりにひさしぶりに聴きかえしてみたところ、とてもではないが「素人」にこれはちょっと演奏できないと思う。平たく言えば、地の演奏技術は、相当高い。まあ、そもそも、これも何度も言っているように、そういう地がないと、「フリー」もくそもないわけで。
で、Noise/Music でのふれられ方は、当然フリー文脈でのセクションで、なんだけど、ベイリーはインプロヴィゼーションについての本(翻訳もあり)も出してるだけあって、かなりリファされてます。というか、引かれてる文章を読んで、これは一度ちゃんと目を通しておかなければな、と思ったです。
Erosphère Francois Bayle (INA-GRM, 1982) |
コンセルヴァトワールでメシアンに、ダルムシュタットでシュトックハウゼンに師事し、シェフェールからGRMの責任者に任命されたという、斯界のサラブレッドのような人。Noise/Music での扱いも当然そうした文脈でのことで、とくにテクノロジーとの関わりでふれられている(BayleはGRMで、各種音楽技術の研究開発を押し進めた)。ただ、その音は、しょうじき「お行儀がよすぎる」と思う。
Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band The Beatles (EMI, 1987) |
ビートルズはその作品のなかで、積極的に当時最新鋭だったテクノロジーを援用してきたことは夙に有名だが、Noise/Music のなかではそうした「新奇さ」が、「ノイズ」としてコンテクストをぶち壊すのではなく、ほどよく既存の文脈に回収されてしまう一例としてビートルズ、とくに上記Sgt. が挙げられている。ただ、それが「ノイズ」としてどうか、ということはともかく、ビートルズや、そしてビーチボーイズが打ち立てた「楽器としてのスタジオ」という見方は、ノイズをも飲みこむひろい意味での「ポップミュージック」を考えるうえで(ノイズも「大衆音楽」であることに異論はあるまい)、重要であることに変わりはない。
何だか、けっこう大変な仕事に手を付けはじめてしまったような気がする。
で、デレクベイリーに関してはもちろん僕の理解のなさが問題なので、いささかなりとも「こんなの適当だ」と本気では思ってないんですね。例えば今僕もImprovisation聴きなおしてみるに、ハーモニクスが多用されていたり、パターンもある程度意識された上で構成されている感があるのはわかりますし。それでも、デレクベイリーが評価された理由を正確には理解してるとも思いませんが、それはともかく。
ただ、技術ってもともとフリーであることと対極にあるものという気もします。技術には正解と間違いがあって、正解を覚えて再生できるように訓練するものだというのが、一般的理解だと思います。それでそういったものから何らかの意図で、なるだけ乖離しようとする場合、技術とどう折り合いをつけて「技術がある」「ない」を区別できるのだろうか、ということに興味があります。もちろんこの構図はあまりに短絡的で、というか調性や特定の拍から回避することがそのままそれまでの音楽的技術を否定することにはならないわけですよね(おそらく)。
ですが、そこで、素人のでたらめとまず絶対に違うはずだと言える何らかの認識は、どこにあるんだろうと考えてしまいます。実際、スカムと呼ばれる音楽郡には物凄いインパクトを与える音楽もありますし。別段、ノイズを聞いているときにそんなことあんまり考えないからどうでもいいといえばどうでもいいですけど。
うーん、言いたいこと考えてることがあんまりまとまらないですね。
僕自身は、フリージャズに詳しいとはとてもとても言えません。でもアイラーはとても好きです。もしかすると、今まで聴いたジャズの中で、アイラーの演奏が一番好きかもしれません。(その他のいわゆる「革新的なジャズ」を聴いたときによく拒絶反応のようなものを感じるのですが、アイラーの演奏を聴いたときには何故かそれが一切なかった、しかもぐいぐいと引き込まれてしまったので。)
"Bells"については、行われていることを「折衷」と言ってしまってよいものかどうか解りません。もしかするとジャズ一般についても言えることかもしれませんけれど、たんにトラディッショナルな素材をもちいて新しいことをやってるだけなのではないでしょうか。僕には折衷どころか、全面的にトラディッショナルなものに聴こえます。
(たとえば"Spirits Rejoyce"や"Ghost"を初めて聴いたとき、百年も千年も前の曲を演奏しているように聴こえたものです。これらの曲がアイラーの作曲によるものとわかったときは、驚きました。)
でもアイラーがそのような演奏をするからと言って、フリージャズがバタイユの「至高なるもの」と帰納的に一言で言ってしまうことはかなり難しいように思われます。
「至高なるもの」を人に至高性を与えるものと解するなら、とくにフリーである必要もジャズである必要も見当たらないように思います。果ては音楽である必要もなくなってしまうのではないでしょうか。
というのは、ここでもし、たとえば「フリージャズが至高なるものであるということはジャズの文脈において該当するのだ」というように、ある種の文脈にプロセスの出発点を限定してしまうのであれば、演奏がたとえ至高性をもっていたにせよ、語られたときには「至高」どころか僕が上で述べたような好き嫌いや拒絶反応のあるなしについてのような、たんなるXさんにとっての個人的な話に格下げされてしまうように思います。そこで語られた「至高なるもの」は、他の文脈に触れたとたん(バタイユのいうように)「パンよりもなお必要」であることは出来なくなってしまうかもしれません。
逆に上記のような文脈から離れて、フリーになるという言い方を、至高性を与えるものへとよりいっそう接近しようという運動を表したものとして理念的に解するのであれば、たしかに納得しうる宣言となるのかもしれません。しかしこの場合においては、そのための無数の方法のうちでジャズであることの必要性が消えてしまうように感じられます。(それではやしさんは「フリーミュージック」という言い方をしているのだと思ったのですが。)変な話になって申し訳ありませんが、たとえば日本人にとってパンよりもなおおにぎりが必要であるとしても、それはおにぎりが人一般にとって「至高なるもの」であるということにはどうやっても結びつかない話だと思われます。
どちらにせよバタイユの話に踏み込む以前に、フリージャズを「至高なるもの」と一般化することは難しいと考えております。
僕は未読なので申し訳ないですけれど、たとえNoise/Musicを精読し、列挙された音源をすべて聴いたとしても、フリージャズについては「イイ線いってる」とまでしか言えないのではないかと。
長文失礼しました。
ここから、ベーやんが指摘している「技術とフリーであること」という論点への、あるひとつの視座が定められる。つまり、上で言ったような「フリーミュージック」においては、技術(ベイリーの言葉づかいで言えば、イディオマティックな演奏)を回避するためには、まずそうした技術を知悉していなければならない。だから、Hegartyは、フリーミュージックを語るのに、(ある意味)正当にも「弁証法的」という言い方をするわけだけど、つまり、たんじゅんな「技術の否定」ではなく、「技術」という定立がまずあった上での「非(「反」ではない)技術的演奏」がフリーミュージックの根底にある、と言える。そして、こうした「弁証法的」なプロセスを得た「非技術的演奏」と、たんなる「素人のデタラメ演奏」のちがいは、それを明確に語るのはむずかしいかもしれないけど、じっさいのところは「聴けば分かる」というたぐいの話だと思う。
ただ、うえで言ったようなことと、じっさいに出てくる音のよしあしというのは、じつはほとんど関係がなく、技術も押さえたうえで、そうした技術から流れ出る「イディオマティック」な演奏を回避しおおせても、ダメなものはダメだし、ぎゃくに、初期衝動しかないような「素人のデタラメ」が、ときに言いようのない力をもって迫ってくるということもたくさんある(おれ個人としてはむしろ、そういう「初期衝動しかない素人のデタラメ」のほうが好きだ)。たぶん、べーやんはどこかで、音楽についての記述的なレベルと価値判断的なレベルを混同しちゃってるんじゃないかな。
さて、それで問題の「フリージャズの至高性」について、ですが、ぼく自身、フリージャズについてももちろん、バタイユが「至高(性)」ということで何を言おうとしているのか、いまひとつよく分からないというのがしょうじきなところなのですが、大略つぎの3側面においてその概念を理解しています。
1. 不可能性
2. (ヘーゲル的「主人と奴隷」の)弁証法の転倒
3. 自由
(これらは、言うまでもなく多分にデリダを通じて受けとられたところの解釈なのでしょうが、こうした格子を通してバタイユそのものの著作を読んでも、それほど「外している」と思ったことはありません)
そのうえで、これらの分析的に捉えられた「至高性」概念を、Hegartyが言うところの「フリージャズ」概念に適用してみると、「不可能性」については、「フリージャズ」がじっさいに「フリー」であることの不可能性、つまり、べーやんへのレスで言った2種の「フリー」の意味を考えると、そうした意味においてフリージャズがフリーであることのむずかしさ、ということが言える、と思います。つまり、「自由にジャズをする」という意味にしても、「既成の、決まりきったジャズ概念からの自由」という意味にしても、「フリージャズ」という呼称を持つからにはどこかで「ジャズ」というもの(ちなみに、ぼくが「トラディショナル」ということで表象したかったのは、こうした「既成の、固定化されたジャズ像」のことです)との関わりを持たねばならぬわけで、となると、前述のフリージャズの「フリー」さと、フリージャズが「フリー」でありながらなお「ジャズ」であるということとは、のっぴきならない緊張関係におかれることとなる。要するに、原理的には、フリージャズは自らの存立基盤をあやうくすることでしか存在しえないのです。
つぎに、「弁証法の転倒」について言えば、これはじゃっかんの歴史的経緯がからむことになります。というのは、つまり、「フリージャズ」といまでは記号的に呼ばれることになる音像が現れる1960年前後は、「ジャズ」という音楽形式がかなり固まり、それに応じてその演奏がある種のヴィルトゥオジテ、つまりそれなりにステディな技術のうえに立脚する音楽として立ち現れ、そうした技術のよどみなさやゆらぎのなさがある意味「当為」としてプレイヤーに要求されていた。しかし、容易に分かるとおり、「音楽」というものは専一に「技術」(少なくとも、当時マジョリティが要求していた位相での技術概念)に還元され尽くされるものではない。音楽に限らず、ひろく「藝術」と言われるいとなみの要は、それが狭義に言われる「技術」に立脚していようがいまいが、ある「名づけえぬもの(=表現できぬもの)」を表現しようとすることにある。ゆえに、1960年前後の時代状況において、言うなれば「エスタブリッシュメント」としての「ジャズ」に叛旗をひるがえし、ジャズが(それぞれの演奏主体にとって)それそのもとしていまいちど現れるために、そうしたエスタブリッシュメントとしてのジャズが抑圧していたものを解放する必要があった。こういうわけで、技術至上主義的な「主人」としてのジャズに対する「謀反」としての「フリージャズ」というアスペクトが捉えられることになります(Hegartyはさらに、アドルノのジャズ批判、つまりアドルノの言う「ジャズの似非プリミティヴ」に関連してこうした「主人=奴隷」関係を考えているふしもありますが、ここでは割愛します)。つまり、言うなれば、「フリージャズ」とはジャズ界における「パンクムーヴメント」だったのです。
さいごに、「自由」というポイントに関してですが、これは「不可能性」というアスペクトと、じつはかなり関係しています(まあじっさいは、すべての点がすべての点と、分ちがたくからみあっている、のですが)。つまり、「至高性」という概念で言われる「自由」は、「何らかの有用性概念のもとに捕われた『生』の解放」ということを意味すると思うのですが、こうした自由はひるがえって、当の「生」そのものに脅威として立ち現れることになる。というのも、「生それ自体にとっての有用性」ということも、この「自由」は打ち捨てることを要求するのですから。しかし、当たり前のことですが、「生」がなければ「自由」もない。しかし、「生」を「生」として、つまりバタイユの言う「至高性」として「生きる」には、そうした有用性一般を拒否する必要(というより、より厳密には、自らの生そのものをすら打ち捨てることの自由を担保することの可能性、と言うべきでしょうか。ここで、『法哲学』におけるヘーゲルの「自殺の肯定」を想起するのもむだではないかもしれません)がある。ここには明らかなジレンマ、不可能性があるわけです(zzyさんが出された「パンよりもなお必要」ということは、けっして端的な「生の否定」を意味するのではなく、「至高性」という、「生を駆動させつつ、それに対するのっぴきならない脅威となるもの」ということを表すために言われた文言だと思われます)。ゆえに、「フリージャズ」とは、ジャズがジャズであるために、それそのものの解体の危険も顧みず決行された「命がけの跳躍」、つまり「自由の行使」であると言えると思います。
このように、「フリージャズ」における「至高性」、あるいは、ごくかんたんに言ってしまえばその「自由」を捉えると、ぼくがフリージャズに見出す「びみょうさ」もいくらかその言わんとするところがお分かりいただけるのではないかと思います(繰り返しますが、ぼくは本文において、専一に"Bells"について語っているわけではまったくありません)。つまり、フリージャズを演奏するには、ほんとうは相当な「覚悟」が必要であるのに、そうした覚悟もなしに、それこそ1960年前後にある一群の人びとが叛旗をひるがえさんとした「エスタブリッシュメント」として「フリージャズ」を受けとり、技術的に再現可能な範囲で「いかにもフリージャズ」な音像が繰り広げられ、ほんらい同居できるはずもないものが同居している。そして、そういう「同居」は、ものによっては「いい意味」で、ものによっては「わるい意味」で捉えられ、そこらへんはやはり、何とも「びみょう」なわけです(この点については、また稿をあらためて考察すべきことです)。
あと、付け足しめきますが、Hegartyの"Noise/Music"においてフリージャズがふれられているのは、書誌などをのぞき200ページほどの本文中、わずか6ページ足らずに過ぎないので、ゆえに、そこにある記述を読んでもzzyさんが言うように「イイ線いってる」どころか、そうした「イイ線」のとば口にも辿り着けないのではないか、と思われます。あくまで、ノイズに連なる音楽史上、フリージャズがどう位置づけられるかの記述に徹しているわけです。
といった感じで、きわめてHegartyに好意的な線でまとめてみましたが、いかがでしょうか?
それでアルバートアイラー、それと例えば今聴きなおしてるチャーリーへイデンのリベレイション・ミュージック・オーケストラもそうなんですが、フリージャズといいながらも相当素朴な音楽ですよね。それこそトラディショナルと表現したいほどメロディアスですし。
そういう意味で、なにかトラディショナルなものと解体されていくものの対立構造のようなものは、実際明確にあらわれてますね。まぁ、パンクの現れた文脈と本当に重ね合わせてもいいのかどうかとも思いますが。アドルノのジャズ批判もあわせて、この辺りも気になります。
あと、これはzzyさんへのレスでも書いたことだけど、おれが本文で用いた「トラディショナル」という言葉は、むしろ「エスタブリッシュメント」とか「オーソドキシー」と言い換えられるべきもので、そういう意味でない(べーやんやzzyさんが用いているであろう意味での)トラディショナルさというのは、フリージャズにあってむしろ重要な構成要素だと思う。というのも、そうした「素朴」と言ってもいいトラディショナルさ(たとえば、ここで挙げられている"Bells"9分あたりで聴かれる直球のマーチっぽさとか、さっき聴いていたオーネット・コールマン"Dancing in Your Head"のビビるくらいあっけらかんとしたテーマとか、もちろんLiberation Music Orchstraの「それジャズじゃなくってスパニッシュだろ!」と思わずツッコミを入れたくなるような音とか)ってのは、時代状況的に、おれの言っていた「トラディショナルさ」、つまりオーソドキシーからは排除されていたもの、だと思うんだよね。だから、そうしたトラディショナルなものを臆面もなくほがらかに演奏できちゃうってのも、フリージャズのフリーさのうち、と思われる。
だから、まとめると、おれの考えとしては、フリージャズは、いわゆるトラディショナルとは対立するものではなく、むしろそれを積極的に取り入れる傾向にあったということと、フリージャズの、オーソドキシーとしての「ジャズ」に対立する姿勢というのは、何らかのオーソドキシーに対する対抗という意味で、パンクの成立に近いものがある、ということだな。
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