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ものを考えたり知ったりすることはおもしろい。それ以外に何かを考えたり知ったりするどういう理由が要るというのか。
もちろん、ごくプラグマティックに、「何か」のためにものを考えたり知ろうとしたり、ということはある。そんなことは言うまでもなく当たり前のことだ。だが、そのことはけっして、考えること、そして知ることそれ自体のおもしろさをなきものにはしない。さらには、考えること知ることそれ自体のおもしろさと、それ自体が目的とされているわけではない考えることや知ることといった在り方は、「あれかこれか」的に背反するものでもない。人が生きるということは、たのしくおもしろいことをもっぱらにしたいと思いつつも、そうではなく、取りたててつらい苦しいというほどのものではなくとも「べつにこんなことしなくて済むならしないんだけどな」ということを含みこむ。それも、言うまでもなく当たり前のことだ。
それなのに、人はおうおうにして「あれかこれか」の思考に陥り、かたや「考え、そして知ること」の純粋性を称揚して「実用性」を貶めにかかるものがいると思えば、「役立たぬこと」に極度のおそれをなし「たんじゅんに考え、そして知ることをたのしむ」ことに安穏な貴族趣味しか見出さぬものもいる。どちらも偏頗であることに関しては、撰ぶところはない。しかしじっさいの現状は、そう竹を割ったように劃然としたものではなく、ほんらい考えること知ることのおもしろさをひたすら言い募っていればいいような人たちまで、みずからの言説に「実用性」という「箔」を付けようとする光景がまま見られるという、ねじれた様相を呈している。言うまでもなく、「学」と名のつく領域での話だ。
近年、うそかほんとうかは知らないが、いわゆる「学的」なものの「権威が失墜している」そうである。「権威が失墜している」とは、言いかえれば、昔日ほどの訴求力がなくなった、ということだろう。そして、そうした「訴求力がなくなった」分野は、日本的に言えば「理系」よりも「文系」、その「文系」のなかでもせまく「文学部」と呼ばれる区割りに区分されるものほどその程度がいちじるしい、とされる。これは、もしこうした事情がほんとうだとすれば、それもそうだろうな、と思わされる。何となればそうした分野にいる人たちはみずからの本分を、なかば意図的に取りちがえ、虚偽広告すれすれの宣伝活動に身をやつしてきた、と思われるからだ。そうした「虚偽」の最たるものが、上で言ったような、ほんらい「実用性」とはまったく無縁なところで評価されてきたものをむりくりに「実用性」で売ろうとすること、であるだろう。
なぜ人はそれほどまでに役立たぬもの不毛なものをおそれるのか、ほんとうにふしぎだ。そういう彼ら彼女らだって、四六時中「役立つこと」や「有益なこと」ばかりをしているわけではあるまい。たんじゅんに「役立つこと」や「有益なこと」がもっぱらとされる状況に辟易し、役立とうが立つまいが、ただただたのしくおもしろいことに身を浸したいと思うこともあるはずだ。そして、そういう「たのしくおもしろいこと」がたまさかときに「学的」と呼ばれるもの、とくに「ものを考えたり知ったりすること」であってわるいはずがない。世に「学的」と呼ばれているものは、じつは、世に「娯楽」と呼ばれているものによほど近しいものなのだ。音楽や映画や美術を「役立たず、不毛」と貶める人は、昨今それほど多くない。だとすると、それらが「役立たず、不毛」と貶められはしないのとまったく同じ理由で、いわゆる「学的」なるものも、貶められるべきではないのだ。
そもそも「学者 scholar (E.)」とは「暇人 scholaris (L.) < skhole (Gk.)」の謂いであることを、すなおに、真正面から認めてしまおう。そして、そもそも人がものを考えたりなんぞということを始めたのは「暇になったから」、つまり「役立つこと」や「有益なこと」という、生きるのに必要ではあるけれど大してたのしくもおもしろくもないことは奴隷に押しつけたから、ということも認めてしまおう。だとすると、じゃあ、「学者=暇人」は、いまでも「ふつうに働く人=奴隷」に「生きるのに必要ではあるけれど大してたのしくもおもしろくもないこと」を押しつけているのか、ということになるように思えるかもしれない。そして、そのように考えうることがまた、「学者」というものがよく思われない理由だったりということも、大いにありうる。たしかに、全人的に必要なことを、あるものだけがそれに従事し、あるものはその果実だけを簒奪するというのは、あるまじきことだ。しかし、繰りかえせば、「学者」という「暇人」は、その「暇」を活かして「娯楽」に現を抜かす、音楽家や映画作家や美術家と同じ位相に存在する。問題は、だから、あまたの音楽家や映画作家や美術家とはちがい、学者はそのやっていることを、「おもしろくたのしいこと」として提示できていないことにあるのだ。
ものを考えたり知ったりすることはおもしろい。それ以外に何かを考えたり知ったりすることが存続すべきどういう理由が要るというのか。それを言い、そして「示す」こと、それがいまいちばん必要なことだ。
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