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「レオナルド・ダ・ヴィンチ−天才の実像」展@東京国立博物館に行ってきた。今回の目玉は、やはり何と言ってもウフィッツィからやってきた「受胎告知Annunciazione 」だ。
それなりに厳重な身辺チェック(金属探知機までくぐらされる)を経て会場に入ると、遠方にこの作品が鎮座ましましているのが見える。こうした「ファーストコンタクト」というのが、この手のœuvreにふれる、いちばん「グッ」とくる瞬間だ。とくに、今回のレオナルドの作品のように、それなりの時をへだてたものとの対面となると、ちょうど古典ギリシア語で書かれたものを読むときのような、奇妙な、空恐ろしい感覚におそわれる。
ただ、こうした厳重警備が敷かれた展覧会に行くたびに思うのだが、ゆっくりと落ちついて作品と対峙する、という環境では、ない。「待ち時間なし」とはいえ、やはりそれなりの時間を要して絵画の真正面に行くと、そこに足をとどめてはならぬと警備員から注意もされる。これではデターユをゆっくりあじわう暇など、あろうはずがない。
それでも、実作にふれる、というのは、ふだん漫然と画集で作品にふれるのとは違う、強度ある体験であるし、何とはなしに考えていたことも結晶化される。そうした、実作にふれて結晶化した感想を、三つほど。
一つ。超自然的要素の欠如。もちろん、画面に「天使」が現れている時点で「超自然的」ではあるのだが、それにしても、同年代に描かれたあまたの受胎告知画に見られる、定型的な超自然的要素が、このレオナルドのそれには見事なまでに欠けている。つまり、天空にたたずむ神、そこから発せられる受胎光線、そして、マリアに宿らんとする「精霊」の象徴たる鳩(こうした要素が揃い踏みしたものとして、たとえばボンフィーリのそれを参照)。レオナルドはあきらかに、こうした要素を意図的に描かなかったのだ。
二つ。感情表現の控えめさ。バクサンドールが言うように、この受胎告知という画題が取られたルカ書の該当箇所からは、「戸惑い」、「思慮」、「問い」、そして「受け入れ」というマリアの四状態が抽出され、このうちのどれかの身振りを描くというのが当時の受胎告知画のならわしであったが(それぞれの典型については、たとえば、ボッティチェリ、フィリッポ・リッピ、バルドヴィネッティ、そしてフラ・アンジェリコのそれを参照)、レオナルドのそれは、そうしたマリアの四状態のうちのただ一つには決めがたい。
三つ。線遠近法表現の控えめさ。レオナルドが活動した15世紀は、線遠近法表現の確立期であり、同じくこの時期に受胎告知画を描いた画家たちは、当然これにも線遠近法を強調的に用いている(たとえば、ピエロ・デッラ・フランチェスカによるペルージャ祭壇画上段の、吸い込まれそうな円柱の連なり)。だがレオナルドはここでも当時の流行りに反旗を翻し、線遠近法でではなく空気遠近法で絵の奥行を表現している(線遠近法という観点から見れば、このレオナルドの作品ははっきり言って「失敗作」である。たとえば、イザヤ書におかれるマリアの手は、線遠近法から言えば「間違っている」)。
まとめると、レオナルドが20代前半に描いたこの絵には、若者らしい「当世流行り」への反逆のしるしがこめられている。たんに「静謐」というにとどまらぬパッション、それはやはり実作にふれることで、よりつよく思えたことだ。
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