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高橋源一郎『ニッポンの文学』を読んでいたら、次のような文章に出くわした。
誰も、無価値な人間に思われるように、できるだけ下手な文章を書きたい、といわないのはなぜか
高橋源一郎『ニッポンの文学』180ページ
ここではいくつか考えるべきポイントがある。まず、なぜ人は「無価値な人間」と思われたくないのだろう。また、無価値な人間に思われるためには下手な文章を書けばいい、という前提を認めるとすれば、逆に、価値ある人間に思われたければ上手な文章を書けばいい、ということで、つまり、文章の巧拙と、人としての価値の有無が相即的であるという想定が裏に潜んでいるが、それはほんとうか。
第1の点は無視する。まず、「文の巧拙」と「価値の有無」の聯関について考える。とりあえず言ってしまえば、「上手い文章」を書くというのは、じつはそれほどむずかしいことではない。「文章の上手さ」というのは大部分、技術的な問題であり、ゆえに、伝達もそうむずかしいものではない。しかもたいていの場合、「文章が上手くなりたい」と思っている人のおおかたは、それなりに「上手い」文章をすでにして書いている。つまり、文章が上手くなりたい、ということを伝えうる程度には、その人たちは文章が「上手い」のだ。
上で「文の巧拙とは大部分技術的な問題だ」と言った。それはそうだ。ただ、「大部分」ということは、文の巧拙の決定にあずかる、技術的ではない問題が存在することを示唆している。いや、文の巧拙にあずかる、という言い方は、よくない。くりかえすが、「上手い文章」を書くことはそれほどむずかしいことではない。だが、「いい文章」を書くことは、それなりに、もっと言ってしまえば、かなりむずかしい。そうした「文章のよさ」は何によって得られるのか。問いはここにすべってくる。
それは、文の巧拙という技術的な問題には還元されきれない。もちろん、言うまでもないことだが、「人生上の実体験」などというのも、「文章のよさ」とは何の関係もない(「文章のよさ」と「人生経験」のあいだの聯関を認める心性と、「文の巧拙」と「価値の有無」のあいだの聯関を認める心性とは同じものである)。なんにせよ、技術的な問題と「よさ」の問題は、じつはそれほど関係がないのだ。とすると、いっぱんに言われる「価値」なるものと、何らかの表現からわれわれが受ける「よさ」のあいだの聯関もあやしくなってくる。
これは個人の資質、あるいは好み、ということも大きく関わってくるかもしれない、ということをまず言っておく。だがそれでも、無価値だからこそよいのだ、と言いうる場合が、うたがいなく存在する。いや、「よい」という、「価値」の位相に回収されかねない言い回しからしてよくない。何と言っていいのだかよく分からない、それこそ「いい」だの「わるい」だの言いうる手前の、何か。そういうものが存在し、そしてそれは、あったほうがいい、を踏みこえて、あらねばならぬ(このことの詳細は、このブログにおいて姿かたちをかえつつも、幾度となくくりかえしてきたことなので、ここでは絮言しない)。
技術的なことに習熟したければ、すればよい。人生経験をつみたければ、つめばよい。それはいずれもそうわるいことではない。ただ、そうした技術的なことも経験的なことも超脱した、ひたすら現在的な何か、「危機の瞬間にきらめく」何かをこそ捉えなければ、何のための表現か。
(時間がないってのもありますが、ご本人の意思を尊重して、永遠小僧さんのところにあえてコメントを書いていないってのは事実です。)
って、はやしさん、申し訳ない。時間がなくて、考えがまとまらんかったよーーー。あほあほあほ。ごめんちゃい。
リーマン侍さんも読書会のほうで書かれておられましたが、町田康は江戸文化に造詣が深いと思うんですが(特に落語は相当聞いてるみたいですね)、本人の資質も多分にあるとは思うのですが、そこから受け取ったものの一つとして戯作・諧謔の精神があるかと思います(石川淳、坂口安吾、野坂昭如、それに筒井康隆を入れてもいいんのですが、彼らからの影響はそのような精神と、文体的なものなのではないかと考えています)。あとは私小説の系譜の延長線上にあるのも確かで、それをあれだけ魅力的なものに仕上げてしまったことに、驚きました。
もっとも最近は三人称も使い始め(芥川賞受賞前後までの彼の小説はすべて一人称だったかと思います)、文体もやや単純化させて、過去形の「た」を多用しはじめたりもして、初期の頃とは単純に比較できず、それにわたしは最近きちんと小説を読んでいない(ああ……)!
永遠小僧さんのブログの文章なのですが、一文が私のように悪文ゆえに長いのではないのに、結構長いのが多くて面白いです。長い文章は普通読みにくいものですが、永遠小僧さんの長い文章はすーーと読めちゃいますね。町田も、長い文章が芸になる人だと思います。
作風として、「きれぎれ」前後で、ちょっと断絶があるのでしょうか。指摘を受けるまで、全く気がつきませんでしたが、確かに一人称が、三人称になっていますね。私小説で三人称を使うのは、特段何事でもないとは思うのですが、最近は町田の「堕落」の描き方が変わってきたんじゃないかと思っています。初期は、「自分」の「堕落」を書いて、今は「社会」の「堕落」を題材にして「堕落」を描くようになってきたのかと。
「告白」とか、まだ、沢山読まなきゃいけない著作を読んでいないので、何もえらそうなことは言えないのですが・・・。
文章を「いい」と思う、という側面ももちろんありましょうが、ただ、それなら基本的に自分の文章は自分で「いい」と思うことが多くなければならず、たいていの人は自分の文章をそれほど「いい」とは思っていないはずで、また、自分の考えから遠い、つまりその「異質さ」ゆえに、ある文から「何か」を受け取ることはあるはずで、だから、自分の考え発想との近さ遠さで文の「よしあし」、もしくは衝迫度をはかるのは、ちょっと限界があるような気もします。
>文の巧拙とは大部分技術的な問題だ
>文章が上手くなりたい と思っている人のおおかたは、それなりに「上手い」文章をすでにして書いている。
というのは事実だと私も以前から思っていました。
それにしても、読み手に対して適確に言い分を伝えるというのは、本当に難しいものですね。
それは、たとえ読み手が
>それなりに「上手い」文章をすでに書
いているような人達であったとしても です。
読み手に誤解を招かぬ文章を書くにはどうしたら良いかについてかなり考え込みました。
それで、私の(「読書会のエントリ」の)文章は昔よりは大分ましになったのではなかろうかと自分では思っています。
ところが不思議なもので、その見返りとしてか?? 今度は、私が来訪者として書きこもうとしたコメントを、ほとんどというか全部といっていいほど書き込む直前に没にしちゃうという癖がついてしまったのです。
自分で「これならまだしも許容できるだろう」 というレベルのコメントが、未だ全くといっていいほど、何一つ書けないのです。
ブログ主のみならず、第三者にもすんなり理解していただけるコメントを書くというのは、本当に至難の業なのだなと、痛感しています。
第三者は、勿論、ブログ主のエントリを読んでいる訳です。
そのエントリの、どの論旨に対して自分はどう思っているかを第三者にも適確に理解してもらえるように表現するにはどうしたらいいか?
これが今、私が考え込んでいる難問です。
って
また、尻切れトンボみたいなコメントになってしまい
没にしようかと思いましたが、えーーーい っと 今回はクリックしてみます。
(小声で言います)
上のコメントの何が気に入らないか?って。 まず、私が何ら自分なりの結論を書いていないともいえる点です。
私の抱えている難問など、第三者には「あっそ」で御仕舞だと思われます。
第三者からすれば、この人、一体何を(あるいは、一体何のために)書きにきたのだろう? という感慨を持たれかねないコメントと化しているでしょう。
次に気に入らないのは、今回私は、はやしさんの論旨には一応相応した形でコメントしているとはいえるのでしょうが、それは、あくまで論旨のうちの、サブのサブあたりについてコメントしているにすぎない点です。(あくまでそれは、論旨を補完あるいは補強している部分なので、それはサブのサブの論旨ともいえないかもしれませんね。)
サブのサブの論旨についてコメントをつけるにしても、少なくとも礼儀として、メインの論旨に対して、自分の考えを何がしかは書くべきでしょう。
そんなこんなを、私のコメントの本文に「端的に」取り入れる文章がどうしても書けない、それが、私の今の悩みです。
もちろん、望ましい前提条件としては、そのそれぞれが、書かれたものを妥当に解釈し、そして思うこと考えるところをなるだけ一意性を持ったかたちで表出するべき、ではあるでしょう。ただ、これはあくまで「望ましい」というにとどまり、じっさいには、解釈にせよ表出にせよ、それらが曇りのない一意性に収束するということは、「ほとんどまれ」ではないにせよ、そうではないことがあっても全然おかしくはないわけです。
では、どうするか? それはごくたんじゅんなことで、とりあえず思うこと考えることは言い、そして分からぬ点に関しては聞きかえしてみること、です。たぶん、ぷっつん大吉さんのなかには、「理想的で曇りのないやりとり」のようなものがあり、それが表出のさまたげになっていると思われますが、たぶん、そういうものは、「幻想」とまでは言いませんが、それほどあることでもありません。だいいち、ひとが何かを書き、そしてそうして書かれたものについてまた何かを思い考えるとき、じっさいに自分が書いたり思ったり考えたりしてることについて、「曇りのない理解」は有していないものですから。
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