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参考文献の提示法がちゃんとしている人は内容もちゃんとしていることが多い。
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課題提出前に課題についてあれやこれや心配して相談に来る人の課題の出来は相談に来た時点でたいてい「うん、これだったらとくに問題ないよ」というものであるいっぽう、提出された課題を見て「どうして提出前に相談に来てくれなかったの!」と思わされる人にかぎって相談に来ない。
ぼくが受けもっている授業の課題であるペーパーの締め切りが明後日に迫り、受講生のみなさんからのペーパー添削依頼が怒涛のように押しよせていてなかなかたいへんなんですが、それはさておき、今日オフィス・アワーのときに訪ねてきた人のペーパーに "deconstruct" の一語を発見したので「この言葉は、すごーく特殊な意味合いで使われるから、とくに哲学の課題のときには使わないほうがいいよ」と助言しつつ「デリダとか読むの?」と聞いたところ、「デリダって誰?」みたいな反応だったので、この言葉はデリダのもとをかんぜんに離れ(おそらくはデリダがあまり望まなかったであろうかたちで)人口に膾炙しているんだなあと感じいった次第です。
アリストテレスの『自然学』をローブ古典文庫で読みながら「おや?」と思ったところがある。とりあえず、その「おや?」と思ったところのギリシア語原文とその英訳を引用する。
(ギリシア語原文)
τὸ εἰς ἄπειρον διαιρετὸν συνεχὲς ὄν.

(その英訳)
the continuous is that which is susceptible of division without limit.
上の英訳だけを読む分には、この「連続であること」についての記述はたんに『自然学』巻頭にあらわれる "every continuum is divisible without limit" の繰り返しであって、取り立ててあれこれ言うようなものでもない。ただ、そのギリシア語原文もあわせて読むと、「もしかしてアリストテレスは『連続である』ということについて、深甚なまちがいをおかしているのではないか?」という疑惑がわいてくる。というのも、ギリシア語原文で言われているのは、英訳で言われているような「連続なものは、際限なく分割可能できる」ということではなく、その逆、つまり「際限なく分割できるものは連続である」ということで、これは、非連続である有理数にも当てはまる(任意の二つの有理数のあいだにはかならず有理数が存在し(つまり、ある有理数と有理数のあいだでかならず分割可能)、そして、この言明の任意性により、そうした「二つの有理数のあいだ」は無限に存在する(つまり、有理数の集まりは無限に分割可能))ということからも分かるとおり、端的に偽であるからだ。この解釈が妥当と思われることを示すために、「連続なものは、際限なく分割できる」と言われている『自然学』第一書の該当部分を次に示す。
(ギリシア語原文)
εἰς ἄπειρον γὰρ διαιρετὸν τὸ συνεχές.

(その英訳)
every continuum is divisible without limit.
上にかかげた二つのギリシア語原文 "τὸ εἰς ἄπειρον διαιρετὸν συνεχὲς ὄν" と "εἰς ἄπειρον γὰρ διαιρετὸν τὸ συνεχές" とのあいだの決定的なちがいは、定冠詞 "τὸ" の位置だ。これは、初級ギリシア語講座のごくはじめのほうで習うことがらだと思うのだけど、「…は~である」という文章において、その主語「…」を示す表現には通常(それが固有名詞である場合ですら)定冠詞が付される。たとえば、二つの形容詞 "παῖς"(「若い」)と "καλός"(「見目うるわしい」)があたえられたとき、"ὁ παῖς καλός" は「その若者は見目うるわしい」を意味し(「定冠詞+形容詞」が「(形容詞)なもの・こと」を意味するのは、英語と同じ)"παῖς ὁ καλός" は「その見目うるわしいものは若い」を意味する。つまり、このことを考えあわせると、最初にかかげたギリシア語原文において「連続である」を意味する "συνεχὲς" には定冠詞が付いておらず、ぎゃくに、「際限なく分割できる」を意味する "εἰς ἄπειρον διαιρετὸν" には定冠詞が付いていることから、この文全体は「際限なく分割できるものは連続できる」と解釈するのが妥当なように思われる。

果たして、アリストテレスが「連続である」ということについて深甚なまちがいをおかしているのか、それとも、ぼくのギリシア語解釈が深甚にだめなのか。どちらもありうるだけに、悩ましい。
中世ラテン語で書かれた文献を読んでいると、「心に火が燃えるように sicud ignis materialis agit in animam」という文章に出くわした。"Ignis materialis"(字義どおりには、「木を燃やした火」)という言い回しが気になったので調べてみると、中世の怪談で「夜、火に出くわしても、おそれるな。ただ、火を通りすぎたあと、それを振りかえってはならない」というふうにこの "ignis materialis" が出てくることが分かった。

さらに、この「火=霊」という捉え方はデンマークにもあり、何か超常的なことに出くわしたとき、その超常的なことが災禍をまねかないよう、家のなかに入る前に玄関口から家のなかをのぞき見て、「(火を燃やしてそこから発せられる)光に見られる前に、こちらが先に光を見なければならない Man skal se lyset, för det ser en」と、印象的かつ不気味なことが言われていたらしい。

思えば、日本でも、「鬼火」「狐火」というかたちで、火は「人ならぬもの」と結びついている。これはたぶん、「火」というものが、目には見えるけれども手でさわれるような「もの」ではないという点で、「霊」と類似していると考えられたためだろう。こういう感じ方の、洋の東西を問わない相同性というのは、ちょっとおもしろい。

(ちなみに、冒頭「心」と訳した "anima" の原義は「風」なので(ゆえに、冒頭の文章は「風にゆれる火」というイメージも喚起する)、「心=見えない風」と「霊=見える火」という対照も感じられ、それもおもしろい)
もちろん、それはそれで「役立つ」にはちがいないんでしょうけど、ケーキやピザの切り分けなんてテキトーでええやんと思っちゃうんですよね。いや、そういう切り分けに正確さをもとめる人がいるであろうことも理解できるんですが。(しかも、ぼくがたまたま目にした例はケーキを三等分にするもので、それだったらわざわざ三角関数にご登場ねがうまでもない)
音楽をつくる人はたれでも覚えのあることだろうけど、楽想というのはいっきょにくる。つまり、曲のはじまりからおわりまで、それなりにこまかいアレンジもほどこされた状態で、いっしゅんのうちに全体がおとづれる。そしておなじことは文章にもいえて、文のつらなりが、それら部分と部分のびみょうなつながりをともなって、いっしゅんのうちにおとづれる。ただ、かなしいかな、音楽にせよ文章にせよ、それらは時間軸にかんして単線的にしかあらわすことができず、ゆえに、いっきょにおとづれたものをつかまえ、音符や書字として固定することはとてもむずかしい。いっきょに、いっときにきたものを、無慈悲にながれる時間のなかで音符や書字として一つひとつおきなおしていると、ある〈完全体〉としていっきょにふってきたもののそこかしこがぼろぼろとくずれていく。それは、時空にとらわれた身としてはしかたのないこととはいえ、ちょっとおしいことでもある。
 
(クリックすると大きなものが見られます)

Twitter 上で、読書感想文のテンプレが話題になっていたので、そうしたテンプレにのっとって読書感想文を書いてみました。

ちなみに、ぼくはこういうテンプレの利用にそれほど反対ではなく、何となれば、このようなテンプレがなくても(読書感想文にかぎらず)秩序ある文章が書ける人はおおかた、テンプレがあったところでそのテンプレの存在をてきとうにいなし、あまつさえある場合にはそういう枠組みのなかでこそできるような遊戯に打ち興じることができるであろうし、ぎゃくに、こうしたテンプレがなければ何も書けないという人は、テンプレの導きによってなにがしかは書けるようになるはずで、結果、全体としては能力の底上げに資するであろう、と思われるからです。

(これに対して、「こうしたテンプレの存在ゆえ、テンプレ的な文章しか書けなくなってしまった人が増えている」というテンプレ不要論が出されるかもしれませんが、これしきのテンプレで型にはまってしまうような人はそもそも、文章を書くということが向いていないのでしょうし、それに、テンプレ以下の、てんでなっていない文章が量産されるより、テンプレ的な、没個性的ではあるけど言いたいことの要点は分かるという文章が量産されたほうがよほどいいのではないでしょうか)
そういうものを書きたい。
ある人(ここで、そのある人を「A さん」と呼ぼう)の信念体系内ではある命題 a が導出不能でも別のある人(ここで、その別のある人を「B さん」と呼ぼう)の体系内ではそれが導出可能かつ B さんが命題 a を主張しているとき、B さんが A さんに「それはおかしい」と言ったら A さんが「でも、お前はその a を主張しているではないか」と言う場合がある。また、A さんの信念体系内ではある命題 b が導出可能でも B さんの体系内ではそれは導出不能なとき、B さんが A さんに「それはおかしい」と言う場合もある。どちらも、自分の信念体系が相手のそれと同一であることを前提にしているけれど、ある人の信念体系がまた別のある人のそれと同一であるとする根拠は一般的にはなく、じっさいのところ、同一であることはあまり多くないように思われる。だから、相手の主張に異を唱える場合(あるいは、自分の主張に異を唱えられた場合)、その主張が拠っている相手の(あるいは、自分の主張に異を唱えられた場合には、自分の)信念体系をまずは吟味したほうがいい。
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