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ヒュームが『人性論』で提出した、「である」という記述命題から「べきである」という規範命題は導出できるか、というとても有名な問題。
ヒューム自身は『人性論』において「んなことはできん」と言っており、後世の哲学者たちも、それにならえ、というわけでもないだろうが、おおかたは「できないっしょ」というところに落ち着いているように見える。
たしかに、そもそも「規範」というもの自体、地域や時代によって変わったりもするので、そうした規範を扱う命題も一意的な値を持つようには思えない。一意的な値、つまり固定された真偽値を持つ記述命題から、規範命題であれ何であれ、値不定の命題をいかに導出するのか、これはなかなかむずかしいような気もする。
ただ、そう感じる一方で、形式的にはそんなにむずかしいことではないのではないか、とも思う。ひとつのやりかたとしては、まず、「規範公理」のようなものを設定する。これは、ある地域ある時代において「べきである」と認識されており、他の規範公理から導出できないような最小の公理系からなる、と考えることができる(もっとも、こうしたことは言うは易しで、じっさいにそうした公理系を設定するのはなかなか大変だろうが、でも、できない相談とも思えない)。
もっとも、言うまでもなく、こうした解決策はまったくヒュームの疑問に答えていない。というか、ある意味、ヒュームの言を認めた結果、とも言える。導出できないから公理ってことにしちゃいました、ということだから。
さて、それ以外に道はないだろうか? 何となく、抜け道はあるような気もする。分からない。ちょっと考えてみよう。
そもそも「〜べきだ」というのは宮本さんがおっしゃるように人間の目的が前提になければならないので、別に目的なんか持っていない自然からそれらは導けない。「〜べきだ」と言われる対象は、そうすべきだったのに違う選択をした意識をもつ何ものかであるはず。だから「〜べきだ」といわれなくてはいけない対象は、そうしないこともそうすることも出来る自由を持っていなくてはならないし、自分の選択に責任を持っていなくてはならない。
ならば「〜である」といわれる自然が「〜べきだ」といわれなくてはならないなら、自由にAかBか選べる状態であり、一方を選ぶことに自覚的な責任を持っているはずである(自然がそのような状態であるということ事態、自然ではないような気もしますが)。ある種の存在論ならば、存在するすべてをそういった自由・責任と結び付けられるかもしれませんが、これは邪道でしょうか?
無駄に長いし中身がなくてすみません。。。
もっとも、このエントリの内容自体、「素描の素描」に留まっており、ヒュームの議論に端を発するIs-Ought Problemをめぐる議論の転変や、規範論理での形式化の具体例も提示しなければ、十分な理解はむずかしいので仕方がない、とも言える。
ただやはり、長谷部さんが言うとおり、こと人間主体となると、そこには選択可能性という問題はあるんですが、とりあえずそのことはかっこに括って突き進んでもそれほど問題はないかな、とも思います。選択可能性があろうとなかろうと、規範は規範、というところもありますし、さらに、自然に関する事柄にしても、それが意志を持ったそれかどうかということを棚上げすれば、自然のプロセスというのもその分岐点ごとに確率的な「選択」が行われている、と解釈することもできるからです。
とはいえ、エントリで言ったことの繰り返しですが、こうしたフレームワークを述べるのは容易いことで、問題はそれから、なんですが。
…であるべき。という「目的」が混入してるんじゃないか?
我々の自然(遺伝子の振る舞い)はそういうものなんじゃないのか?
「生き延びて繁殖し、適度に繁栄する。」
その目的から逃れられうる個体など考えられるのか?
「宗教」抜きで。
(無意味に短くて、行間を読ませる負担と、余韻とが多すぎですみません。)
そしてまた、「べきである」と言われるものも、何らかの自然状態(たとえば、遺伝子の塩基配列)に帰されるものだとしても、現象として考えればその場合も依然「である」と「べきである」の別は立てられる。この場合も、おれにとってはそれだけで十分。
もっとも、そうしたアプローチが、形式化に益するところがありそうであれば、無節操にどんどん取り込んじゃおう、とは思うけど。
あと、分かっちゃいるだろうけど、宮本さん、言ってることやや外してるよ。それは、行間、とか、余韻、とか、そういうことではなく。
で、「アリストテレスは関係性の存在論的位相に定位される」って、アリストテレスの言ってることは、何かと何かはあるとして、その何か同士の関係性を考えると、それはどういう在り方なのか、を問うている、ってこと? もしそうだとすれば、それを問うたのはひとりアリストテレスってわけでもないと思うし、さらに、そうした問いがアリストテレスにあって固有のものとして立ち表れている、ってこともないと思う。まあ、これは、もうちょっと詳述してもらわんとよく分からないな。
ここから繋がってる話で、
「そうしたアプローチが、形式化に益するところがありそうであれば、」ってことならそれは無いだろうし、「ここでのセッティングから言えばあんま関係ない」というのはその通りなんだ。
「それを問うたのはひとりアリストテレスってわけでもない」のはもちろん、ブッダや龍樹や「東洋」を引っ張り出さないで、「西洋」の範疇で最初にそうしたのがアリ…だったってこと。
「詳述」は、いずれそのうちに、…。
また、じっさいのところ、アリストテレスに冠せられている「関係性の存在論的位相に定位される」ということが、構文論的にも意味論的にも不可解なので、何とも言いようがない。以後、この議論を続行するのであれば、「関係性の存在論的位相に定位される」が何を意味しているのかを明確にすることから再出発せられたい。
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