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いつも楽しく読まさせていただいており、その上、「集合論雑記」には大変勉強させてもらっているかがみさんの日記を読んでいると、「とんでもの諸相」と名付けられた記事を見つけた(かがみさんは「とんでも」と書かれているけど、おれはカタカナ表記の「トンデモ」のほうがしっくりくるので、勝手にカタカナにしちゃった部分があることを付記しておきます)。
詳しくはかがみさんの元の文章を読んでもらえればc'est tout!ではあるんだけど、かいつまんでポイントを言うと、なぜモデル論や集合論がトンデモの餌食になるのか、ということと、トンデモさんたちの特性を箇条書きで挙げていて、これが非常にうなずけもし、そして、もって他山の石としたいという自戒もあるので、ここに箇条書き部分だけ引用させていただく。
まず、なぜモデル論や集合論がトンデモの餌食になるのか。それは、
- 一見難しそうだがちょっと勉強するとなんとなく意味が分かったつもりになれる部分もある。
- 意味が分かると一見直感に反する意外な結果が多い。
- 形式とその意味解釈とが密接に関連した分野である。
というモデル論・集合論の特質に、トンデモさんたちが引き寄せられてしまうからだ。そして、このことと相即的に、次のような「トンデモの諸相」が挙げられる。
- 言葉に惑わされやすい。
- 形式と意味を混同する。
- 先人の努力により今では非常に体系化され分かりやすくなった基本的な部分を真剣に勉強していない。
- 論理よりも直感を重視する。論理に対するきびしさが足りない。
- 人の言うことに耳を貸さない。
- 整合性に関する直感があんまりなさそう。
うーん、いるよね、こういう人、と言うしかないんだけど(ここでまた、どこかの「正義感」溢れるおひとからツッコミが入りそうだから先回りして言っておくと、ええ、そうですよ、おれはこの「トンデモの諸相」を見て、真っ先に石飛さん、そして宮本さんを思いうかべましたよ)、とくに胸に留めておきたいのが「人の言うことに耳を貸さない」というトンデモさんの特質につけられたかがみさんのコメント。
とんでもの人に一生懸命「それは違いますよ」と説明する良心的な人もたくさんいる訳ですが、これははっきり言いまして時間の無駄です!!
いや、ほんと、その通り。身に沁みます。
無矛盾性と完全性とどちらかを選ばなきゃならないなら完全性のほうを迷わずに選んでしまう。宮本浩樹なのでした。
…で、次にブラウン運動。この名前も一般化してるから使っているけど、数学的にはウイナー過程。サイバネティクスの創始者にて現代確率論の立役者の一人であるウイナーの<定義>した形式であって、事実に対応させる場合は<仮説>あるいは<モデル>にすぎない。おそらく、実際に1827年にブラウンが観察した花粉のジグザグ運動という<内容>あるいは<事実>と、ピッタリと対応しているわけではないんだよね。この事情を理解できないヤツが多いし、そこまで到達しないのに、意見を開陳する輩も多い。
楽しんで頂けたようでうれしいです。何か気の利いたことを書けば良いとは思いますが、なかなか思いつきませんので今日はご挨拶ということで失礼致します。
今後ともよろしくお願い致します。
いささかこちらの身に引き寄せてことを捉えすぎかもしれませんが、かがみさんの言うことは集合論がらみのことに限らず、シンパシーを感じる部分が相当あります。
これからも読まさせていただきますので、こちらこそよろしくお願いします。
それでなくとも、いつもながらのがさつな「全称化」にもあきれるし(ある領域で、昔より今がいい、という判断を下したからといって、別の領域で同様の判断が下されるとは限らない)、さんざん批判の対象(科学/技術)のお世話になっておきながら、正鵠を射た、とは口が裂けても言えないような稚拙な当てこすりしか言えないようじゃ、「相手にしてらんないよ」とそっぽを向かれても自業自得だろう。
ほんと、宮本さん、おれが言ってることの、何を聞いてるの?
集合論の不幸は、この分野は数学の歴史でも新しいところで、全くと言っていいほど高校では習わないことにもよると思います。
それゆえにか???、大学受験にも、証券アナリスト試験にも、国家公務員一種試験にも・・・、この分野の数学だけは絶対に出てこない。
ゆえに、最新の分野をアップできていない、あるいは、試験に出る分野の数学しか勉強していない人間には、かなり難解です。当然私には難解です。
集合論ってのは、「習ったことがない」から皆さん結構「恐いもの知らず」なんだと思います。
直感というより、山勘なんですが、「トンデモ集合論」好きの人には、かなりの数、集合論以前の数学を、ほとんど理解していらっしゃらない方も多いのでは??
素人ながら、ニュートン力学をちゃんと理解できずに、相対性理論や量子力学が分かる訳がないと思いますが。
集合論に関して、「しゅーごーろんボン」って感じで、小説のように書いてある本は沢山あり、まあ、それはさすがに私も読めるのですが、しかし、しかし、本当の数学書になると、本屋に行って立ち読みしても、すぐに読むのが嫌になります。 理由は、非常に「難解」だからです。
「トンデモ集合論」好きの人には、結構、数学の基礎の基礎を理解せずに「しゅーごーろんボン」ってのを読んで集合論を理解した気になっている人が多いのでは??
って、ことで、一度、高校レベルの数学大会でも、一度本当にすればいいと思います。 はやしさん。
参加資格(何でしたら参加義務!!)は、はやしさんのブログ(やATLS)で、(正当、トンデモにかかわらず)自ら集合論を開陳した人ということで。
きっと、トンデモ好きの何人かのかたは、「恐いもの」の原点を知ってというか、思い出して、きっとトンデモを言う気力がうせると思います。
完全性;全ての真である命題が証明出来る。
形式化された世界(論理空間)で定義されたこれらの概念を、別様に形式化された世界(現実世界)についてなんらかの言明をするための喩えとして使っています。
公理的集合論について「今では非常に体系化され分かりやすくなった基本的な部分を真剣に勉強していない。」ので、まずい喩えになっている可能性は大ですから、その場合はよく勉強された方から指摘していただければと思い、ここにコメントしたことを思い出します。
「・・・もし矛盾をはらんでいるのならば、修正するかもしくは超越的な概念を考え、矛盾の解消を行う必要がある。」のは当然と考え、インド哲学の伝統的な概念である「梵我一如」を借りてきた事がありましたが、余り上手くいかなかったようです。
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ただ、かがみさんの「とんでもの諸相」や、はやしさんの発言など拝見しますと、「宗教原理主義というものはこうやって発生し、成長していくものなのだろうな。」という感が否めません。
西洋的一神教的直線的時間概念に基づく進歩史観を反省無しに採用し、現在の定説が最も良いものであるとお考えなのでしょうか。
不磨の大典である公理的集合論が不当な用いられ方をされているのを見るのは我慢なりませんか?
ロケットや飛行機を飛ばす事ができるのは西洋科学/技術のお陰だから感謝して学ぶべきですか?(藤崎さん)
こちらへ移ってもいいと思います。
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好き嫌いのレベルで、もし科学が嫌いなら、数学なんかに言及しなけりゃいいのにと思います。
大声で、「俺は科学が嫌いだーーー」って言ったらいいと思います。
それは単なる人の好みの問題なので、だーれも文句は言わないと思います。
しかし、「俺は科学が嫌いだーーー」っていうのに、わざわざ、似非っぽい科学を用いるから、科学を「学問」としてとらえている人から、初めは親切な指摘を受け、最後は、聞く耳持たぬ姿にあきれられるのではないでしょうか。
科学に「人間的な意味も価値」もありません。
また、だからこそ、科学は科学でありえるのだと思います。(いや、科学もどんな学問も、結構、哲学的な課題をしょいこむことがある なんて、野暮な突っ込みは、なしネ。)
誤謬を指摘する方は、科学は単にこの世の現象を説明しているだけの学問(・・・物理はともかく、数学は、そもそも、そんな学問じゃないよなんて、野暮な突っ込みはなしネ)として淡々と述べられるのですが、聞く方は、ほとんどの場合、本来は「人間的な意味や価値」に興味がおありで、それで自分の考えている「人間的な意味や価値」を正当化するのに既に科学を濫用されており、その誤謬を指摘されて認めてしまうと自分の考えている「人間的な意味や価値」に穴が開くから、頑迷でかつ絶対に譲らないのだと思います。
哲学なんて、2500年前は、ずべての学問の頂点だったのでしょうが、今や、科学が育って出て行った抜け殻みたいなもの。
哲学にご執心な人は、哲学をひたすらやっていたらいいと思います。
人の勝手ですから。
しかし、株じゃないんですから、いくら、子供が後から大きくなったっていったって、ニッポン放送とフジテレビの関係のように、哲学を買い占めても科学は支配できないことくらいは理解しておくべきでしょう。
とかなんとかボロクソ言っておきながら、偉大なる無駄、そして抜け殻以外の何ものでもない(欧州大陸系)哲学のことが、自分でもとても好きだと思います。w
そいで、「勝手に」ドゥルーズを読んでいます。
なぜ、インドでロケットが飛ばなかったか?
まさか、インドでは時間が・・・、とか、インドは西欧一神教の発想とは違うから・・・、そんな説明をする人はいないでしょう。
それは、そのロケットを飛ばせるだけのロケットの科学水準が未熟だからです。
科学は、非常に客観性が高い学問分野で、同じ科学は、インドでも、アメリカでも成立します。だから、アメリカの科学技術水準でもって、インドの地でロケットを飛ばすのは簡単。
科学には、勿論、功罪相半ばする面があると思いますが、それは、「使い方」の段階で初めて問題になるのであって、「使い方」をどうするか以前の段階では、功も罪もありません。
ロケット工学とは、ロケットを飛ばす科学技術のことで、ロケットを飛ばすことの是非を問う学問ではありません。
脳の科学というか「吉」病の問題で、「おフランス思想」が、いかに、人類に不幸の種をまいてきたかを、かなり説いたつもりですが、そういう思想の類とは違い、科学というのは、本当に使いようによっては、良いようにも使えるものです。
逆に、フロイトやラカンのように、本当に哲学思想系の学問って、「使いよう」の段階までも行かないし、また、実際使ってみたら、だいたいが、ろくなことがない。(・・・っていったら、ちょっと英米系哲学に失礼ですね。w)
「吉」の陰性症状が、苦痛をあまりともなわずに、治せるようになってきたというのは、一にもニにも科学のおかげです。
ゲノムの解析が将来、逆に「「吉」遺伝子を持つもの/持たないもの」という差別に利用される可能性も十二分にあります。
しかし、それは、本当に「使いよう」のレベルで発生する問題です。
事実として、科学の領域はどんどん膨大になり、そして、また、一般ピープルには、なかなか簡単には理解できなくなってきています。
ゆえに、科学は、ちゃんと理解しておかないと「使いよう」の功罪を議論する部分で、「トンデモ」が沢山出現します。
(「例えば、遺伝子組み換え大豆を食べると、自分の体内の遺伝子が組み代わる」という「トンデモ」理解によって、一方的に遺伝子組み換え野菜を否定するとか。ちなみに遺伝子大豆の問題は、子孫を残さない、確かハエから取ったキメラ遺伝子を持つものがどんどん出てきたら、生態系にどういう影響をするかが読めない点でしょう。・・・しかし、この私の理解も「ト」かもしれません。)
だからこそ、科学を理解しておくことは重要だと思います。
しかし、「俺は科学は嫌いだ・・・」って人は、それはそれでいいと思います。
ただ、ろくに科学を知らないのだから、科学のからむ議論にはあまり参加しないほうがいいというそれだけです。
「あえて」「科学の価値」を問うとすれば、ロケットが飛ぶから科学に価値があるのではなく、どう利用するか「使い方」が議論できる水準の代物だから価値があるのでしょうね。
学問のとしてのフロイトやラカンに何ら価値はないでしょう。「使いようがない」し、単に有害無益ですから。
フロイトやラカンに何からの「使い方」のレベルで価値を見出す人ってのは、ほとんど、「トンデモ遺伝子大豆解釈によって書かれたホラー小説が楽しい」って、言っているのと何ら代わりありません。確かにその手のホラー小説はホラー好きのフェチっぽい人には楽しいかもしれませんが、その背後にどれだけ迷惑を蒙っている人が沢山いるかを知るべきでしょう。
で、ですね、現代の、と言うのが言い過ぎなら、大学理学部の教養課程以上で教わる数学というのは、科目に「集合論」と謳ってはいなくとも、十中八九それらは集合論的フォーマリスムで記述されているわけで、プロパーに集合論を勉強する、という人以外も、好むと好まざるとに関わらず、それなりに集合論のお世話にならざるをえないわけです。ですから、もちろん各種公理の独立性云々だとか、巨大基数公理がどうとか、というトピックは別として(プロパーな集合論的には、これらのトピックこそが面白いわけですが)、集合論についてある程度の教養は身に付けておくべきだし、付けておかざるをえない、と思います。
もっとも、大学理学部教養程度にずっと及ばないような人が、集合論の、それもかなりプロパーな部分について云々する、というのは、やっぱり耳にたっぷり唾して聞かざるをえないし、「他にやるべきことがあるんじゃない?」という気がするのもたしかです。まあ、集合論をがっつりやるにしても、「知識」としての「高校数学」は役に立たない、もしくは、それなしでも学習できる、というのは、表層的にはそうかもしれませんが、ただ、高校数学というのは本来的に、「知識」を学ぶ科目ではないわけで、そこいら辺がちょっと理解されていないのかな、とも思います。
ただ、トンデモの人たちは、科学や数学を批判するのに、まさに当の批判されるべき対象を裏側からこっそり密輸入していたりするから性質が悪いですね。これは、自覚的ならまだしも、おおむね無意識の産物でしょうから、本当に批判したいのであれば、まずはそこをどうにかすればいいのに、と思います。こう言うとまた、「内在批判というものは……」とか言い出しそうですが。
あと、価値中立性、および科学時代の哲学に関しては、でっかいトピックでもありますし、それなりに参照すべき文献もありますので、コメントは簡単にすませます。
まず前者については、たしかに、ザッハリヒには科学というものは「中立」でしょうが、プラグマチックにはなかなかそう言い切ってことをすませられない部分もあったりするわけです。そこいらの匙加減をどうするか。もちろん、カイザーさんが想定しておられるような状況というのは、斯様なプラグマチズムが発動する事態ではないことが大抵である、とは思います。
後者については、もちろんその「哲学」如何ですが、別段「無用の長物」というわけでもなく、時と場合によってはじゅうぶんに「役立つもの」であると思いますが、そもそも、以前から口をすっぱくして言い続けてることですが、科学にせよ、そして哲学にせよ、役に立つか立たないかなんてことは、ぼくにとっては死ぬほどどうでもいいことで、要は、面白いか面白くないか、これだけです。そして、「科学vs.哲学」だなんていう対立図式にもうんざりで、どっちがえらいだのえらくないだのだなんてのも、どうでもいいです。これは「科学」側の人間には案外共有されている認識だと思うのですが。
それも含めて、ほとんどカイザーさんと意見を同じうするのですが一点だけ、フロイトとラカンは、「学問的には人畜無害」って、「全ての学問は人畜無害」(考えるだけならオッケー)という命題を認めるのでなければ、そうとも言い切れないと思います。ぼくは立場上、「考えるだけならオッケー」を支持するものですが、「にしても」感が濃厚に漂います。
「宗教原理主義というものはどうやって発生し、成長していくものなの」か?
を滔々と論じなきゃいけない所なんだけど、
そういう「ああいえばこういう」的なやりとりは面白くない。
はやしさんの議論の前提を確認するのが先決だろうから、三つほど。
1)形式と意味は完全に分離できる。
2)メタレベルとオブジェクトレベルは完全に分離できる。
3)はやしと宮本浩樹は完全に分離できる。
はやしさんがこういう前提を持っている事は薄々感じてたけど、それは「かのように」振る舞う。決意っていうか、便宜的設定っていうか、そういうものかなとも思ってたんだ。
それは「根拠と正当性」を提示する必要の無い「当然」の事実なのかな?
そして、宮本さんのやり口において疑問を感じるのは、そうした数学における便宜的切り分けを、この「実世界」にいかにして持ち込めるのか、ということ。おれはこの実世界について、1から3の主張のいずれにも与したことはない。
で、数学で用いられるような形式化以外の形式化の一例を挙げてみてよ。
「数学における便宜的切り分けを、この『実世界』にいかにして持ち込めるのか」?
っていう疑問だけど、それは
「『実世界』とはなにか?」という問いを誘わないかい?
4)数学と実世界を完全に分離できる。
っていう第4番目の分離テーゼとともに。
完全な形じゃなくても、何らかのかたちで形式化されていないものが我々に認識可能だとは思えないんだ。
で、「何らかのかたちで形式化されていないものが我々に認識可能だとは思えない」って、それはまさにカント的主題だと思うんだけど、それは「そうかなあ」と思うと同時に、だからと言って、「実世界」と数学的形式化がある一定の閾値を超えて繋げられる、つまり、厚みなしに切り結ばれる、とは言えない。
また、たしかに、「数学」はこの「実世界」に埋め込まれてはいるわけで、そういう意味で「完全に分離できる」とは思えないけど、だからと言って、「実世界」と数学的形式化がある一定の閾値を超えて繋げられる、つまり、厚みなしに切り結ばれる、とは言えない。
数学的形式化と「ある一定の閾値を超えて繋げられる、つまり、厚みなしに切り結ばれる」事の無い「実世界」かぁ。
だんだん明かになりつつあるけど、日付けも変わったし、今日はこのくらいで…。
(また E のキー壊しちゃってFFを強制終了、サファリでカキコしてます。)
で、何が明らかになりつつあるのか、全然分かんないんだけど、この話、あんまオモロないと思う。これだったらふつうに、数学の本を読んでたほうがよっぽどいい。
「実世界とはなにか?」なんて問いは確かにオモロくない。
ただ、はやしさんが「実世界」と言う時にどんなものをイメージしてるのかは気になる。
で、「実世界」とおれが言うとき、どんなものをイメージ、って、イメージもくそも、いま、現に、おれが生きている「この世界」だよ。まあ、それを「実」って言うのはある意味マズイかもしれんけどね。でも、通じるっしょ、ふつう。
代替品にならないっていう意味で。
「現に、おれが生きている『この世界』だよ。」
なんて言われちゃうとまた第3分離テーゼに戻らなきゃならなくなる。
俺が「そうした数学における便宜的切り分けを」持ち込もうとしてるのは、その『実世界』じゃないことは間違いない。
この話を「オモロく」構成出来たらもう一回持ち出すから、ここではこの辺で切り上げる事にする。
ええやろ。
また、「現に、おれが生きている『この世界』」という言明が、なぜ「自分とその他の人は明確に分離できる」という第三テーゼに戻らなくてはならない仕儀をもたらすのかも不明。
さらに、じゃあ宮本さんが「数学における(よる、の間違いではないのか?)便宜的切り分け」を持ち込もうとしてるのは、どの「世界」なのか不明。そもそも、宮本さんにそんな能力があるのか不明。
というわけで、不明なことだらけで、この話が面白いか面白くないかという以前の問題。だいたい、ろくに数学のあれやこれやを知らない人が、この手のことを面白い話に展開できるとは、とてもじゃないけど思えない。
ま、がんばってよ。
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