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最近、何の因果かバディウの『存在と出来事』をやや集中的に読んでいるのだが(今日、この続編である『世界の論理』も買ってしまった……)、思うことはやはり、「斯様な数理的フォーマリズム(具体的には集合論)を用いて存在論を語ることの正当性はどこにあるのか」ということだ。
一般的に、何らかのことがらについての数理的理論化が正当化されるのは、1)そうすることで理論がすっきりまとめられ、理論内での諸概念の聯関も見やすくなる場合、2)そのようにまとめられた理論から導出される「予測」、もしくはその理論によれば要請される「前提条件」が、何らかの検証をパスする場合、に限られるように思う。たとえば、物理なども数理的フォーマリズムを用いてこの現象界について語っているが、上記の二点について申し分ない結果を出しているがゆえに、その数理的理論化は正当化される。
翻ってバディウは、と言えば、その存在論の基底に空集合をおき、そうした空集合の「無規定性」ゆえに「出来事」が保証される、という論の運びをし、あまつさえ「真理」や「主体」を語る段になると強制法(ZFCから一般連続体仮説が独立であることを証明するために用いられるテクニック)を持ち出すのだが、まず正当化条件の1について言えば、『存在と出来事』の分厚さ(索引などを除いて約560ページ。ちなみに続編の『世界の論理』は実に600ページを超える)からも何とはなしに察しがつくように、とてもではないが「すっきりまとめられている」とは言えないし(もっとも、この分厚さでも、語るべきことの多さに比すれば「すっきり」なのだ、と強弁できないことはないが)、正当化条件の2については、そもそも「存在論」という形而上学的言説を何らかの意味で「検証」ができるとは思えない(それでは、そういった形而上学的言説の「正しさ」をどう判断するのか、という問いは、それはそれで興味深いものではあるが)。
そうすると、存在論をバディウのように語ることの「意味」としては、正当化条件1の後半部「諸概念の聯関の見やすさ」だけが候補として残るわけだが、なるほど、この点については、そこで見出される聯関の当否はともかく、それなりの綾はついている。集合論の言葉でギリシア以来の存在論をまとめなおすさまはかっこよくすらあるし、コーエンの強制法を持ち出すくだりなども、めちゃくちゃと言えばめちゃくちゃなのだが、うるさいことを抜きにすれば相当おもしろい。
ただ、とはいえ、こうした語り口はやはり「トンデモ」と断ぜざるを得ないし、そういうものをそういうものとして楽しめる向き以外には危険な書物である。いい子のみんなはまねをしないように。
強制法というか Generic の概念は非常に仮想的ですし、元のモデルからぼんやり見える感じがします。さらに該当する条件に対して、こんなのあり?と思える程の一般性を持つので、存在論の観点から興味を持つ人がいても当然のように思われます。
ただし他の数学的概念と同様、実験的もしくは経験的な検証を十分行わず、「理論」なり「応用」、さらに「解釈」を行うと容易にトンデモ化するのは他の例と同様だと思います。
強制法は、不完全性定理などと比べると(お話だけでは)いまいち分かりにくいし、テクニックとしてもやや難しい面があります。そいういう意味で現行トンデモ理論が少ないのであり、もし一般的に分かりやすい解説書が出版されたりすると、それは非常に良いことなのではありますが、とても印象に残る概念なので、トンデモさん達が砂糖に群がる蟻のごとく吸い寄せられる危険大です(笑)。
私が知っている限り、強制法こそが最もトンデモねたの供給元になりやすい概念であると思います。
たしかに、元のコーエンの考え方自体、「え、そんなのありなの?」という驚きを伴うものですよね。元の世界をがっと拡大して、その拡大された世界を元の世界から垣間みることで、あることの真偽を決定する、というのは、これだけでも色々な哲学的思考を誘うものです。
こうしたことから湧出する存在論的な問いを、実直に問題にする分にはもちろんかまわないし、ぼくとしてもそういう考察を読みたいものだ、と思うのですが、ことここで取り上げているバディウの場合、「数学」というドメインを一気に越えて、ハイデガー言うところの「現存在Dasein」、つまり人間一般の存在論を語るところに強制法(というより、かがみさんも仰っているように、ジェネリックの概念)を持ち出すのは、ぼくとしては非常に、非常に問題に思うところです。
もちろん、こうした他分野での成果というものを、それとは一見関係のなさそうな分野に持ち込むことは、十分な裏付けと検証がありさえすれば、それら両分野にとって素晴らしく実りのあることでしょう(たとえば、モデル理論と代数幾何)。とはいえ、バディウの場合、必要とされる裏付けや検証をすっ飛ばして、ジェネリックの概念を援用した存在論をぶち上げてしまっているので、「トンデモ」の烙印を押さざるを得ない、ということになります。
とはいえ、十分な裏付けや検証がなくても、そうすることで何か興味深い発見や洞察が得られないではない、ともちょっとは思わないではないので(うーん、ちょっと擁護するにしては苦しい口吻ですね)、もう少しバディウを読み込んでから、強制法/ジェネリックがどう(人間的)存在論に援用されているのか紹介したいと思いますので、その折にはまた感想/ご批判をよろしくお願いします。
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